播磨灘(はりまなだ)

 兵庫県の播磨地域に面する、瀬戸内海東部の海域。東を淡路島、西を小豆島(しょうどしま)、南を四国によって画されている。面積は約2,500平方キロメートル。近畿、中国、四国、九州を結ぶ重要な航路がある。

 
高御位山(たかみくらいやま)

 高砂市と加古川市の境界にある山。標高は304m。低山ではあるが、山頂から山腹にかけて岩盤が露頭する急斜面が続く。頂上からの展望がよく登山者も多い。また、高砂市北西部の鹿島神社からは、百間岩、鷹の巣山、鹿島山、高御位山と続く縦走路がある。

 
時光上人(じこうしょうにん)

 鎌倉時代の僧(?~1276)。俗姓は源経家(みなもとのつねいえ)。浄土宗の証空上人(しょうくうしょうにん)の弟子となり、時光坊と称した。高砂市伊保崎(いほざき)の心光寺(しんこうじ:現在の網堂)での修行中、五色の雲に乗って現れた高僧のお告げによって、播磨灘各所で網を引いたところ、阿弥陀如来像の手足や体が引き揚げられたという。時光寺は、この如来像を祭るため建てられたもの。

 
阿弥陀如来(あみだにょらい)

 阿弥陀仏と同じ。大乗仏教の浄土教の中心をなす仏。修行者であったとき衆生(しゅじょう)救済の願をたて、成仏して後は西方の極楽浄土で教化しているとされる。自力で成仏できない人も、念仏を唱えれば阿弥陀仏の力で救われ、極楽に往生すると説く。平安時代に信仰が高まり、浄土宗・浄土真宗の本尊となっている。

 
家島群島(いえしまぐんとう)

 家島群島は播磨灘北西部に位置し、大小40余の島からなる。家島の地名は、『播磨国風土記』にも見える。島名は「えじま」と言いならわされていたが、昭和3(1928)年に町制が施行された際には、「いえしまちょう」と定められた。平成18(2006)年に姫路市に合併された。

 
時光寺(じこうじ)

 高砂市時光寺町に所在する浄土宗の寺院。遍照山(へんしょうざん)と号する。また、播磨の善光寺と称される。縁起によれば、時光上人が播磨灘の海中より引き揚げた、阿弥陀如来像を祭るため、1249年に堂宇を建てたのが始まりという。その後の争乱で幾度か焼失したが、1613年に現在の本堂が再建された。境内の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は県指定文化財。

 
善光寺(ぜんこうじ)

 長野県長野市に所在する無宗派の寺院。尼寺であり、浄土・天台両宗の管理に属する。定額山(じょうがくさん)と号する。7世紀初めの創建とされるが、詳細は不詳。本尊は、欽明天皇の時代に、百済の聖明王から献じられたという阿弥陀三尊であるが、絶対の秘仏であり、善光寺住職さえ見ることはできないという。本堂は昭和28(1953)年国宝に指定されている。 

 
網堂(あみどう)

 高砂市伊保東(いほひがし)に所在する堂。時光寺の本尊である、阿弥陀如来像を引き揚げた網が祭られたという。

 
播磨国風土記(はりまのくにふどき)

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
家島神社(いえしまじんじゃ)

 姫路市家島町宮(みや)に所在する式内社(しきないしゃ)。祭神はオオナムチノミコト、スクナヒコナノミコトと天満大神(てんまんおおかみ)。創立年代は不詳であるが、840年には官社に列せられている。初めは天神(あまつかみ)を祭っていたが、後にオオナムチノミコトとスクナヒコナノミコトが合祀(ごうし)された。天満大神(菅原道真)を祭神とするのは、天神を天満大神と誤って伝えたためという。

 
オオナムチノミコト(おおなむちのみこと)

 記紀や風土記に見られる神。国造り、国土経営などの神とされるほか、農業神、商業神、医療神としても信仰される。大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命・大汝命など、さまざまに表記される。『播磨国風土記』では、葦原色許乎神(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。また記紀では、大国主神(おおくにぬしのかみ)と同一神として扱われる。こうした神名の多重性は、本来、各地域で伝承された別個の神を、記紀編集などの過程で統一しようとしたため生じたものであろう。

 
スクナヒコナノミコト(すくなひこなのみこと)

 記紀や風土記に見られる神。『日本書記』では少彦名命(スクナヒコナノミコト)、『古事記』では少名毘古那神(スクナビコナノカミ)。『播磨国風土記』では、オオナムチノミコトとともに国造りをおこなったとされている。道後温泉や玉造温泉などを発見したと伝えられ、温泉開発の神としても祭られる。『古事記』によれば、少彦名命は、天之羅摩船(アメノカガミノフネ:ガガイモのさやでできた船)に乗り、蛾(が)の皮の衣服を着て出雲国にやってきた小さな神とされており、民話「一寸法師」の原型とも言われている。

 
天満大神(てんまんおおかみ)

 菅原道真を神としたもの。天満宮の祭神。

 
菅原道真(すがわらのみちざね)

 平安時代前期の公卿(くぎょう)、学者(845~903)。菅公(かんこう)と称された。幼少より詩歌に才能を発揮し、33歳で文章博士(もんじょうはかせ:律令政府の官僚養成機関であった大学寮に置かれた教授職)に任じられた。宇多、醍醐両天皇の信任が厚く、当時の「家の格」を超えて昇進し、従二位右大臣にまで任ぜられた。しかし、道真への権力集中を恐れた藤原氏や、中・下級貴族の反発も強くなり、左大臣藤原時平が「斉世親王を立てて皇位を奪おうとしている」と天皇に讒言(ざんげん)したことで、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、同地で没した。

 
大宰府(だざいふ)

 中世以降太宰府とも表記するが、歴史用語としては「大」の字を用いる。

 7世紀後半に、九州の筑前国(ちくぜんのくに)に設置された地方行政機関。外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、種子島)の行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

 
天津神(あまつかみ)

 記紀神話で、神の国である高天原(たかまがはら)にいた神。高天原から日本国土へ降ってきた神、およびその子孫の神も天津神と呼ばれる。これに対し、元から地上にいた神を国津神(くにつかみ)と呼ぶ。

 
オノコロ島(おのころじま)

 「自凝島」と表記する。記紀の神話では、日本で最初にできた島とされる。その内容は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神が、天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天沼矛(あまのぬぼこ)で海をかき回して引き上げたとき、矛の先からしたたる潮が固まってできたというものである。空想上の島であるのか、現実の島のいずれかに擬せられていたのかは不明であるが、現在、兵庫県の淡路島、沼島をはじめ数か所をオノコロ島にあてる考えがある。