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コラム1「源平合戦図屏風」とは?生田森・一の谷合戦あらすじ

源平の戦い
(治承・寿永の内乱)

平安時代末期、武士が次第に力を強め、国の政治の中心にせまるようになっていきました。まず力を付けたのが平清盛(たいらのきよもり)です。清盛は国政の中心にいた後白河法皇(ごしらかわほうおう)と協調、やがて対立もしながら勢力を拡大していき、晩年には娘が生んだ皇子を天皇につけ(安徳天皇=あんとくてんのう)、ついに朝廷の実権を握るまでにいたりました。

しかしこうして平家の力が全盛に達した治承4(1180)年、後白河法皇の皇子以仁王(もちひとおう)の呼びかけにこたえる形で、全国各地で源氏の挙兵がはじまりました。そうした源氏方の中心となったのが、8月に伊豆国(いずのくに=静岡県東南部)で兵をあげて関東を制圧した源頼朝(みなもとのよりとも)と、9月に木曽(きそ=長野県西南部)で挙兵してやがて北陸方面へと進出していった源義仲(よしなか)でした。

こうした各地の源氏方挙兵に対して清盛は断固とした対決姿勢をとりましたが、頼朝を討つために送り出した遠征軍は、治承4(1180)年10月、駿河国富士川(するがのくにふじがわ=静岡県富士市)で大敗してしまいます。なおも体勢を立て直して軍勢を送ろうとしましたが、もはや彼の寿命は尽きようとしていました。翌治承5(1181)年閏2月、清盛は熱病により世を去ります。

跡を継いだ子息の宗盛(むねもり)ら平家一門は清盛の遺志を継いで各地の源氏方との戦いを進めましたが、折からの飢饉(ききん)の影響も受けて頼朝・義仲に有効な打撃を与えることはできませんでした。やがて寿永2(1183)年5月、越中国倶利伽羅峠(えっちゅうのくにくりからとうげ=富山県小矢部市)で平家勢は義仲勢に大敗北を喫し、7月、義仲勢が都に迫るなか、ついに平家一門は都を捨てて瀬戸内・九州方面へと落ち延びていったのです。

  • 平清盛
    参考:天子摂関御影
    (宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
  • 後白河法皇
    参考:天子摂関御影
    (宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

治承・寿永の内乱

しかし義仲は都の政治に不慣れで、朝廷の後白河法皇と対立してしまいます。さらに閏10月には義仲勢が備中国水島(びっちゅうのくにみずしま=岡山県倉敷市)で平家勢に敗北してしまいました。

こうした状況の中、後白河法皇は鎌倉の頼朝に期待を寄せるようになります。水島の戦いの少し前の10月、後白河は頼朝の東国支配権を公認し、あわせて上洛をうながしました。これにこたえて頼朝が派遣したのが、弟の範頼(のりより)・義経(よしつね)率いる軍勢でした。寿永3(1184)年正月、範頼・義経は宇治川の戦い(京都府宇治市)、瀬田の戦い(滋賀県大津市)で義仲勢を破り、義仲は敗走の途中、近江国粟津(おうみのくにあわづ=滋賀県大津市)で討ち取られました。

治承・寿永の内乱

生田森・一の谷合戦

  • 源範頼
  • 源義経

範頼・義経が義仲を討ち取ったころ、平家は勢力を盛り返し、かつて清盛が住んでいた福原(ふくはら=神戸市兵庫区)まで進出してきていました。これを恐れた後白河法皇は、義仲を討ち取ったばかりの範頼・義経に平家攻撃を命じたのです。

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これをうけて源氏方は京都を出陣し、正面にあたる山陽道(さんようどう)から範頼勢が進軍していきました。裏口にあたる丹波(たんば=京都府西部・兵庫県北東部)方面から進軍した義経勢は、丹波と播磨の国境にあたる三草山(みくさやま)付近(加東市)で平資盛(すけもり)らの軍勢を討ち破り、さらに東播磨を南下して須磨一の谷(神戸市須磨区)を目指して進んでいきました。

源氏方は、2月7日朝から攻撃を開始、範頼勢が生田森(いくたのもり=神戸市中央区)を攻め、須磨一の谷(すまいちのたに=神戸市須磨区)には義経勢が攻めかかりました。両軍が激しく戦う中、勝敗を決めたのは「山手」からの源氏方の攻撃でした。「山手」からの攻撃については、「生田森・一の谷合戦の実像」で述べるようにいくつかの説があります。

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「山手」を破られた平家方は大混乱におちいり、一門の通盛(みちもり)、業盛(なりもり)、忠度(ただのり)、知章(ともあきら)、師盛(もろもり)、清定(きよさだ)、清房(きよふさ)、経正(つねまさ)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)、有力郎党の平盛俊(もりとし)など多くの戦死者を出し、重衡(しげひら)は生け捕られました。こうした大敗北のなか、宗盛・知盛(とももり)らかろうじて生き残った人々は、船で讃岐国屋島(さぬきのくにやしま=香川県高松市)へと落ちのびていったのでした。

平家滅亡と鎌倉幕府の成立

源頼朝参考:源頼朝坐像
(甲府市善光寺蔵)

生田森・一の谷合戦後も平家の勢力は瀬戸内海沿岸に残り、攻撃に向かった範頼の軍勢は兵糧不足もあって苦戦していました。この間義経は京都周辺の警備や平家方残党の追討に努めていましたが、元暦2(1185)年2月になって、義経が再び西国へ出陣することとなりました。

義経は渡辺津(わたなべのつ=大阪市)から荒天をついて四国へ渡り、屋島の平家勢を急襲して破りました。ついで3月、範頼・義経勢は、平家方の最後の拠点となっていた長門国壇ノ浦(ながとのくにだんのうら=山口県下関市)を攻撃、ついに平家一門を滅ぼしたのです。安徳天皇は祖母の二位尼(にいのあま)に抱かれて、三種の神器の一つである宝剣とともに海に沈み、知盛以下の平家一門も多くが入水(じゅすい)して果てました。宗盛は子息の清宗(きよむね)とともに生け捕られ、この年6月に殺害されました。

しかし、壇ノ浦での勝利の直後から頼朝と義経の対立が発生しました。11月、義経は兵を集めるために都を捨てて西国を目指しましたが、大物浦(だいもつうら=尼崎市)を出港したところで嵐にあい行方不明となります。この月の下旬、頼朝は後白河法皇に強要して、義経を探し出すためという名目で、全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)を置くことを認めさせました。これによって頼朝の勢力は東北地方を除く日本全国に広がることになったのです。

その後義経は陸奥国平泉(むつのくにひらいずみ=岩手県平泉町)の奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)のもとへ逃れました。しかし文治5(1189)年、頼朝は奥州藤原氏の当主泰衡(やすひら)に義経を殺させた上で、日本全国の軍勢を動員して東北地方へ出陣し、同氏を滅ぼしました。そして建久3(1192)年、都の後白河法皇が没すると、頼朝は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたのです。

絵解き 源平合戦図屏風
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