市川の流れに沿って
人々に愛される文殊様
文殊様のお話で有名な妙徳山神積寺(じんしゃくじ)は、市川から1kmほど東の、山のふもとにある。「田原の文殊さん」と親しまれる神積寺は、天台宗の寺院として10世紀の末ごろに創建され、「播磨天台六山」の一つとして繁栄したが、後に全山を焼失し、現在のお堂は天正年間に再建されたものだという。森に囲まれた、いくつか簡素なお堂や大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建つ境内の中央に、薬師如来と文殊菩薩がお祭りされるお堂があった。
実は、伝説の主人公である文殊様は、神積寺の本尊ではない。本尊としてお祭りされているのは薬師如来で、こちらは国の重要文化財に指定されている。
さてこの物語であるが、どういうわけで、はるかに遠い切戸の文殊と播磨の文殊が知恵比べをするなどという話ができたのだろうというのが、第一の疑問であった。調べてみてひとつわかったことがある。神積寺の文殊様は、現在は「田原の文殊」として親しまれているが、お話の中では「北野の文殊」として登場する。実は、天橋立(あまのはしだて)に近い京都府の宮津にも、「北野の文殊」のお話が伝わっていて、これも同様に「文殊様の交換」話だそうだ。
同型のお話が、人から人へと語り継がれて、いつの間にかその土地なりに変化するというのはよくあることなのだが、このお話もそのひとつではないだろうか。
※写真は悟真院提供
神積寺には、文殊様の伝説のほかに、もう一つ興味深いものが伝わっている。それは毎年成人式の日におこなわれる鬼追いである。鬼追いは追儺式(ついなしき)とも言い、元来は年越しの行事であった。鬼追いというと「悪い鬼を追い払う」ように思われるが、現在の鬼追いでは、「良い鬼が悪霊を払う」という姿が普通になっているようだ。鬼追いを直接取材することはできなかったが、現在神積寺を管理している悟真院(ごしんいん)のご厚意で、その様子を撮影した写真などを拝見することができた。
地元の人でにぎわう鬼追いには、人々が仏様に寄せる信仰が映し出されている。
用語解説
七種山と金剛城寺
神積寺から北西へ5kmほどの場所には、七種山金剛城寺がある。聖徳太子の命によって建立されたという金剛城寺は、元は七種山(なぐさやま)中腹の七種滝付近にあったそうであるが、明治初期に現在の場所へ移された。現在の建物の中では、山門だけが七種山にあったものだという。
その風格のある山門を入ると、よく手入れされて、お堂と調和した庭が印象的である。正面には広壮な本堂と阿弥陀堂が並び、本堂背後の山腹には護摩堂が位置している。山と庭園が季節ごとに美しく彩られ、お堂のたたずまいと調和して、しっとりと落ち着いた雰囲気をかもし出す。もう一度、ゆっくり訪ねたいお寺である。
金剛城寺から、さらに北西へ3kmほど行ったところにあるのが、標高683mの七種山で、七種滝はその中腹付近にある。この渓谷にはいくつもの滝が連なっているが、落差72mという雄滝(七種滝)は、兵庫県でも有数の豪快な瀑布(ばくふ)と聞いていた。
ところが残念なことに、取材で訪ねた折は長く雨がなかったせいか滝の水はすっかり枯れており、ただ巨大な岩壁だけが屹立(きつりつ)している状況であった。いつか、雨の多い季節に再訪したいと思う。
この七種滝の渓谷には、「七種の川人(せんにん)」という伝説がある。かつて日照りに苦しみ、種籾(たねもみ)さえなくなったとき、ある村人がここで川人に会って不思議な袋をもらったという。その袋には7種類の種子が入っており、いくら取り出してもなくならなかったという。滝の水が戻ったなら、そんな川人がいたという幽玄郷の雰囲気を、今でも感じることができるのではないだろうか。
もう一度市川筋に戻って少し上流へとさかのぼると、神河町越知谷(かみかわちょうおちだに)の奥には、「ひょうごの椀貸し伝説を巡る」で紹介した、椀貸し淵(わんかしぶち)がある。少し下流の姫路市船津町には、オオナムチノミコトの伝説を伝える粳岡(ぬかおか)があり、その東にはアメノヒボコノミコトが軍勢を集めたという八千種野(やちぐさの)がある。
播磨から但馬へ、あるいはその逆へ。時の流れを静かに見てきたであろう市川の流域には、まだ知られていない伝説が眠っているのかもしれない。