あ行

青倉神社(あおくらじんじゃ)

朝来市川上に所在する神社。社殿は、青倉山中腹に露頭した巨岩の下に建てられている。祭神は稚産霊神(わくむすびのかみ:日本神話では穀物、養蚕の神)。創建年代は不詳。社殿背後の岩壁から流下する滝の水は、眼病に効果があるとして信仰の対象となっており、参拝者が多い。

青倉山(あおくらやま)

朝来市中央部に所在する山。標高は811m。中腹に青倉神社があり、当地の滝の水は眼病に効果があるとして信仰の対象となっている。頂上からの展望が良く登山者も少なくない。

青野ヶ原(あおのがはら)

播州平野の中央部に広がる台地。東は加古川に面する。小野市、加東市、加西市にまたがり、東西3km、南北10km、標高は80~90mを測る。

台地上からは後期旧石器が出土するほか、古墳も分布しているが、酸性土壌である上、水利に恵まれなかったため開発が進まなかった。明治24(1891)年に陸軍演習地となり、太平洋戦争終結後はアメリカ軍に接収されたが、昭和32(1957)年からは自衛隊演習場となった。近年、台地周辺には播磨中央公園、工業団地などが造営され、変貌しつつある。

青野ダム(あおのだむ)

三田市末を流れる武庫川支流の青野川に、洪水調整、灌漑(かんがい)用水の確保などを目的として建設されたダム。1988年竣工。ダム湖は千丈寺湖(せんじょうじこ)と呼ばれる。総貯水量は1,510万立方メートル。

青野ダム建設範囲内では、ダム建設に伴って、後期旧石器時代から中世にわたる、集落、古墳、窯跡など、さまざまな種類の遺跡が発掘調査された。その一部は、現在、青野ダム記念館(三田市末字末野道東2189-1 三田市立青野ダム記念館 079-567-0590)で展示されている。

赤穂城(あこうじょう)

赤穂市上仮屋に所在する江戸時代の城。別名を蓼城(たでのすじょう)という。国史跡。赤穂三角州上にある、典型的な平城である。室町時代から安土桃山時代にかけて、同地には加里屋城、大鷹城があった。縄張りは変形輪郭式。本丸と二の丸が輪郭式に配され、その北側に三の丸が梯郭式に置かれている。天守台は設けられているが、天守閣は建築されなかった。縄張りは甲州流兵学者の近藤正純。

赤穂浪士(あこうろうし)

赤穂義士(あこうぎし)とも呼ぶ。元禄15(1702)年に、吉良義央(きらよしひさ)を襲って、主君浅野長矩(あさのながのり)の仇(あだ)を討った、元赤穂藩士の47名のこと。この事件は「元禄赤穂事件」と呼ばれ、後には事件を題材とした『仮名手本忠臣蔵』をはじめとする小説、芝居などに取り上げられて人気を博した。

浅野氏(あさのし)

浅野氏は、もと常陸国笠間を領したが、1645年に赤穂へ転封され、以後1701年までの間、長直(ながなお)、長友(ながとも)、長矩(ながのり)の三代にわたり赤穂藩主をつとめた。長矩は1701年に、江戸城内で刃傷事件を起こして切腹。浅野家は断絶した。

檳榔(あじまさ)

現代語ではビロウと呼ばれる。学名はLivistona chinensis。ヤシ科の常緑高木。ビンロウと混同されることがあるが別種である。東アジアの亜熱帯に分布し、日本列島での北限は福岡県沖ノ島である。

古代には神聖視された植物で、現在でも、大嘗祭(だいじょうさい:天皇が即位した後初めておこなう、その年の収穫に感謝する祭祀(さいし))においては、天皇が禊(みそぎ:身を清めるための儀式)をする百子帳(ひゃくしちょう:祭祀をおこなうための小屋)の屋根材として用いられている。

安師里(あなしのさと)

『播磨国風土記』に記された里の一つ。現在の姫路市安富町の安志付近に比定される。里名の起源は安師比売神(あなしひめのかみ:安志姫とも表記する)による。『播磨国風土記』によれば、安師比売が伊和大神の求婚を断ったことに怒った伊和大神が、林田川の源流をせき止めて流れを変えてしまったため、水量が少なくなったという。

尼子経久(あまこつねひさ)

戦国大名(1458~1541)。出雲国守護代であった尼子清定の子。はじめ守護代となったが、1484年、室町幕府に追われて流浪した。その後勢力を回復して、因幡(いなば:現在の鳥取県東部)以西の山陰地域を攻略し、山陽道にも進入した。このため周防(すおう:現在の山口県東部)の大内氏と対立したが、自身の配下であった毛利元就(もうりもとなり)が大内氏と結んだため、以後は大内・毛利の両氏と交戦した。

天津神(あまつかみ)

記紀神話で、神の国である高天原(たかまがはら)にいた神。高天原から日本国土へ降ってきた神、およびその子孫の神も天津神と呼ばれる。これに対し、元から地上にいた神を国津神(くにつかみ)と呼ぶ。

アマツヒダカヒコホホデミノミコト
(あまつひだかひこほほでみのみこと)

記紀神話に登場する神。邇邇芸命(ににぎのみこと)が、高天原から九州の高千穂の峰に降り、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)と結婚して産まれた子の一人。表記は天日高日子穂穂出手見命であり、アマツヒコヒコホホデミノミコトとも読む。三人の子は、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、火遠理命(ほおりのみこと)と呼ばれる。このうち火遠理命の別名が、アマツヒダカヒコホホデミノミコトとされている(『古事記』による)。また、火照命は別名を海幸彦(うみさちひこ)、火遠理命は別名を山幸彦(やまさちひこ)ともいう。

阿弥陀如来(あみだにょらい)

阿弥陀仏と同じ。大乗仏教の浄土教の中心をなす仏。修行者であったとき衆生(しゅじょう)救済の願をたて、成仏して後は西方の極楽浄土で教化しているとされる。自力で成仏できない人も、念仏を唱えれば阿弥陀仏の力で救われ、極楽に往生すると説く。平安時代に信仰が高まり、浄土宗・浄土真宗の本尊となっている。

網堂(あみどう)

高砂市伊保東(いほひがし)に所在する堂。時光寺の本尊である、阿弥陀如来像を引き揚げた網が祭られたという。

アメノヒボコノミコト(あめのひぼこのみこと)

天日槍・天日矛とも書く。またアメノヒボコともいう。

記紀や『播磨国風土記』などに記された伝説上の人物。新羅の王子で、妻の阿加流比売(あかるひめ)を追って日本に来たという。その後、越前、近江、丹波などを経て但馬に定着し、その地を開拓したとされている。出石神社の祭神。

天の御柱(あめのみはしら)

国産み伝説に登場する柱。天に届くほどの柱を意味するとされる。イザナギとイザナミが婚姻する際、左右からこの柱を廻り、両者が出会った所で声をかけ合ったという。

粟鹿神社(あわがじんじゃ)

朝来市山東町粟鹿に所在する式内社(しきないしゃ)。但馬五社の一つで、但馬国一宮ともされている。延喜式に定める名神大社(みょうじんたいしゃ)で、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)または日子坐王(ひこいますおう)を祭神とする。勅使門は市指定文化財。

淡路島(あわじしま)

瀬戸内海東部に位置し、大阪湾と播磨灘を画する、瀬戸内海最大(日本列島第11位)の島。面積は596平方キロメートルで、兵庫県土の7.1%を占める。島北端と本州の間は明石海峡、島南端と四国の間は鳴門海峡。島の北半部では、南北にのびる山地が島を東西に分け、南部にも島内最高峰の諭鶴羽山(ゆづるはさん:標高608m)を中心とした山地があって、平野は、両地域の間を流れる三原川(みはらがわ)流域に広がっている。

島内の行政区画は、北部の淡路市、中部の洲本市、南部の南あわじ市からなり、3市を合計した人口は、2007年現在で約153,600人となっている。

淡路名所図会(あわじめいしょずえ)

18世紀末~19世紀初めに制作された名所図会。当時の名所旧跡、寺社などが描かれた肉筆本である。編者は不明。淡路の名所を記した書物としては、暁鐘成(あかつきのかねなり)が編纂した『淡路国名所図絵』(1851)が知られているが、本書は内容が全く異なる。当時の景観などを知る上で重要な資料。

家島(いえしま)

家島群島は播磨灘北西部に位置し、大小40余の島からなる。家島の地名は、『播磨国風土記』にも見える。島名は「えじま」と言いならわされていたが、昭和3(1928)年に町制が施行された際には、「いえしまちょう」と定められた。平成18(2006)年に姫路市に合併された。

家島群島(いえしまぐんとう)

家島群島は播磨灘北西部に位置し、大小40余の島からなる。家島の地名は、『播磨国風土記』にも見える。島名は「えじま」と言いならわされていたが、昭和3(1928)年に町制が施行された際には、「いえしまちょう」と定められた。平成18(2006)年に姫路市に合併された。

家島神社(いえしまじんじゃ)

姫路市家島町宮(みや)に所在する式内社(しきないしゃ)。祭神はオオナムチノミコト、スクナヒコナノミコトと天満大神(てんまんおおかみ)。創立年代は不詳であるが、840年には官社に列せられている。初めは天神(あまつかみ)を祭っていたが、後にオオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトが合祀(ごうし)された。天満大神(菅原道真)を祭神とするのは、天神を天満大神と誤って伝えたためという。

生島(いくしま)

赤穂市東部の坂越湾(さこしわん)にある島。島内の樹林は、対岸にある大避神社の森として長く保護されており、スダジイやアラカシ、タブノキなどが繁茂する暖地性の自然林となっている。植生の重要性から、瀬戸内海国立公園の特別保護区および国の天然記念物に指定されている。

生野銀山(いくのぎんざん)

生野鉱山(いくのこうざん)のこと。朝来市生野町に所在する鉱山。807年に発見されたと伝えられており、2007年で開鉱1,200年を迎えたという。室町時代末期から本格的な開発が始まり、織田信長、羽柴(のち豊臣)秀吉らの支配を経て、江戸幕府直轄の鉱山となった。明治29(1896)年からは三菱の経営となり、採掘が続けられたが、昭和48(1973)年に操業を終えた。現在、鉱山跡地は史跡に指定されており、生野鉱物館があって、旧坑道も見学可能である。

生穂賀茂神社(いくほかもじんじゃ)

淡路市生穂(いくほ)に所在する神社。生穂に京都の上賀茂神社の荘園が置かれていたことから、当地でも賀茂神(かものかみ)が氏神として祭られるようになったとされている。後に、春日神(かすがのかみ:智神)、貴船神(きぶねのかみ:水神)、白鬚神(しらひげのかみ:土神)も祭られるようになったことから、四社明神とも呼ばれて崇敬が厚い。

池田古墳(いけだこふん)

朝来市和田山町平野に所在する古墳。古墳時代中期前半に築造された但馬地域最大の前方後円墳で、全長136m、後円部の直径76mを測る。1重の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。埋葬施設は、古くからの土取り作業によって完全に破壊されているため不明。墳丘からは埴輪類が、周濠からは木製品が出土している。

イザナギノミコト・イザナミノミコト(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)

記紀神話で、日本の国土を産んだとされる男女の神。イザナミノミコトが、火の神を産んだ際に火傷を負って亡くなり、イザナギノミコトがそれを追って黄泉国(よみのくに)を訪ねるという物語は著名である。黄泉国から戻ったイザナギノミコトが、禊(みそぎ)をした際に生まれたのが、アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトで、その後の記紀神話の重要な位置を占める。

出石神社(いずしじんじゃ)

豊岡市出石町宮内に所在する式内社(しきないしゃ)で、但馬五社の一つ。但馬国の一宮(いちのみや)。アメノヒボコを祭神とし、アメノヒボコが新羅よりもたらした八種神宝(やくさのかんだから)を祭る。

出雲大社(いずもたいしゃ)

島根県出雲市大社町に所在する式内社(しきないしゃ)。出雲国一宮。祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)。記紀神話では、大国主神が天津神に出雲国を譲るよう言われた時に、「国譲りの代償として、この地に立派な御殿を建ててほしい」と求めて建てられたのが、出雲大社の始まりであるという。縁結びの神様としても知られ、神在月(かみありづき:一般的には神無月(かんなづき)と呼ぶが出雲国のみは神在月と称する。10月のこと)に、全国から八百万の神々が集まり神議がおこなわれるという話はあまりにも有名である。

出雲国(いずものくに)

律令下の国の一つ。現在の島根県東半部にあたる。国府・国分寺は、現在の松江市に置かれた。

市川(いちかわ)

兵庫県の播磨地域中央部を流れて瀬戸内海に注ぐ河川。青倉山(標高811m)付近に源流をもち、延長は75.8km、流域面積は596平方キロメートル。神河町の越知川は最大の支流である。市川に沿う経路は、山陰道と山陽道を結ぶ街道(但馬道)として利用されてきた。

斎神社(いつきじんじゃ)

養父市長野に所在する神社で、彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祭神とする。養父神社との間でおこなわれる「お走り祭り」は、但馬三大祭の一つとされる。

印南野(いなみの)

高砂市、加古川市から明石市にかけての平野および台地。加古川、明石川の流域にあたり、沖積平野は豊かな生産力を誇る。陸海ともに西国への要衝であり、記紀や『播磨国風土記』にも、この地域の経営に関する記録・伝承が多い。

揖保川(いぼがわ)

兵庫県の西播磨地域を流れる河川。兵庫県最高峰である氷ノ山(ひょうのせん:1,510m)の南麓に発し、宍粟市(しそうし)、たつの市を経て瀬戸内海に注ぐ。全長は69.7km、流域面積は770平方キロメートル。流域の開発は古く、『播磨国風土記』にも多くの記述が見られる。

伊和大神(いわのおおかみ)

宍粟市(しそうし)一宮町の伊和神社の祭神。大己貴神(おおなむちのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)とも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)とも記されている。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、渡来人(神)のアメノヒボコ(天日槍・天日矛とも書く)との土地争いが伝えられている。

風土記には、宍粟郡から飾磨郡の伊和里(いわのさと)へ移り住んだ、伊和君(いわのきみ)という古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神と考えられている。

なお、伊和神社の社叢(しゃそう)は、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でBランクに選定されている。

宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)

大分県宇佐市に所在する神社。正式には宇佐神宮。八幡神社の総本宮とされる。社伝によれば725年に創建されたといい、第一位の祭神を応神天皇とし、以下、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう:仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)を祭る。八幡造(はちまんづくり)と呼ばれる建築様式の本殿は国宝。

ウツギノヒメハナバチ(うつぎのひめはなばち

ヒメハナバチ科に属するハチ。体長は10~13mm。学名はAndrena prostomias。年に一度、5月末~6月中旬に現われる。地中に巣を掘り、団子状の花粉を蓄えて幼虫の食餌(しょくじ)とする。

厩戸皇子(うまやどのおうじ)

用命天皇の皇子(574~622)。聖徳太子は諡名(おくりな:死後に贈られる名)。おばに当たる推古天皇の摂政として、政権の整備をおこなった。冠位十二階と十七条憲法の制定(ただし十七条憲法については、『日本書紀』編纂時の創作とする説もある)、遣隋使(けんずいし)派遣などの業績は著名である。大陸文化の導入、仏教興隆に尽力し、四天王寺、法隆寺などを建立した。

延喜式(えんぎしき)

藤原時平、忠平らにより、延喜5(905)年から編纂が始められた法令集で、全50巻。完成は927年。967年から施行され、その後の政治のよりどころとなった。

追入神社(おいれじんじゃ)

丹波篠山市追入に所在する神社。秋祭で奉納される三番叟(さんばそう・さんばんそう)は、江戸時代中期に伝えられたといわれる。

応神天皇(おうじんてんのう)

『日本書紀』によれば第15代の天皇。仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子で、母は神功皇后とされる。名は誉田別命(ほむたわけのみこと)。記紀によれば在位は41年で、西暦310年に111歳あるいは130歳で没したとされる。伝説的色彩の強い天皇であるが、『宋書』の東夷伝に見える倭王讃(さん)を、応神天皇にあてる説がある。陵墓は大阪府羽曳野市(はびきのし)に所在する、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)に比定されている。誉田御廟山古墳は、全国で第2位の、全長425mを測る前方後円墳で、築造は5世紀前半と考えられている。

大石良雄(おおいしよしお)

赤穂藩の家老(1659~1703)。内蔵助(くらのすけ)は通称。藩主浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城内で吉良義央(きらよしひさ)を負傷させた事件で切腹を命じられた後、浅野家再興を図ったが受け入れられなかった。長矩切腹の翌年、赤穂浪士46人とともに、江戸本所にあった吉良邸に討ち入り、義央を殺して主君の仇(あだ)を討った。

オオクニヌシ(おおくにぬし)

記紀神話に登場する神。大国主命(おおくにぬしのみこと)。『日本書紀』ではオオナムチノミコトと同一神とされ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。オオクニヌシは、スサノオの子とも六世あるいは七世孫ともされ、出雲神話の祖となっている。

大避神社(おおさけじんじゃ)

赤穂市坂越(さこし)に所在する神社。創建年代は不詳であるが、鎌倉時代には有力な神社であったとされる。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、春日大神(かすがのおおかみ)、大避大神(おおさけのおおかみ)。大避大神とは、秦氏の祖先である酒公(さけのきみ)と秦河勝(はたのかわかつ)である。元は大酒社(おおさけのやしろ)と呼ばれ、坂越湾内の生島に祭られていた。例祭は瀬戸内三大船祭りの一つに数えられ、2艘(そう)の小船に神輿を乗せて船渡御がおこなわれる。

大津八幡神社(おおつはちまんじんじゃ)

赤穂市大津に所在する八幡神社。和気清麻呂が九州の宇佐神宮から勧請(かんじょう:神仏を分けて別の地に祭ること)したとされる。大津八幡神社の木造菩薩立像は、赤穂市指定文化財。

オオナムチノミコト(おおなむちのみこと)

記紀や風土記に見られる神。国造り、国土経営などの神とされるほか、農業神、商業神、医療神としても信仰される。大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命・大汝命など、さまざまに表記される。『播磨国風土記』では、葦原色許乎命(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。また記紀では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神として扱われる。こうした神名の多重性は、本来、各地域で伝承された別個の神を、記紀編集などの過程で統一しようとしたため生じたものであろう。

大部荘(おおべのしょう)

播磨国に設けられた東大寺の荘園。現在の小野市付近にあたる。12世紀中ごろに成立したが、その後国衙(こくが:律令制下において国単位で設けられた政庁)との間で所属が争われたため、放置されて荒廃した。12世紀末になって、東大寺の復興に従事することになった重源の尽力により、東大寺領として確定した。

大神神社(おおみわじんじゃ)

奈良県桜井市にある神社。神社東方にある三輪山を神体として祭る。大和国一宮で、三輪明神とも呼ばれる。祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)。日本で最も古い神社の一つとされている。

小田井縣神社(おだいあがたじんじゃ)

豊岡市小田井町に所在する式内社で、大己貴命(おおなむちのみこと)を祭神とする、但馬五社の一つ。羽柴秀吉の中国地方遠征にともない、多くの神領・神供田を没収されて衰微したが、17~18世紀に復興した。昭和になり、円山川河川工事で移転や境内の改築が行われて現在に至る。

織田信長(おだのぶなが)

戦国時代末期、尾張の大名(1534~82)。父織田信秀の死後、尾張を継承し、大国であった駿河の今川義元を桶狭間の戦いで敗死させた。その後三河の徳川氏と結んで美濃へ進出し、斎藤氏を滅ぼした。1568年には、足利義昭を奉じて京へ上ったが、1573年にはこれを追放して、室町幕府に終止符を打った。同年には浅井氏・朝倉氏の連合軍を破り、1575年には長篠の合戦で武田勝頼を破って、本州の中央部を押さえ、最大の勢力を誇った。

1576年安土に築城開始。楽市楽座の実施により産業を振興したほか、城下でのキリスト教布教を認めるなど、西洋文化の導入にも意を注いだ。しかし中国地方への進出途上、家臣であった明智光秀に殺害された(本能寺の変)。

御旅所(おたびしょ)

神社の祭りで、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所。仮宮。

追手神社(おってじんじゃ)

丹波篠山市大山宮に所在する神社。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。創建年代は不詳である。境内にあるモミの巨木(千年モミ)は国指定天然記念物。

鬼追い・追儺式(おにおい・ついなしき)

鬼会(おにえ)、追儺会(ついなえ)、鬼遣(おにやらい)ともいう。追儺は本来、疫病をもたらす鬼を払う年越しの行事であったが、仏教における新年の行事である修正会(しゅしょうえ:その年の平安と豊穣を祈願する行事)と結びついて各地に広まった。現在では、鬼追いの鬼は儺(疫鬼)を払い疫病を除くものとされている。式では、鬼に仮装した人が松明、鉾、剣などを持って、さまざまな所作をおこなう。なお節分の豆まきも、追儺式が起源とされている。

オノコロ島(おのころじま)

「自凝島」と表記する。記紀の神話では、日本で最初にできた島とされる。その内容は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が、天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天沼矛(あまのぬぼこ)で海をかき回して引き上げたとき、矛の先からしたたる潮が固まってできたというものである。空想上の島であるのか、現実の島のいずれかに擬せられていたのかは不明であるが、現在、兵庫県の淡路島、沼島をはじめ数か所をオノコロ島にあてる考えがある。

小野市(おのし)

兵庫県中央部に所在する市。加古川中流域に位置し、1954年に市制を施行する。2007年11月現在の人口は約50,500人。江戸時代に一柳氏(ひとつやなぎし)が、小野に陣屋を移し、その城下町が建設された(小野藩)。古くから、そろばんと家庭用刃物に代表される伝統工業に特徴があり、複合地場産業都市として発展を遂げてきた。

お走りさん・お走り祭り(おはしりさん・おはしりまつり)

養父神社で4月15・16日におこなわれる祭りで、但馬三大祭に数えられる。祭りの由来は、但馬五社の神々が養父市斎(いつき)神社の彦狭知命(ひこさしりのみこと)に頼んで豊岡市瀬戸の岩戸を切り開いてもらい、豊かな大地が生まれたので、養父大明神が代表として、彦狭知命にお礼参りするという故事による。

祭りの朝、「ハットウ、ヨゴザルカ」のかけ声で、神輿は養父神社を出発。斎神社までの往復35kmを練り走る。重さ150kgの神輿が、軽く走っていくように見えたことから「お走り」という名が付いたとされる。もとは旧暦12月におこなわれていたが、厳寒の季節で川渡りが大変であったことから、明治10(1877)年に現在の日程になったという。

か行

快慶(かいけい)

鎌倉時代の仏師。生没年不詳。運慶の弟子とされ、流麗な作風で知られている。東大寺を再興した重源(ちょうげん)の知遇を得て、浄土寺阿弥陀三尊像、東大寺の阿弥陀如来像、同南大門金剛力士像、同僧形八幡神像などのほか、多数の阿弥陀如来像を残している。

花岳寺(かがくじ)

赤穂市加里屋に所在する曹洞宗の寺院。台雲山(たいうんざん)と号する。歴代赤穂藩主の菩提寺。浅野長直(あさのながなお)が、藩主として常陸笠間から赤穂に移った際に建立した。浅野長矩(あさのながのり)の切腹によって浅野氏が断絶して後は、永井氏、森氏の菩提寺となった。大石良雄をはじめ、赤穂義士ゆかりの遺品を多く残す。

楽音寺(がくおんじ)

朝来市山東町楽音寺に所在する真言宗の寺院。正覚山(しょうかくさん)と号する。本尊は薬師如来。寺伝によれば、807年の創建とされ、当時は七堂伽藍に12の僧坊を連ねた大寺院であったという。所蔵の経瓦は県指定文化財。また600平方メートルの境内は、ウツギノヒメハナバチの群生地として、県の天然記念物に指定されている。

加古川(かこがわ)

兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1,730平方キロメートルを測る県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

加古川の水運は、古代から物流を担う経路であったと考えられ、特に日本海に注ぐ由良川水系へは峠を越えずに到達できることから、「加古川-由良川の道」とも呼ばれて、日本海側と瀬戸内側を結ぶ重要なルートとされている。

カタクリ(かたくり)

ユリ科カタクリ属に属する多年草。学名はErythronium japonicum。雑木林の林床に群生し、早春に地上部を展開させて薄紫色の花をつける。夏季には地上部は枯れる。鱗茎(りんけい:球根)から片栗粉がとれる。カタコユリは古名。『万葉集』では堅香子(かたかご)とも呼ばれる。

鐘ヶ坂(かねがさか)

旧多紀郡と氷上郡の郡境をなす峠。両地域を結ぶ街道が通る交通の要衝。『但州湯島道中独案内(たんしゅうゆしまどうちゅうひとりあんない)』では、「鐘が坂追入の村はずれよりとげ登り十丁余難所の峠」 とされる。特に丹波市側からが急峻な難路であった。明治16(1883)年に鐘ヶ坂隧道(ずいどう)、 昭和42(1967)年には鐘ヶ坂トンネル、さらに 平成18(2006)年には、 新トンネルが開通した。

金鑵城(かなつるべじょう)

小野市昭和町に所在する中世の城跡。青野ヶ原台地の先端に位置する山城で、平成4年から6年にわたる調査で、全容が明らかにされた。城の構造としては、主郭と西の郭からなり、その間に幅約20m、深さ約9mの堀切が設けられている。主郭は土塁に囲まれ、その内側に4棟の建物跡が検出された。城主は、赤松氏の家臣中村氏とされ、後には別所氏が保有した。発掘調査では、壺(つぼ)、擂鉢(すりばち)、茶碗などの陶磁器、石臼、土錘などの漁労具、刀、小刀の鞘などの武具類、瓦、釘、硯、水滴、銅銭などが出土した。

このほかに山城の範囲内で、弥生時代の竪穴式住居が6棟検出され、加古川を見下ろす高地性集落が存在したことが確認されている。

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)

京都市北区上賀茂に所在する式内社(しきないしゃ)。正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)。山城国一宮。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに、古代賀茂氏の氏神(賀茂別雷大神)を祭る。葵祭(あおいまつり)は京都三大祭の一つとして有名。桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都して以来、都を守る神として祭られてきた。神社としては伊勢神宮に次ぐ地位にある。

上立神岩(かみたてがみいわ)

沼島東岸にある、高さ15mの巨岩(*)。先端が鋭く尖っており、国産み神話に登場する「天の御柱」にあてる伝説がある。(*上立神岩の高さについては、兵庫県大百科事典上に従った)

伽藍・伽藍配置(がらん・がらんはいち)

伽藍とは寺院の建物のこと。伽藍配置とは、寺院における堂塔の配置で、時代や宗派により、一定の様式がある。

苅野神社(かりのじんじゃ)

丹波市柏原町上小倉(かいばらちょうかみおぐら)に所在する式内社(しきないしゃ)。祭神は葛原親王(かづらはらしんのう)。元は鐘ヶ坂の麓にあり、現在、旧鎮座地には古宮(ふるみや)と呼ばれる祠(ほこら)が祭られている。

神出神社(かんでじんじゃ)

神戸市西区神出町の雌岡山山頂に所在する神社。スサノオノミコトと妻のクシナダヒメ、およびオオナムチノミコトを祭神とする。後に、前2神の孫にあたるオオクニヌシノミコトから八百余の神々が生まれたことが、「神出」の由来とされる。雌岡山は牛頭天王を祭っているため、「天王山」(てんのはん)とも呼ばれる。山頂からは、六甲山・淡路島方面から小豆島までを望むことができる。

木地師(きじし)

木地屋ともいう。ろくろを用いて、椀、盆など、日用の器物を作る工人あるいはその集団。原料を求めるため、山中で漂泊生活を送っていたとされる。このため定住民からは軽べつされがちであったというが、庶民工芸史上、木地師が果たした役割は大きい。

絹巻神社(きぬまきじんじゃ)

豊岡市気比(けひ)の、円山川河口右岸に所在する神社で、但馬五社の一つ。天火明命(あまのほあかりのみこと)、天衣織女命(あまのえおりめのみこと)、海部直命(あまのあたえのみこと)を祭神とする。背後の山地に広がる、シイ、クスノキ、サカキ、ダブ、ヤマザクラ、ツバキなどの暖地性樹林は、県の天然記念物に指定されている。

ギフチョウ(ぎふちょう)

アゲハチョウ科に属するチョウ。年に一度、4月に現れ、その美しさから「春の女神」と称えられる。播磨地域では、幼虫はミヤコアオイ・ヒメカンアオイなどを食べて育つ。食草の関係から、播磨地域では、里山の雑木林が主な生息地となっていたが、開発による生息地の破壊と、雑木林の放置による荒廃で減少しつつある。環境省絶滅危惧(きぐ)II類、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』Bランク。

行基(ぎょうき)

奈良時代の僧(668~749)。河内国(かわちのくに)出身。父は百済系の渡来人であった。はじめ官大寺で修行したが、後に民間布教をおこなったため律令政府の弾圧を受ける。ため池や水路などのかんがい施設を整備しながら説教をおこない、広く民衆の支持を集めた。東大寺の大仏造営にも協力し、745年には大僧正となった。墓は奈良県生駒市の竹林寺にあり、1235年に金銅製の骨蔵器が発掘されたが、現在はその断片が残されるのみである。

切戸(きれど)

京都府宮津市天橋立文殊に所在する小字(こあざ)。同地には「切戸の文殊」として知られる天橋山智恩寺(てんきょうざんちおんじ)がある。智恩寺は、奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊堂とともに、日本三文殊のひとつとされる。

欣勝寺(きんしょうじ)

三田市桑原に所在する、曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。太宋山(たいそうざん)と号する。平安時代中期にあたる天禄年間(970~73)に、清和天皇(せいわてんのう)から分かれた源満仲(みなもとのみつなか)が開いたとされる。元は真言宗であったが、鎌倉時代、曹洞宗の開祖道元が桑原を訪れた際、この寺の山が宋の不老山に似ることから太宋山欣勝寺と命名し、以後、曹洞宗に改宗されたと伝える。

銀の馬車道(ぎんのばしゃみち)

旧生野鉱山寮馬車道の愛称。明治9年に朝来市生野町と姫路の飾磨港との間、市川沿いの約49kmを結んだ馬車専用の道路である。産出した銀を港に運ぶ一方、港から鉱山には精錬に必要な機械や石炭が運ばれた。欧米の最新工法を取り入れた馬車道は、幅約6m、日本初の高速産業道路とも言われる。

櫛岩窓神社(くしいわまどじんじゃ)

丹波篠山市福井に所在する神社。延喜式(えんぎしき)で、名神大社に列せられる古社である。社殿背後の山には、磐座(いわくら:神が宿る巨岩)を祭り、古代信仰を伝えている。祭神は、櫛岩窓命(くしいわまどのみこと)、豊岩窓命(とよいわまどのみこと)、大宮比売命(おおみやひめのみこと)で、3神の木像は重要文化財に指定されている。

櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮比売命
(くしいわまどのみこと・とよいわまどのみこと・おおみやひめのみこと)

『古事記』によれば、アマテラスオオミカミが天の岩戸(あまのいわと)から出て御殿に入った際、その門を守った神が、櫛岩窓命と豊岩窓命であり、仕えた女官神が大宮比売命であったとされる。このため朝廷でも、この3神への信仰が深かったという。

来日岳(くるひだけ)

豊岡市城崎町の円山川左岸にある山。標高は566.7m。山麓には式内社(しきないしゃ)の久流比神社(くるひじんじゃ)が祭られている。夏季の早朝には、山頂から雄大な雲海を見ることができる。

黒鉄山(くろがねやま)

赤穂市西部にある山。標高は430.9m。頂上からは、瀬戸内海方面の眺望が開ける。

くわばらくわばら(くわばらくわばら)

落雷や災難、いやな事などを避けるために唱える言葉。桑畑には落雷しないという言い伝えによるものとされ、あるいは、菅原道真の領地であった和泉国桑原には、一度も落雷がなかったことによるともいわれる(ただし、和泉国の桑原に菅原道真の所領があったことを示す、正確な史料は存在しない)。三田市桑原と同様の伝説が、和泉国(現在の和泉市桑原町所在の西福寺)にもあるという。

ゲンジボタル(げんじぼたる)

甲虫目ホタル科に属する昆虫。成虫の体長は15mm前後で、腹部末端に発光器官をもつ。また、卵・幼虫も発光する。本州・四国・九州の、水質が良い河川に生息し、成虫は6月頃にあらわれる。水質の悪化や、河川の護岸がコンクリート化されたことによって激減していたが、現在は、各地で復活の試みがおこなわれている。

荒神(こうじん)

「猛々しい神」の意味をもつ言葉であるが、同時に霊験ある神をも指す。また、三宝荒神(さんぼうこうじん:仏教の三宝(仏・法・僧)を守護する神)を指す。三宝荒神は不浄を忌み、火を好むとされることから、近世以降はかまどの神として祭られた。

広渡廃寺(こうどはいじ)

小野市広渡町に所在する古代寺院跡。昭和48~50(1973~75)年と、平成5~7(1993~95)年に発掘調査が実施され、伽藍配置と規模が明らかになった。伽藍配置は、金堂と中門の間に東西両塔を配し、金堂の背後に講堂をおき、これらを回廊で取り囲むという薬師寺式を踏襲しており、寺域は、東西約100m、南北約150mにわたる。

出土遺物等から、創建年代は奈良時代中ごろ、廃絶年代は平安時代後期と考えられている。なお、小野市の浄土寺に伝わる『浄土寺縁起』では、荒廃したままとなっていた広渡寺の本尊を、浄土寺薬師堂の本尊として移して安置したと記されている。

古事記(こじき)

奈良時代に成立した歴史書。全3巻からなる。天武天皇(てんむてんのう)の命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた歴史を、太安万侶(おおのやすまろ)が採録したという。天皇家の系譜を明らかにするという、政治的目的をもって編集されたもので、歴史書としては、日本に現存する最古のものである。

コヤスノキ(こやすのき)

トベラ科トベラ属の常緑低木。学名はPittosporum illicioides。中国中部、台湾にも分布する。明治32年に、揖保郡(いぼぐん)新宮町において大上宇市(おおうえういち)が発見し、牧野富太郎(まきのとみたろう)が新種として発表した。

五輪塔(ごりんとう)

墓、または故人を供養するために建てられた塔の一種。多くは石製。下から順に、基礎、塔身、笠、請花(うけばな)、宝珠の5段に積み、それぞれが、地、水、火、風、空をあらわす。密教に由来し、平安時代中ごろから造られるようになった。一石五輪塔は、これを一個の石材に刻んだもの。

金剛城寺(こんごうじょうじ)

神崎郡福崎町に所在する真言宗の寺院。七種山(なぐささん)と号する。元の名称は作門寺。7世紀前半、高麗の僧恵灌(えかん)の創建と伝えられ、また法道仙人を導師としたという。8世紀に焼失後再建され、勅命により金剛城寺と称して行基を迎えたという。後に廃寺となったが、17世紀に復興されて作門寺と称した。本来は七種山山中にあったが、明治初年に現在地へ移った。縁起によれば、滋岡(滋丘とも書く)川人(しげおかのかわひと)が、当地の干ばつに際して、人々に鉢から七種の種を分け与えて救ったが、その種は尽きることがなかったといい(「七種の川人」伝説)、これが山号の由来となっている。

さ行

西方浄土(さいほうじょうど)

仏教において、この世の西方、十万億の仏土を隔てたところに存在する、阿弥陀仏の浄土。極楽浄土。

最明寺(さいみょうじ)

神戸市西区神出町に所在する真言宗の寺院。雄岡山(おっこさん)と号する。7世紀に法道仙人が開いたという伝承をもつ。また、鎌倉幕府の5代執権北条時頼(ほうじょうときより:1227~63)が、出家して最明寺入道と名乗り各地をまわった際、この寺に立ち寄って、法道仙人の遺言と法華経を入れた石箱を地中に埋めた後、梅の実を噛み割って、半分をそこに植えたという伝承がある。現在も境内には、何代目かにあたる「時頼かみわりの梅」がある。

篠山盆地(ささやまぼんち)

兵庫県中央部を東西にのびる山地の東端にあたる、丹波山地内にある盆地。盆地北部の山々は、日本海側と瀬戸内海側の分水界をなす。盆地周囲を囲む山々の標高は、500~800m、盆地中央部の標高は約200mを測る。

里山(さとやま)

人里に接する位置にある山で、森林を中心とした生態系を、人が継続的に管理・利用している場所。兵庫県下では、薪炭林(しんたんりん)として利用される、クヌギ・コナラなどの雑木類を中心とした雑木林であることが多い。多様な動植物が生育するため、生態系としての価値は高いが、近年は利用度が低下して放置され、荒廃する例が増加している。

山陰道(さんいんどう)

都から発し、丹波・丹後・但馬を経て山陰地方を結んだ、古代の主要街道の一つ。兵庫県下では、丹波篠山市、丹波市、遠阪峠を通って但馬に入り、朝来市、養父市、香美町、新温泉町を経由する。また養父市からは、豊岡市域に所在した但馬国府へ至る支線があった。

三田市(さんだし)

兵庫県東部に所在する市。旧有馬郡北半部にあたり、江戸時代には三田藩として、九鬼氏が約240年間統治した。1958年より市制を施行。1980年代以降はニュータウン開発が進み、神戸、大阪のベッドタウンとして発展した。2007年11月現在の人口は、約113,600人である。

三田焼(さんだやき)

三田市内で、18世紀後半から昭和10(1935)年ごろまで生産された陶磁器の総称。寛政11(1799)年から大正初期まで続いた、三輪明神窯はその代表である。三田焼で最も著名なものは三田青磁(さんだせいじ)であるが、初期には、赤絵や染付などを生産していた。

文政7(1810)年には、京都から欣古堂亀祐(きんこどうかめすけ(1765~1837):京都の陶工。三輪明神窯に招請されて特に青磁の制作を指導し、三田青磁の恩人と称えられる。後には、丹波篠山市内で王子山焼の制作を指導した)を迎えて、青磁のほか、赤絵や染付磁器も多数生産されるようになり、三田焼は最盛期に至った。しかし、亀祐が去って以後はしだいに衰退した。明治に入り三田陶器会社が設立されて、一時復興をとげたが、昭和10年ごろに生産を終えた。

三番叟(さんばそう・さんばんそう)

能の翁(おきな)で、千歳(せんざい)・翁に次いで3番目に出る老人の舞。正月や秋祭などで、祝いのために舞われる。多く場合、千歳・翁・三番叟の3つの舞からなり、これらを式三番という。翁には猿楽の伝統を伝えるものや、能・歌舞伎・人形浄瑠璃の影響を受けたものがある。兵庫県では摂津・丹波・但馬を中心に広くおこなわれている。

磁器(じき)

やきもののうち、白色で透光性があり、硬く緻密(ちみつ)で吸水性がなく、叩(たた)くと金属的な音を発するもの。ただし磁器の概念は幅が広く、国によっても異なっており、中国においても陶器と磁器の区別は、日本と大きく異なっている。

式内社(しきないしゃ)

『延喜式』の「神名帳」に掲載されている神社。全国で2,861か所。

時光寺(じこうじ)

高砂市時光寺町に所在する浄土宗の寺院。遍照山(へんしょうざん)と号する。また、播磨の善光寺と称される。縁起によれば、時光上人が播磨灘の海中より引き揚げた、阿弥陀如来像を祭るため、1249年に堂宇を建てたのが始まりという。その後の争乱で幾度か焼失したが、1613年に現在の本堂が再建された。境内の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は県指定文化財。

時光上人(じこうしょうにん)

鎌倉時代の僧(?~1276)。俗姓は源経家(みなもとのつねいえ)。浄土宗の証空上人(しょうくうしょうにん)の弟子となり、時光坊と称した。高砂市伊保崎(いほざき)の心光寺(しんこうじ:現在の網堂)での修行中、五色の雲に乗って現れた高僧のお告げによって、播磨灘各所で網を引いたところ、阿弥陀如来像の手足や体が引き揚げられたという。時光寺は、この如来像を祭るため建てられたもの。

守護大名(しゅごだいみょう)

南北朝期~室町時代に、将軍足利氏によってその国の支配を委任された守護。主に足利氏の一門や有力家臣が任命された。守護は幕府から与えられた権限を利用して、国人(こくじん:領地を所有する在地の武士)層を家臣として組織化し、この結果、守護と国人層による領国制度が成立していったとされている。

荘園(しょうえん)

奈良時代から戦国時代まで存在した、田地を中心とした私有地。所有者は、主として貴族や寺社で、政治的地位を有する者であった。現在、文献で知られる荘園は4,000か所近くあり、東北地方から九州地方まで分布するが、特に近畿地方に集中している。

正倉院(しょうそういん)

古代には、寺院や官の主倉庫を正倉と呼び、正倉院とはその一角を指す言葉であったが、現存するのは奈良県の東大寺に付属する正倉院のみであるため、正倉院といえばこれを指す。現在、東大寺正倉院は宮内庁が管轄しているが、その中でも特に歴史的に重要なのは、校倉造(あぜくらづくり)の宝庫で、奈良時代以来の遺品がおさめられている。

称徳天皇(しょうとくてんのう)

奈良時代末の女性の天皇(718~70)。第46代の孝謙天皇(こうけんてんのう)として在位した後、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)に譲位したが、藤原仲麻呂の乱の責めによって淳仁天皇を退位させて、再度第48代天皇として即位した。その後、天皇に寵愛された僧道鏡が実権を握り皇位を奪おうとしたため、これに反対する貴族が、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣して、神託を得るという事件が起こった。

浄土寺(じょうどじ)

小野市浄谷(きよたに)町に所在する真言宗の寺院。極楽山(ごくらくさん)と号する。東大寺の播磨別所として、重源(ちょうげん)が建久年間(1190~98)に開いた。

この地域には、古くから東大寺の荘園(大部荘:おおべのしょう)が営まれていたが、重源は、東大寺大仏復興のために、長く荒廃していた同荘園を東大寺別所として経営することとなった。

境内は、中央の池(放生池)を中心に、西に浄土堂、東に薬師堂を配する。

西の浄土堂は、重源が1194年に建立したもので、当時の中国(宋)の建築様式を取り入れた大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる様式で建てられており、鎌倉時代以降の寺院建築に大きな影響を与えた。大仏様の建築は、ほかに東大寺南大門、同開山堂などが残されているのみで、本尊の阿弥陀三尊像とともに国宝に指定されている。

浄土堂は夏の間、阿弥陀三尊の背後から夕日が射しこむように設計されており、夕暮れ時に朱色に染まる堂内は荘厳そのものである。

ほかに1517年に再建された薬師堂、重源坐像、境内の浄谷八幡神社本殿・拝殿、絹本著色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず)ほかの重要文化財、県指定文化財など多数を保有し、播磨を代表する古刹といえる。

城ノ山古墳(じょうのやまこふん)

朝来市和田山町東谷に所在する古墳。4世紀末に築造された円墳で、直径は36mを測る。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土している。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されている。

縄文海進(じょうもんかいしん)

後氷期の世界的気温上昇に伴い、完新世初頭(約1万年前)に始まり、縄文時代前期の約6,000年前に最盛期を迎えた海面上昇。最盛期の海面は、現在より数メートル高かったと考えられている。

神功皇后(じんぐうこうごう)

『日本書紀』によれば、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后。名を息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という。仲哀天皇の死後、これに代わって朝鮮へ出兵して、新羅を討ち、百済・高句麗を帰服させたとされるが、これは日本を大国として位置づけるための架空の説話である。

真言宗(しんごんしゅう)

仏教の一派。インドに起こり、平安時代前期に、空海によって日本へもたらされた。空海は、高野山に金剛峯寺を開いて、真言宗の道場としたほか、823年には京都に教王護国寺(きょうおうごこくじ:現在の東寺)を受け、これらの寺院が同宗の中心となった。

神積寺(じんしゃくじ)

神崎郡福崎町に所在する天台宗の寺院。妙徳山(みょうとくさん)と号する。正暦(しょうりゃく)2(991)年、慶芳上人(けいほうしょうにん)が文殊菩薩のお告げにより創建したと伝えられる。平安時代後期には隆盛し、播磨六ヶ山(播磨天台六山)の一つに数えられた。延慶(えんきょう)2(1309)年、火災のため焼失し、天正15(1588)年に再建された。本尊の薬師如来座像は重要文化財であり、境内の石造板碑(いたび)、石造五重塔などは県指定文化財となっている。創建の故事から、「田原の文殊さん」として親しまれている。

神仏分離(しんぶつぶんり)

明治時代初め、政府が天皇の神権的権威確立のためにとった宗教政策。従来習合していた神道と仏教を分離することを旨とする。この政策が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動となって、全国で仏教に対する破壊的活動が起こり、廃寺となる寺院が続出した。

神武天皇(じんむてんのう)

記紀に登場する初代の天皇。和風諡号(しごう:死後に贈られる名)は、神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)。記紀によれば、日向(ひゅうが:現在の宮崎県地方)から軍勢を率いて東征し、大和を征服。紀元前660年に橿原宮(かしはらのみや:奈良県橿原市)で即位して初代天皇となったという。初めて国を統治した天皇という意味で、ハツクニシラススメラミコトとも呼ばれる。

ただし天皇に関する記紀の記述のうち、特に初代神武天皇から第9代開化天皇までの記事は、合理性を欠く部分が多い上、系譜はあるものの旧辞(きゅうじ:記紀編纂の基礎となった史書。現存しない)に記されていたはずの事跡も記載がなく、生存の年代観も実際の歴史と整合しない。このためこれらの天皇は、朝廷の権威と支配を正当化するために付け加えられたものであり、いずれも実在ではないと考えられる。

推古天皇(すいこてんのう)

第33代の天皇(554~628)で、史上初の女性天皇。母は蘇我氏の出身。敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であったが、その没後に立った用明天皇(ようめいてんのう)がわずか2年で病死、さらに崇峻天皇(すしゅんてんのう)が在位5年で死亡(蘇我馬子による暗殺説がある)すると、蘇我氏に推されて即位した。厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)を摂政とし、大臣蘇我馬子との均衡を図りつつ政治を運営した。その治世には冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使(けんずいし)の派遣、法隆寺の建立、国史の編纂など、政治制度の整備や文化の振興などがおこなわれた。

須恵器(すえき)

古墳時代中期に生産が開始された無釉の陶質土器。須恵器の技術は、5世紀代に朝鮮半島からの渡来人によってもたらされ、大阪府南部で生産が開始された。半地下式の登窯(のぼりがま)を用い、1100度前後の還元焔(かんげんえん)で焼成されるため、表面は青灰色を呈する。6世紀以降は、北海道を除く全国で生産されるようになり、平安時代末には陶器へと発展してゆく。

末の観音様(すえのかんのんさま)

三田市末に伝わる民話。戦乱によって観音像が池に投げ込まれ、それを知らない人が池に入って像を踏んだところ、腹痛をおこした。そこで池を干したところ、観音像が見つかったため、村でお祭りをするようになり、以降、村では常に田畑の実りも豊かであったと伝える。

菅原道真(すがわらのみちざね)

平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者(845~903)。菅公(かんこう)と称された。幼少より詩歌に才能を発揮し、33歳で文章博士(もんじょうはかせ:律令政府の官僚養成機関であった大学寮に置かれた教授職)に任じられた。宇多、醍醐両天皇の信任が厚く、当時の「家の格」を超えて昇進し、従二位右大臣にまで任ぜられた。しかし、道真への権力集中を恐れた藤原氏や、中・下級貴族の反発も強くなり、左大臣藤原時平が「斉世親王を立てて皇位を奪おうとしている」と天皇に讒言(ざんげん)したことで、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、同地で没した。

スクナヒコナノミコト(すくなひこなのみこと)

記紀や風土記に見られる神。『日本書紀』では少彦名命(すくなひこなのみこと)、『古事記』では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。『播磨国風土記』では、オオナムチノミコトとともに国造りをおこなったとされている。道後温泉や玉造温泉などを発見したと伝えられ、温泉開発の神としても祭られる。『古事記』によれば、少彦名命は、天之羅摩船(アメノカガミノフネ:ガガイモのさやでできた船)に乗り、蛾(が)の皮の衣服を着て出雲国にやってきた小さな神とされており、民話「一寸法師」の原型とも言われている。

スサノオノミコト・クシナダヒメノミコト(すさのおのみこと・くしなだひめのみこと)

記紀の神話に登場する神。古事記では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と呼ぶ。イザナギノミコトの3子の末。イザナギから海を統治するよう命ぜられるがそれを拒否する。一時、姉のアマテラスオオミカミが治める高天原に滞在したが、後に出雲国に至り、怪蛇ヤマタノオロチを退治。クシナダヒメと結婚したとされる。出雲神話の祖となる大国主命(おおくにぬしのみこと:『日本書紀』ではオオナムチノミコトとする)は、スサノオの子とも六世あるいは七世孫ともされている。

青磁(せいじ)

青緑~緑色の釉(うわぐすり)を特徴とする磁器。白磁、黒釉磁(こくゆうじ)とともに、東アジア三大陶磁器とされる。

遷宮(せんぐう)

神社において、本殿を建て替えて、神体・神霊を移すこと。遷座ともいう。定期的におこなわれるものを式年遷宮と呼び、伊勢神宮の場合は、20年に一度すべての社殿を建て替えて遷宮がおこなわれている。

千光寺(せんこうじ)

洲本市上内膳(かみないぜん)の、先山山頂に所在する真言宗の寺院。先山(せんざん)と号する。本尊は千手観音。寺伝によれば、平安時代延喜元(901)年の開基とされ、縁起として狩人忠太と大猪の伝説が伝えられている。このほか『淡路通記(あわじつうき:17世紀末成立)』には、性空上人(しょうくうしょうにん)、役小角(えんのおづぬ)やイザナギ・イザナミにまつわる伝承が記録されている。境内の鐘楼にある鐘は、弘安6(1283)年の銘をもち、重要文化財に指定されている。

善光寺(ぜんこうじ)

長野県長野市に所在する無宗派の寺院。尼寺であり、浄土・天台両宗の管理に属する。定額山(じょうがくさん)と号する。7世紀初めの創建とされるが、詳細は不詳。本尊は、欽明天皇の時代に、百済の聖明王から献じられたという阿弥陀三尊であるが、絶対の秘仏であり、善光寺住職さえ見ることはできないという。本堂は昭和28(1953)年国宝に指定されている。 

先山(せんざん)

洲本市北西にある山。標高は448m。その山容から、淡路富士とも称される。山頂には千光寺が建つ。江戸時代の画家、谷文晁(たにぶんちょう)の『名山図譜』にも描かれるなど、古くから知られる山である。シイ、カシなどの暖帯樹林に覆われ、この山系にのみ生息する昆虫も知られている。

千年モミ(せんねんもみ)

追手神社(おってじんじゃ)境内にあるモミの巨木。樹高34m、幹周り7.8m、推定樹齢は800年とされる。

蘇我馬子(そがのうまこ)

飛鳥時代の中央豪族(?~626)。地位は大臣(おおおみ)。大連(おおむらじ)であった物部守屋を滅ぼし、天皇との姻戚関係を利用して勢威をふるった。仏教を受容し、法興寺(ほうこうじ:馬子が建立した日本最古の伽藍。飛鳥寺)を建立した。子は蘇我入鹿。

染付(そめつけ)

素焼きした磁器の表面に、呉須(ごす:酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含む鉱物質の顔料)で下絵付けを施し、その上に透明な釉(うわぐすり)をかけて焼いたもの。青または紫がかった青に発色する。中国の元代に始まり、明代に隆盛。日本では江戸初期の伊万里焼に始まる。

尊勝寺(そんしょうじ)

堀河天皇の発願により、平安京内に建てられた寺院(創建は1102年)。法勝寺(ほっしょうじ)、最勝寺(さいしょうじ)、円勝寺(えんしょうじ)、成勝寺(せいしょうじ)、延勝寺(えんしょうじ)とともに六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)と称される。

た行

大宮寺(だいぐうじ)

南あわじ市広田広田に所在する真言宗の寺院。広林山(こうりんざん)と号する。本尊は阿弥陀如来。開基は不詳であるが、安土桃山時代に中興された。かつては末寺や奥の院も有していたとされ、奥の院跡からは、平安時代末期の瓦が出土している。

大仏様(だいぶつよう)

天竺様(てんじくよう)ともいう。鎌倉時代に、東大寺大仏殿再建に採用された、中国(宋)の建築様式。構造上、大型木造建築に適する様式である。

高御位山(たかみくらやま)

高砂市と加古川市の境界にある山。標高は304m。低山ではあるが、山頂から山腹にかけて岩盤が露頭する急斜面が続く。頂上からの展望がよく登山者も多い。また、高砂市北西部の鹿島神社からは、百間岩、鷹の巣山、鹿島山、高御位山と続く縦走路がある。

大宰府(だざいふ)

中世以降太宰府とも表記するが、歴史用語としては「大」の字を用いる。

7世紀後半に、九州の筑前国(ちくぜんのくに)に設置された地方行政機関。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、種子島)の行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

但馬道(たじまみち)

播磨国と但馬国を結び中国山地を貫く南北の街道。姫路を起点にして粟賀、生野、竹田、和田山、八鹿、納屋、豊岡を経て城崎まで、延長約95kmを測る。温泉として有名であった湯嶋(城崎)へ向かう道として利用されたほか、近世以降は、生野銀山と姫路を結ぶ産業道路としての性格も帯びるようになった。瀬戸内側では市川、日本海側へは円山川と並行して整備されていたので舟運とも競合していたようである。納屋(豊岡市日高町)から北へ城崎までの4里(約16km)の間は道路事情が悪いため、舟に乗るのがよしとされていた。

達身寺(たっしんじ)

丹波市氷上町清住(きよずみ)に所在する曹洞宗の寺院。十九山(じゅうくさん)と号する。開基は行基(ぎょうき)、あるいは法道仙人(ほうどうせんにん)とも伝え、元は天台または真言系の宗派であったと推測されている。平安時代から鎌倉時代には、丹波一円に勢力を張ったとされているが、天正年間(1573~92)に兵火にあい、タルミ堂を残して全山を焼失した。その後は荒廃したが、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に当地に疫病が流行した際、占いによって、村人が渓谷に流出していた仏像を集めて、現在の位置に本堂が建立された。平安時代の弘仁・貞観期(9世紀)から鎌倉時代初期にかけての優れた仏像が多数残されており、「丹波の正倉院」と呼ばれる。また、鎌倉時代の仏師快慶(かいけい)も、達身寺と深いかかわりがあったとする説がある。

たつの市(たつのし)

兵庫県の播磨地域西部に位置する市。市域は、南北に流れる揖保川(いぼがわ)に沿って広がり、南は瀬戸内海に面する。平成19年11月現在の人口は、約82,000人。風土が生み出した手延素麺(てのべそうめん)や醤油醸造、皮革産業、かばん産業といった伝統的な地場産業で知られる。市街の中心には、龍野城がある。

但州湯島道中独案内
(たんしゅうゆしまどうちゅうひとりあんない)

江戸時代に出版された、城崎温泉への旅行ガイドブック。宝暦13(1763)年版と文化3 (1806)年版があり、国内各地に現存。温泉の効能と入浴方法、環境、歴史、名所案内、みやげ物、交通路と交通費などが記されている。旅行に携行しやすいよう、ごく小型の書物(約7cm×16cm)となっている。

丹波(たんば)

丹波国と同じ。現在の京都府と兵庫県にまたがる地域。国府、国分寺は、ともに現在の京都府亀岡市(かめおかし)に所在する。兵庫県の丹波地域は、現在、丹波篠山市・丹波市の2市。

丹波志(たんばし)

江戸時代(18世紀末)に編纂された、丹波地域3郡(天田郡(あまたぐん:現京都府福知山市)・氷上郡(ひかみぐん:現兵庫県丹波市)・多紀郡(たきぐん:現兵庫県丹波篠山市))の地誌。全21巻25冊。編集は篠山藩の永戸貞著(ながとていちょ)と、福知山藩の古川茂正(ふるかわしげまさ)。まとまった史料に乏しい丹波では、地域研究に欠かすことのできない資料である。

千種川(ちくさがわ)

兵庫県の播磨地域西部を流れ瀬戸内海に注ぐ河川。鳥取県境にある三室山南麓に源流をもち、延長は67.6km、流域面積は752平方キロメートル。河口には赤穂三角州が発達する。上・中流域に大規模な都市がないため、良好な水質が維持されており、兵庫県を代表する清流とされている。

チトセカズラ(ちとせかずら)

マチン科ホウライカズラ属のつる性木本。学名はGardneria multiflora。日本、中国に分布するが、国内での分布は中国地方と琉球列島に限られ、兵庫県は分布の東限にあたる。

茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)

朝来市和田山町筒江に所在する古墳。5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては全国で第4位の規模である。北近畿豊岡自動車道の建設に伴って発掘調査がおこなわれ、頂上部に埋葬された2基の木棺から、畿内以外では初めてとなる「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」をはじめ、多数の鉄製品、銅鏡、玉類などの副葬品が出土した。5世紀前半の但馬地域の王墓と考えられている。なお古墳は、道路の設計を変更して保存され、2007年現在整備工事中である。

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

記紀によれば第14代の天皇で、没年は西暦200年。陵墓は、大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)に比定されている。記紀ではヤマトタケルノミコトの子とされているが、記載された没年と年齢から計算すると、父の死後36年を経て誕生したことになる点、名の「タラシナカツヒコ」に用いられる「タラシ」が、7世紀代に実在した天皇の名にも用いられている点などから、架空の天皇とする説もある。

重源(ちょうげん)

鎌倉時代初期の、浄土宗の僧。醍醐寺(だいごじ)で真言を学んだ後、法然について浄土宗を学んだ。3度にわたって宋へ入り学んだほか、土木建築の技術を習得した。戦乱で荒廃した東大寺再建のために、造東大寺大勧進職(ぞうとうだいじだいかんじんしき)に任ぜられ、諸国をまわって勧進(かんじん:寄付を募ること)に努めるとともに、民衆の教化・救済などの社会事業を推進した。

勅使門(ちょくしもん)

勅使(天皇の使者)が寺社に参向した時、その出入りに使われる門。

通幻(つうげん)

室町時代、曹洞宗の僧(1322~91)。豊後国(大分県)に生まれ、長じて能登国(石川県)総持寺に入った。細川頼之(ほそかわよりゆき)により建立された、永沢寺の開山として迎えられ、丹波地域に教えを広めた。後、総持寺住職。

通幻の禅は極めて峻烈で、試問に答えられない者を、境内に掘った穴へ投げ込んだと伝えられる。門下には、「通幻十哲」と称される優れた禅僧があって、通幻の教えを広めた。

天台宗(てんだいしゅう)

隋(ずい)の天台智者大師により開かれた仏教の宗派。法華経を根本経典とする。平安時代前期に最澄(さいちょう)が入唐してこれを学び、帰国後、比叡山延暦寺を開いて教えを広めた。後にはしだいに密教化した。鎌倉時代には、天台宗より多くの新宗派が出た。

天満大神(てんまんおおかみ)

菅原道真を神としたもの。天満宮の祭神。

天明の縄騒動(てんめいのなわそうどう)

天明2(1782)年に起こった淡路島最大の農民蜂起。当時淡路を領していた徳島藩が出した「増米法」と「木綿会所法」によって、農民は生活を圧迫されていた。ここへさらに、洲本の藩庁役人が出した縄を供出させて大坂で販売するための法を出したため、合計12か村の農民が、下内膳村の組頭庄屋であった広右衛門方へ押し寄せて、法の廃止を陳情した。これに対して徳島藩は縄供出の法などを廃止し、藩の責任者を処分したが、一揆(いっき)の首謀者も捕縛され、広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門は打ち首となった。この両名の供養碑は、島内に4基が残されており、大宮寺境内には事件の記念碑がある。

東寺(とうじ)

正式名称は金光明四天王教王護国寺(こんこうみょうしてんのうきょうおうごこくじ)。平安京の左京に設けられた寺院で、823年に空海に与えられて、真言宗の根本道場となった。

東大寺(とうだいじ)

奈良市に所在する華厳宗(けごんしゅう)の寺院。聖武天皇の発願により745年に建立されたもので、本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。平安時代にかけて、23か国に92か所の荘園を領有して勢力を誇ったが、1180年に平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちにあって、堂塔の大部分を焼失した。その後、重源(ちょうげん)が中心となって復興されるも、1567年には三好氏一族と松永久秀の戦火により再び焼失。大仏殿は1692年に至ってようやく復興された。

創建以来の建築として、三月堂、正倉院(いずれも国宝)が、鎌倉時代の建築として南大門、鐘楼(いずれも国宝)などが残るほか、奈良~平安時代の仏像、古文書など、日本史上重要な資料が多数残され、その多くが国宝、重要文化財に指定されている。

東播系中世須恵器(とうばんけいちゅうせいすえき)

兵庫県の東播磨地方で、平安時代末~室町時代初期に生産された須恵器。三木市、神戸市西区、明石市などに窯跡が集中する。大型の甕(かめ)、片口鉢、碗などを生産していたが、特に生産の後半期には、片口鉢を多量に生産するようになった。東播系の須恵器は、全国各地の遺跡から出土し、東播磨地域が当時の一大窯業地帯であったことを示している。またこの地域の窯で焼かれた瓦は、主に平安京内の寺院で使用され、鳥羽離宮、東寺、尊勝寺(そんしょうじ)などから出土している。15世紀には生産を終えた。

東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)

阿弥陀如来(あみだにょらい)の浄土が西方にあるのに対し、東方に存在するという薬師如来(やくしにょらい)の浄土。地は瑠璃(るり)からなり、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩(ぼさつ)が住んでいるという。

遠阪峠(とおざかとうげ)

丹波市と朝来市との境界にある峠。標高363m。古代山陰道にも、遠阪峠を越える路線があった。急峻で、特に冬季には雪が多い難路であったが、現在はトンネルが開通している。

鳥羽離宮(とばりきゅう)

白河上皇(1053~1129)が、平安京の南に造営した離宮。

な行

長谷貝塚(ながたにかいづか)

豊岡市長谷に所在する縄文時代後期の貝塚。出土する貝はヤマトシジミが80%を占め、サルボウ、マガキ、ハマグリなども見られる。また、タイ、フグ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ノブドウなども出土している。中谷貝塚同様、豊岡盆地が汽水域の入り江であったことを示す遺跡である。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

飛鳥時代、舒明天皇(じょめいてんのう)の皇子(626~71)。後の天智天皇(てんじてんのう)。中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし、孝徳・斉明の両天皇の皇太子として、大化改新後の政治を主導した。外交では百済を支援したが、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐と新羅の連合軍に大敗した。668年に滋賀県の大津京で即位。

中谷貝塚(なかのたにかいづか)

豊岡市中谷に所在する縄文時代中期~晩期の貝塚。1913年に発見された、但馬地域を代表する貝塚の一つである。出土する貝はヤマトシジミが98%を占めており、ほかにハマグリ、アサリ、マガキなどが見られる。また、クロダイ、タイ、ニホンジカ、イノシシ、タヌキなどの骨、トチ、ドングリなども出土している。ヤマトシジミは海水と淡水が入り混じる汽水域に生息することから、縄文時代の豊岡盆地が、入り江となっていたことがわかる。

名草神社(なぐさじんじゃ)

養父市石原に所在する式内社(しきないしゃ)。妙見山山腹の、標高800m付近に位置する。祭神は名草彦命(なぐさひこのみこと)ほか6神だが、北辰(北極星)とされる天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を含むことから、同地の帝釈寺と一体化して、平安時代末より妙見信仰の場となっていたという。明治5(1872)年の神仏分離令により、現日光院と分離した。日光東照宮を模した本殿、厳島神社を模した拝殿は県指定文化財。また、16世紀に出雲大社より寄贈された三重塔は国の重要文化財。

七種山・七種滝(なぐさやま・なぐさのたき)

七種山は神崎郡福崎町に所在する山で、標高は683m。峻険な頂上と中腹にある七種滝が著名。七種滝は合計48の滝からなり、兵庫県の観光百選にも選ばれる。うち最大の雄滝(七種滝)は落差72mを測り、県下屈指の規模を誇る。

にい塚(にいづか)

雌岡山西側の中腹にある古墳。大型石材が露出していることから、横穴式石室が埋葬主体と思われる。調査がおこなわれていないため詳細は不明。

日光院(にっこういん)

養父市八鹿町石原に所在する真言宗の寺院。妙見山(みょうけんさん)と号する。本尊は弘法大師作と伝えられる妙見大菩薩。日本三妙見に数えられる。寺伝によれば、敏達天皇(びだつてんのう:6世紀)の時、日光慶重(にっこうけいちょう)が草庵を開いたのがはじまりという。永禄・天正年間(16世紀)には最盛期を迎え、妙見信仰の一大霊場となった。現在名草神社に残る三重塔(重要文化財)は、この時期に出雲大社より日光院へ寄贈されたものである。しかしその後、羽柴秀吉による山陰攻略の兵火で堂宇の多くを焼失したという。江戸時代には復興したが、明治5(1872)年の神仏分離令により、現名草神社と分離した。妙見信仰を示す史料は「日光院文書」として県指定文化財。

仁徳天皇(にんとくてんのう)

第16代の天皇。『日本書紀』によれば290~399年の人物であるが、歴史上は5世紀前半の大王であったとされている。「倭の五王」として、中国の史書『宋書』、『南史』に記載された讃(さん)または珍(ちん)、『梁書(りょうしょ)』に記載された、賛(さん)または彌(み)に比定する見解がある。難波(現在の大阪市)に都を置いたとされ、陵墓は堺市の百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)にある大仙(大山)古墳とされている。

沼島(ぬしま)

淡路島の南海上にある、東西1.8km、南北2.5kmの島。行政区画上は南あわじ市に属する。沼島の名称は、紀貫之の『土佐日記』(成立は10世紀前半)にも見えるという。

は行

初鹿野山(はじかのやま)

神崎郡神河町に所在する山。標高は507.8m。初鹿野の名は、『播磨国風土記』の中の「波自加(はじか)村」に由来する。

羽柴秀吉(はしばひでよし)

安土桃山時代の武将(1536~98)。尾張国中村の人。はじめ木下藤吉郎と名乗る。年少の時期から織田信長に仕え、戦功をたてて重用され、羽柴氏を称した。信長の命による中国地方経略の途上で、明智光秀による信長殺害(本能寺の変)が起こった。秀吉は毛利氏と和睦し、山陽道を経て淀川右岸を北上、山崎の合戦で光秀を破った。

その後、各地の大名を服属させた秀吉は、1585年に関白、翌年には豊臣姓を下賜され、また太政大臣に任ぜられて天下統一を達成した。晩年には、朝鮮および明への侵攻を図り、2度にわたって派兵したが失敗に終わった(文禄・慶長の役)。太閤検地による税制の確立、兵農分離政策、都市や主要鉱山の直轄支配など、幕藩体制への基礎をつくった。

八幡神(はちまんしん)

農耕神または海の神とされている。総本社は大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)であるが、全国に数千の神社があり、稲荷社に次ぐ信仰を集めている。元は宇佐地方一円にいた大神氏(おおみわし)の氏神であったとも考えられているが、現在では、応神天皇、神功皇后、比売神の3神を合わせて八幡神(八幡三神)として祭られている。

播磨天台六山(はりまてんだいろくざん)

兵庫県播磨地域における主要な天台宗寺院。播磨六ヶ山ともいう。円教寺(えんぎょうじ)、八葉寺(はちようじ)、随願寺(ずいがんじ)、一乗寺(いちじょうじ)、普光寺(ふこうじ)、神積寺(じんしゃくじ)の6寺院。

播磨灘(はりまなだ)

兵庫県の播磨地域に面する、瀬戸内海東部の海域。東を淡路島、西を小豆島(しょうどしま)、南を四国によって画されている。面積は約2,500平方キロメートル。近畿、中国、四国、九州を結ぶ重要な航路がある。

播磨国風土記(はりまのくにふどき)

奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

日女道丘(ひめぢをか)

『播磨国風土記』に記された丘の名。現在の姫山に比定されている。

日吉神社(ひよしじんじゃ)

神崎郡神河町比延(ひえ)に所在する神社。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、オオナムチノミコト、スクナヒコナノミコト。『播磨国風土記』の、「埴岡里」の伝説に関係がある神社といわれる。(『兵庫県大百科事典』下) 

蛭子命(ひるこのみこと)

日本神話に登場する神。蛭子神、水蛭神と同じ。イザナギとイザナミの間に最初に生まれた子であったが、婚姻の際、イザナミが先に声をかけたのが原因で、満足のゆく子にならなかったため、葦舟に乗せて流されてしまったと伝える。蛭子命と2番目に生まれたアワシマは、2神の子には数えないとされている。後に蛭子神は、恵比寿(戎:えびす)と同一視され、信仰の対象となった。

広田八幡神社(ひろたはちまんじんじゃ)

南あわじ市広田広田に所在する神社。祭神は応神天皇。寿永3(1184)年、平家追討中の源頼朝が摂津の広田社(西宮市)に広田荘を寄進し、戦勝を祈願したことに始まるという。神社は明治32(1899)年に失火で全焼し、現在残っている社殿は4年後に再建されたもの。隣接して広田梅林があり、観光地となっている。

札所(ふだしょ)

仏教の霊場で、参詣したしるしに札を受けたり、納めたりするところ。西国三十三箇所、四国八十八箇所など。

ブラックバス(ぶらっくばす)

スズキ目サンフィッシュ科の淡水魚のうち、オオクチバス、コクチバスなどの総称。北米が原産で、日本には、1925年に移入された(箱根、芦ノ湖)。その後人為的放流が繰り返されたことで全国に広がったが、特に1980年代以降、ゲームフィッシングの対象魚として爆発的に広がり、兵庫県下でもほとんどの河川、ため池等で生息が確認されるまでに至っている。ブラックバスの放流によって、在来の魚類が激減するなどの影響が指摘されており、2004年に制定された「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」により、輸入放流などが禁止された。

豊林寺(ぶりんじ)

丹波篠山市福井に所在する真言宗の寺院。玄渓山(げんけいざん)と号する。伝承では、651年に法道仙人が開いたとされ、陽成天皇(ようぜいてんのう:在位876~84)の時には勅願所(ちょくがんしょ)となったと伝えられる。鎌倉時代には修験道の寺院として栄えたが、応仁元(1467)年、兵火により焼失した。再興後も、明智光秀の丹波侵攻により再び兵火をうけた。本尊は観世音菩薩坐像。

豊林寺城(ぶりんじじょう)

丹波篠山市福井に所在する中世の山城跡。豊林寺背後の城山山頂(520m)にあり、福井城、大雲城(おくもじょう)とも呼ぶ。応永年間(1394~1428)に築かれ、大芋氏(おくもし)代々の拠点であった。

ホアカリノミコト(ほあかりのみこと)

『播磨国風土記』によれば、オオナムチノミコトの子であるが、記紀ではアメノオシホミミとヨロヅハタトヨアキツシヒメとの子とされている。『播磨国風土記』によると、あまりにも乱暴な子であったため、オオナムチが船に乗せて出航した際、立ち寄った場所に置き去りにしようとした。これがホアカリノミコトを怒らせ、海が荒れ狂ったため船は難破して、オオナムチは非常な難渋をしたという。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本では平安時代末ごろから作られるようになり、鎌倉時代中ごろからはその役割が、墓碑や供養塔に変化していった。多くの場合石塔である。

北条時頼(ほうじょうときより)

鎌倉幕府の第5代執権(1227~63)。幕府に引付衆(ひきつけしゅう)を置いて、裁判の迅速化と公正化をはかるなど幕府政治の改革をおこなったほか、有力豪族であった三浦氏を滅ぼして北条氏独裁体制を確立した。民政にも尽力したとされ、このため、諸国巡回の伝説がある。

法道仙人(ほうどうせんにん)

法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)を開いたとされる、伝説上の仙人。他にも数多くの、近畿地方の山岳寺院を開いたとされる。法道仙人についての最も古い記録は、兵庫県加東市にある御嶽山(みたけさん)清水寺に伝わる1181年のものである。

伝説によれば、法道仙人は天竺(てんじく=インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)に住む五百侍明仙の一人で、孝徳天皇のころ、紫雲に乗って日本に渡り、法華山一乗寺を開いたという。千手大悲銅像(千手観音)と仏舎利(ぶっしゃり)、宝鉢を持って常に法華経を誦(よう)し、また、その鉢を里へ飛ばしては供物を受けたので、空鉢仙人とも呼ばれたとされる。室町時代初期に著された『峰相記(みねあいき)』には、播磨において法道仙人が開いた寺として、20か寺があげられている。

法隆寺(ほうりゅうじ)

奈良県生駒郡斑鳩町に所在する聖徳宗の寺院。聖徳太子が建立した寺院のひとつで、創建年代は7世紀の前半とされる。創建時の伽藍は670年に焼失したことが『日本書紀』に記録されており、金堂、五重塔などがある現在の西院伽藍は、その後に再建されたものと考えられている。西院伽藍は、木造建築としては世界最古のもので、建築のうち西院伽藍と東院伽藍の夢殿が国宝に指定されているほか、仏像、工芸品などに多数の国宝がある。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録。

細川氏(ほそかわし)

清和源氏(せいわげんじ)の流れをひく、足利氏の支族。足利義季(あしかがよしすえ)が三河国細川村に住み、細川姓を名乗ったことに始まる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の挙兵に従ったことから、室町幕府の管領(かんれい:室町幕府で将軍を補佐した最高職)として、讃岐・阿波・河内・和泉などを領国として勢威をふるった。

応仁の乱後は衰退したが、織田氏、豊臣氏に仕えた後、関ヶ原の戦いでは徳川氏に属し、江戸時代には肥後熊本54万石を領する有力外様大名となった。

菩提寺(ぼだいじ)

先祖代々の墓を置き、葬式や法事をおこなう寺。

ま行

枕草子・清少納言(まくらのそうし・せいしょうなごん)

枕草子は、平安時代に清少納言により著された随筆集で、全3巻。一条天皇の中宮、定子に仕えていた筆者の随筆で、宮中の日常や行事、筆者の自然観、人生観などからなる。豊かな感受性と透徹した文体で、同時期の『源氏物語』と並び、平安時代女流文学の代表作とされる。筆者の清少納言は清原元輔の娘で、本名、生没年とも不詳。

松帆神社(まつほじんじゃ)

淡路市久留麻(くるま)に所在する神社。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。社伝では、楠木正成が湊川の合戦で戦死した際、家臣が正成の守護神である八幡大神を久留麻の地に祭ったのが始まりと伝える。明治14(1881)年に松帆神社と改称した。宝物として、後鳥羽上皇(1180~1239)の時代に皇室刀鍛冶筆頭であった福岡一文字則宗(ふくおかいちもんじのりむね)の「菊一文字」(国指定重要美術品)、伎楽面ほか多数を蔵する。

円山川(まるやまがわ)

兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

箕谷古墳群(みいだにこふんぐん)

養父市八鹿町小山に所在する、古墳時代後期の5基の円墳からなる古墳群。円山川支流である八木川の、左岸に派生する尾根に挟まれた谷に立地する。1983~84年に体育施設建設に伴う発掘調査がおこなわれ、2号墳から「戊辰(ぼしん)年五月□」の銅象嵌(どうぞうがん)銘文がある大刀が出土して注目を集めた。「戊辰年」は、西暦608年とされており、同古墳で出土した須恵器(すえき)とともに、古墳の年代を研究する上での基準資料となっている。箕谷古墳群は国史跡、大刀は重要文化財に指定されている。

源頼朝(みなもとのよりとも)

鎌倉幕府初代将軍(1147~99)。源義朝(よしとも)の三男。平治の乱で敗走する途中捕らえられ、伊豆へ流された。その後、以仁王(もちひとおう)の令旨により挙兵し、一度は敗れたものの関東地方の武士の支持を受け、鎌倉で政権を樹立した。のち、源範頼(のりより)・義経(よしつね)らを大将として、源義仲(よしなか)、平氏一門を討って京都を確保した。平氏滅亡後は、院に接近していた義経を追い、その追捕を理由として諸国に守護・地頭を置いて政権を確固たるものとした。1192年、征夷大将軍に任ぜられた。

峰相記(みねあいき)

1348年ごろに著された中世前期の播磨地方の地誌。著者は不明である。播磨国峯相山鶏足寺(ぶしょうざんけいそくじ)に参詣した僧侶と、そこに住む老僧の問答形式で著されている。日本の仏教の教義にはじまり、播磨の霊場の縁起、各地の世情や地誌などが記されている。安倍晴明(あべのせいめい)と芦屋道満(あしやどうまん)の逸話、福泊築港、悪党蜂起の記述など、鎌倉時代末の播磨地域を知る上で重要な記録となっている。最古の写本は、太子町斑鳩寺(はんきゅうじ)に伝わる1511年の年記をもつもの。

妙見山(みょうけんさん)

兵庫県下では各地にこの名を冠した山があるが、ここでは養父市に所在する山。標高は1,139m。氷ノ山後山那岐山国定公園(ひょうのせんうしろやまなぎさんこくていこうえん)に属し、ブナの原生林をはじめ植生がよく保存され、動物も豊富である。

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)

仏教における信仰対象である天部(てんぶ:仏法を守護する天界の善神の総称)の一つ。妙見菩薩は他の菩薩と異なり、インドが発祥ではなく中国で成立した。中国では北斗七星を信仰する思想があり、これが仏教思想と融合して神格化されたものが妙見菩薩だという。「妙見」は、見る力に優れた者の意味であり、真理や善悪を見る力に優れた仏であることを示す。国土を守り幸福をもたらすとされ、日本では、奈良時代から信仰の対象となってきた。全国に散らばる「妙見山」は、妙見菩薩信仰が広くおこなわれていたことを示すものである。

名神大社(みょうじんたいしゃ)

延喜式で定められた神社の社格。鎮座の年代が古く由緒正しくて霊験ある神社。名神社。

三輪神社(みわじんじゃ)

三田市三輪に所在する神社。大和国一宮である大神神社(おおみわじんじゃ:奈良県桜井市所在)から分祀(ぶんし:神を分けて祭ること)された神社で、オオナムチノミコト(大己貴神)を祭神とする。新抄挌勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう:平安時代に成立した法制書)等によれば、天平神護元(765)年9月摂津の国に大和の大神神社の封戸(ふこ:社寺に所属して、租税や労役を納める民)を置いたという記述が見えることから、この時代にはすでに存在していたと考えられており、県下でも屈指の古社である。

武庫川(むこがわ)

篠山盆地に源流をもち、三田盆地、武庫川渓谷を経て大阪湾に注ぐ河川。延長は約65km、流域面積は496平方キロメートル。主な支流には、青野川、有馬川、波豆川などがある。三田盆地より下流にあたる、宝塚市武田尾(たけだお)から西宮市生瀬(なまぜ)周辺では、深さ100~200mの渓谷を形成する。下流域は武庫平野とも呼ばれ、大阪平野の北西部を占める。河口付近は「武庫の浦」と呼ばれ、万葉集にもその地名が見える。

室町時代(むろまちじだい)

足利尊氏(あしかがたかうじ)が建武式目(けんむしきもく)を制定した1336年、または征夷大将軍に任ぜられた1338年から、織田信長(おだのぶなが)によって、足利義昭(あしかがよしあき)が京から追放された1573年までの、約240年間。1467年の応仁の乱以降は、戦国時代とも呼ばれる。

雌岡山・雄岡山(めっこさん・おっこさん)

神戸市西区に所在する山。雌岡山は標高249m、雄岡山は標高241mを測る。古代から神奈備(かんなび:神が鎮座する山)として信仰されたようで、雌岡山頂上には、神出神社が祭られている。優美な山容から、一帯は『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でCランクにあげられている。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

仏教における菩薩の一つ。文殊師利菩薩(もんじゅしゅりぼさつ)の略。普賢菩薩(ふげんぼさつ)とともに、釈迦如来の脇侍をつとめる(釈迦三尊像など)。知恵の菩薩として信仰されており、「三人寄れば文殊の智恵」などのことわざでよく知られる。

や行

薬師如来(やくしにょらい)

東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の仏。修行者の時に12の願を立てて成仏したとされ、衆生(しゅじょう)の病気を治し、安楽を得させる仏とされている。仏教の伝来以後、治病の仏として広く信仰された。薬壺(つぼ)を持つ像が多い。

柳田国男(やなぎたくにお)

民俗学者(1875~1962)。兵庫県神崎郡福崎町(当時は田原村)に生まれる。東京大学卒業後農商務省に入り、後には貴族院書記官長となったが1919年に退官。朝日新聞社に入る。同社の論説委員などを経て1932年に退社。以後は民俗学の研究に没頭する。1935年に民間伝承の会(後の日本民俗学会)、1947年に民俗学研究所を創設し、日本民俗学の発展に努めた。100余の編著を残している。福崎町辻川に記念館があり、生家が保存されている。

養父神社(やぶじんじゃ)

養父市養父市場に所在する式内社(しきないしゃ)で、但馬五社の一つ。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大巳貴命(おおなむぢのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)などを祭神とする。

邪馬台国・卑弥呼(やまたいこく・ひみこ)

邪馬台国は、『魏志(ぎし)』の東夷伝倭人の条(一般には魏志倭人伝と呼ばれる)に記載された倭の国の一つで、卑弥呼はその女王。『魏志』によれば、小国が分立して争乱状態にあった倭は、卑弥呼を女王に立てることで安定したという。卑弥呼は数回にわたって魏に遣使し、「親魏倭王(しんぎわのおう)」の称号と金印を与えられた。卑弥呼は3世紀中ごろに没したとされるが、これは古墳時代の初頭にあたる。邪馬台国の所在地は古くから論争の的となっており、九州説と大和説が対立していたが、近年、初期の大型古墳が大和地域で発生したことが明らかになり、大和説をとる研究者が多くなっている。

永沢寺(ようたくじ)

三田市に所在する、曹洞宗の寺院。青原山(せいげんざん)と号する。応安年間(14世紀後半)に、細川頼之(ほそかわよりゆき)が後円融天皇(ごえんゆうてんのう)の命により七堂伽藍を建立した。開祖は、通幻(つうげん)。以後細川氏の庇護を受けた。

釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来の釈迦三尊を本尊とする。建物は、安永7(1778)年に再建された本堂、開祖堂、庫裡、接賓、書院などがある。

横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

古墳に設けられる埋葬施設のひとつ。竪穴式石室と対比される。石材を積んで構築された石室の一方に、外部と結ばれた通路を設けたもので、通常は棺を納める玄室(げんしつ)と、通路にあたる羨道(せんどう)から構成される。

ら行

裸石神社・姫石神社(らいせきじんじゃ・ひめいしじんじゃ)

神戸市西区神出町の雌岡山中腹に所在する神社。縁結び、安産の神として信仰される。裸石神社は、彦石と呼ばれる男性の象徴を祭り、姫石神社は女性を象徴する三裂した巨岩を祭る。現在は裸石神社のみ社殿が設けられているが、本来社殿はなかった。彦石にまたがって体をゆすると願いがかなうという伝承があるといい、巨岩を性の象徴として、子孫繁栄や豊饒を祈る古い信仰の系譜をひくものと思われる。裸石神社には、アワビの貝殻を供えて祈願するという風習があり、彦石の周辺は貝殻で埋まっている。

利神城(りかんじょう)

佐用町平福(ひらふく)にある山城。14世紀中頃に、赤松氏の一族である別所氏が築城した。嘉吉の乱(かきつのらん:1441年)の後、一時山名氏が入ったが、赤松氏の再興とともに、再び別所氏が入った。1577年に、山中鹿之助に攻められて落城し、宇喜多氏の支配下となったが、関ヶ原の戦い後、播磨国を与えられた池田輝政が、甥の池田由之に佐用郡を支配させた。標高373mの山頂に、本丸、鵜の丸、二の丸、三の丸、大坂丸などの郭群を設けて威容を誇ったが、一国一城令により取り壊された。石垣、馬場、井戸などが残り、近世初頭の山城の姿をよくとどめる。

六十六部廻国納経(ろくじゅうろくぶかいこくのうきょう)

法華経を書写し、全国の66か国の霊場に1部ずつ納経する巡礼行。この巡礼に従事する行者を六十六部行者、廻国聖(かいこくひじり)などと呼ぶ。鎌倉時代末から室町時代にかけて流行した。兵庫県下でも、神戸市北区淡河町(おうごちょう)の勝雄経塚(かつおきょうづか)で、経巻を入れた金銅製の経筒が発掘されている。

わ行

和気清麻呂(わけのきよまろ)

奈良時代末~平安時代初頭の公卿(733~99)。従三位。769年、僧道鏡が皇位を奪おうとした事件の際、宇佐八幡宮の神託をもってこれを退けた。そのため大隅(鹿児島県)に流されたが、道鏡の失脚後に復権。桓武天皇(かんむてんのう)の信任を得た。