東播磨の名山
播磨灘(はりまなだ)を見晴らす高御位山(たかみくらやま)は、山好きの人にはなじみが深いかもしれない。標高はわずか304mしかないが、南北の登山道は岩場が露出したかなり急峻な斜面で、登るのにはけっこう骨が折れる。東西はやや緩やかであるが、代わりに長い縦走路があって、全行程を歩こうと思うと、健脚の人でも5~6時間はかかるだろう。
JRの山陽本線ならば、曽根駅の少し東側あたりで北側をみると、正面にながめられるのがこの山である。
高御位山の南麓は、高砂市(たかさごし)阿弥陀町という。「右手のない阿弥陀様」の話の中で、時光上人が海から引き揚げた阿弥陀様をお祭りするために寺を創建し、それがこの地に移転されたことが地名のおこりだそうである。
国道2号線の阿弥陀交差点から、北へ1kmほど上った山ろくが、最短距離の登山道の登り口である。上るほどに岩肌が露出してくる急な登山道は、重い機材を抱えた取材の時にはとりわけ大変であった。中腹を過ぎたあたりからは、高砂市の市街地から播磨灘への眺望が開けてくる。雄大なながめで、さほど標高もないこの山がなぜ人気があるのかがわかる。南西に目を転じると、尾根になかば隠された家島群島が見え、その向こうには四国の島影がかすんでいる。
用語解説
時光寺の阿弥陀様
阿弥陀の交差点から県道395号線を南へ下ると、道はすぐにJR山陽本線の線路を越える。坂を下りきって間もなくの角を右(西)へ折れると、正面が時光寺である。
播州(ばんしゅう)の善光寺とも称される時光寺は、1249年に時光上人が海中から阿弥陀如来像を引き揚げ、これを本尊として創建したことに始まるという。播州善光寺という俗称にも、ひとつの伝説があるそうだ。昔、兵庫に住む老いた行者が、毎年信州の善光寺へ参詣(さんけい)しているのを見た善光寺の阿弥陀如来が、その労苦をあわれみ、「時光寺の阿弥陀は善光寺の分身であり、三度参詣すれば、善光寺へ一度参詣するのと同じである」と教えたのが始まりだという。
お寺のご厚意により、拝見することができたご本尊の阿弥陀様は、確かに右手のひじのあたりから先が無いようだった。
この阿弥陀様を引き揚げた網を納めたのが、同じ高砂市内の伊保東(いほひがし)にある網堂である。網堂は、伊保小学校北東の集落の中ほどにある。村の中の細い道を行かねばならず、少し見つけにくいが、新幹線沿いにあるスーパーマーケットを目印に、その東側の道を南に入ればよい。
古い家や築地塀が続く道を行くと、村の中にぽつんと、思ったより大きなお堂が目に付く。なんの飾りもない質素なお堂であるが、今もきちんと掃除され、お祭りされている。
この阿弥陀様が、もう一つの伝説でも活躍しているということは、伝説ができたのが時光寺建立以後だったのか、あるいは建立以後に脚色されたためだろうか。どうもお話そのものは古そうに思えるので、僕としては後者の意見を採用したいのだが。
高御位山の神様が、家島の神様と上島をめぐって争ったという伝説は、なかなかユーモラスなお話である。高御位山の神様には、もう一つ古い伝説が『播磨国風土記』にあって、海の中にある牛島という島の神様との争いがその内容になっている。このお話では高御位山の神様が勝ったことになっているが、いずれにせよ、高御位山の神様が相当古くから人々に知られていたことは間違いないだろう。
用語解説
家島の大神
一方の家島の大神も、古くから祭られる神であり、その点では引けをとらない。家島本島の北東端にある家島神社からは、少し遠くはなるものの、高御位山の頂上を見ることができる。
姫路港から船に30分ほど揺られると、家島に到着する。船が島へ近づいて湾に入りかけるころ、進行方向左手の半島の先に、石造りの鳥居を見ることができる。これが家島神社である。島最大の港は真浦港であるが、神社は湾の東にある宮港からが近い。
家島神社は、家島群島最大の島である家島の北東端、天神鼻(てんじんはな)の山頂にある。島の北東部には平地がほとんどなく、港から、海岸に沿った細い道の行き着くところが家島神社である。ここにお祭りされているのは、オオナムチノミコト、スクナヒコナノミコトという国土経営でおなじみの神様たちであるが、天満大神もともにお祭りされている。
菅原道真が大宰府に流される途中で立ち寄ったという伝説もあるようで、本来は天津神が祭られていたものから、次第に天神へと転じたものなのだろう。
瀬戸内に浮かぶ小島であるにもかかわらず、背後をうっそうとした原生林に覆われた家島神社は、古代の謎を今も秘めている。この島こそがオノコロ島だという説があるのも、うなずける。そう思いながら短い家島滞在を終えた。