『播磨国風土記』を手に

去年制作した、『ひょうご伝説紀行~語り継がれる村・人・習俗~』の中でも取り上げた「伊和大神」は、いろいろな顔を持っている神様だ。多くの解説書で、『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』の中に登場する伊和大神(いわのおおかみ)とオオナムチノミコトは、同じ神様だとされているようだし、アシハラノシコヲノミコトもそうであるらしい(用語解説「伊和大神」の項を参照)。記紀の記述からは「オオクニヌシ」という名もあてられるらしい。僕は神道についてはまったくの門外漢だから、一人の神様がこんなにたくさんの名で呼ばれることが当たり前なのかどうかはわからないけれど、『播磨国風土記』の記事からすると、本来は別々の神様だったものが、朝廷によって神様の系譜が整理される過程で、次第にまとめられたような気がしてならない。ただ『播磨国風土記』では、そのまとまり方が不十分なのではないだろうか。

その当否はともかく、『播磨国風土記』には、オオナムチノミコトとスクナヒコナノミコト、この二人が国造りをした神様としてたびたび登場しているし、各地の神社にも祭られているのをしばしば見かける。風土記に登場する回数と内容からは、オオナムチノミコトの方が主役のようであるが、大小二人の神様に関する記事は、どちらかというと土臭くて、整然と構成された神話というよりは、地域ごとに、人々の暮らしに根づいていた伝承という印象が強い。伝説のページで紹介した「埴の里」の話も、おおらかで素朴な笑いを伝える話である。

そこで今回の伝説紀行では、この二人の神様が関わった場所を訪ねてみることにした。播磨国の広い範囲に散らばっている伝承の地を、すべて巡るのはなかなか大変なことだが、何かの折ごとに訪ねてみるのも良いのではないだろうか。今回は、「埴の里」からの出発である。

用語解説

埴の里と初鹿野

日吉神社(鳥居から)
日吉神社(鳥居から)

「埴の里」の伝承地は、神崎郡神河町比延(かんざきぐんかみかわちょうひえ)にある日吉神社である。JR播但線(ばんたんせん)の寺前駅から、県道404号線を、1kmほど南へ下った所にある大きな神社が、日吉神社である。僕たちが取材に訪れた時は、ちょうど秋祭りの時期であったらしく、たくさんの幟(のぼり)が立てられていた。

日吉神社(看板)
日吉神社(看板)
祭の幟が並ぶ
祭の幟が並ぶ
日吉神社(境内)
日吉神社(境内)

この神社の本殿裏に、スクナヒコナノミコトが担いでいた埴土から変わった岩があるとされている。そして、市川を挟んだ対岸に三角形の山容を見せる初鹿野山(はじかのやま)とその周辺が、オオナムチノミコトの糞(くそ)がササにはじかれて飛び散った場所だそうだ。

『播磨国風土記』の伝承では、この物語の後に、応神天皇(おうじんてんのう)がこの地を訪れて、「この土は土器作りに使える」と述べたので、埴岡という名になったとも記されているので、埴岡については二つの伝説が重なっているのかもしれない。実際には、この地に特に古代の窯跡が多いわけではないし、目立って埴輪が出土するわけでもないので、今のところこの物語に、特別な考古学的意味を与えるわけにはゆかないだろう。 ただ埴岡や初鹿野山は、市川と越知川が合流する地点に近く、ここから下流に向かって一気に平野が開けるから、位置的にも重要な場所と言えそうで、応神天皇がわざわざ訪れたという伝承も、こうしたことを背景にできあがったのではないだろうか。

用語解説

「ぬか」がつく地名

粳岡(遠景)
粳岡(遠景)
粳岡(近景)
粳岡(近景)

埴岡の里から12~3kmほど市川に沿って下った姫路市船津町八幡に、粳岡(ぬかおか)がある。ここは、伊和大神の軍勢がアメノヒボコノミコトの軍勢と戦ったとき、食事のために米をつき、その粳が集まって岡になったという。船津町八幡の集落を通る細い道を北へ抜けたところにある、竹藪におおわれた少し小高い場所なのだが、実際に行ってみると、「岡」という言葉から受ける印象ほど高くはない。ここから東へ2kmほど離れた、福崎町八千種は、アメノヒボコノミコトの軍勢が集結した地点ということになっているから、伊和大神の軍は市川を背に東に向いて、アメノヒボコノミコトの軍は山を背に西を向いて布陣したことになるのだろうか。

糠塚山と万願寺川
糠塚山と万願寺川
糠塚山(近景)
糠塚山(近景)

「ぬか」といえば、加西市網引町には糠塚山(ぬかつかやま)がある。加古川支流の満願寺川の南にある、標高150mほどの山である。一見したところは何でもない山なのだが、『播磨国風土記』では、オオナムチノミコトが近くの村で米をつかせた時、その糠がこの山まで飛び散ったのだという。「米(稲)をつく」というおこないは、粳岡と糠塚山のほかにも何度も登場するが、単に食料としての米を精製するということの他に、何か象徴的な意味があったのだろうか。それとも、米糠を盛り上げたようななだらかな山容から、古代の人たちが素直な空想をめぐらせたのだろうか。 糠塚山の周囲に続く豊かな里山をながめながら、想像してみる。

加西市内には、他にもオオナムチノミコトゆかりの場所がある。豊倉町にあるフラワーセンターの、西に隣接する飯盛山もそうだ。『播磨国風土記』には、「オオナムチノミコトの御飯をこの山に盛った」と記されている。この文だけでは、オオナムチノミコト自身が食するご飯なのか、人々がオオナムチノミコトを祭るための祭事だったのかがわかりにくいが、僕が参照した本では、後者の説を採っていた。そこから2kmほど南の牛居町(うしいちょう)は、風土記に見える、「オオナムチノミコトが碓(うす)を作って稲をついた碓居谷(うすいだに)」に比定されている。風土記にはほかにも、オオナムチノミコトの事跡と関連して箕谷(みのたに)、酒屋谷(さかやだに)という地名がみえる。これらの場所も加西市周辺にあったのだろうが、今の地名からその痕跡を見つけることはできない。

用語解説

揖保川・林田川の流域

さて目を西に転じてみると、播磨西部、揖保川(いぼがわ)や林田川の流域にも、オオナムチノミコトを中心にした伝承地がある。

屏風岩(遠景)
屏風岩(遠景)
天まで届く岩
天まで届く岩

『播磨国風土記』には「御橋山」という地名が見えるが、これは現在のたつの市新宮町觜崎(はしさき)にある屏風岩(びょうぶいわ)に比定されている。「オオナムチノミコトが俵を積み上げて橋にしたので、山の岩が橋に似ている」という伝承であるが、揖保川の対岸あたりからながめると、なるほど上流(北)に向かって順番に岩を積み上げたようにも見える。この岩の段を登って、神様が天に昇ったと考えたのだろう。

峰相山(遠景)
峰相山(遠景)
峰相山と麓の村
峰相山と麓の村

揖保川下流域にはほかにも、アシハラノシコヲノミコトがアメノヒボコノミコトとの国占め競争のとき、大あわてで食事をしてご飯粒をこぼしたという「粒丘(いいぼのおか:たつの市揖保町中臣)」、伊和大神がこの地方の国占めをしたときに、鹿が来て山の上に立ったことから名づけられた「香山里(かぐやまのさと:たつの市新宮町香山)」などがあるし、宍粟市(しそうし)にも、伊和大神やアシハラノシコヲノミコトにゆかりの地名などが点在している。

揖保川の東を流れる林田川流域にも、いくつかの伝承地が残っている。

姫路市伊勢にある峰相山(みねあいさん)は、中世の文献『峰相記』で有名であるが、『播磨国風土記』では、オオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトが、埴岡の里にある「生野の峰」からこの山を見て、「あの山に稲種(いなだね)を置こう」と話しあい、ここに稲種を積み上げたので、山の姿も稲積に似ているとしている。「稲積」とは、刈り取ったままの、穂がついた稲だとされているが、どのあたりがそう見えるのか、現地に立ってみてもよくわからなかった。それをどんなふうに積み上げたのだろう。

林田川の流れ
林田川の流れ
水は多くない
水は多くない

伊勢から林田川に沿って遡ると、昨年の伝説紀行でも取り上げた安師里(あなしのさと)に至る。ここでは伊和大神が安志姫命(あんじひめのみこと)に求婚し、容れられなかったので、石で林田川の上流をせき止めて、別の方へ流れるようにしたという。林田川の水量が少ないことを説明する伝説である。

安志姫神社(鳥居)
安志姫神社(鳥居)
安志姫神社(境内)
安志姫神社(境内)

国造りをした神様(たち)の足跡は、佐用郡、宍粟郡(しそうぐん)、揖保郡(いぼぐん)、神崎郡(かんざきぐん)、飾磨郡(しかまぐん)へと広がっている。今回の紀行ではまわりきれなかったが、『播磨国風土記』には、オオナムチノミコトが、乱暴者の息子ホアカリノミコトを捨ててしまおうとしてその怒りをまねき、船が難破してしまったという伝承もある。その遺称地は、姫路市街の西にいくつか比定されているし、姫路城が建つ姫山――風土記では日女道丘(ひめぢをか)としている――の女神と、「オオナムチスクナヒコネノミコト」が契ったという記事も見える。

編まれてから1300年近くたつ『播磨国風土記』。このとても不思議な本を手に、いろいろな神様たちの舞台をめぐっていると、播磨の古代史がおぼろげに見えてくるような気がする。

伊和神社 北側の参道
伊和神社 北側の参道
伊和神社の拝殿にともる灯
伊和神社の拝殿にともる灯

用語解説