2025年1月11日から、特別展「阪神・淡路大震災を伝える・知らせる―情報と通信の1990年代―」が始まりました。これまで兵庫県立歴史博物館では、2005年、2015年に災害史や被災文化遺産に関する展覧会を企画してきましたが、阪神・淡路大震災それじたいをテーマとする展覧会を開催するのは今回が初めてです。震災から30年の節目に行う展示のなかで意識したことについて、いくつか記しておきたいと思います。

まず、この特別展のタイトル「伝える・知らせる」には、2つの含意があります。ひとつめは、震災当時に、被災地の状況や生きるために必要な情報を同じ時代の人たちに伝え、知らせること。ふたつめは、震災の体験を記録し、次の時代へ伝え、知らせることです。

これらのことを考えるには、人びとがどのような方法で震災を伝えようとしたのかを知ることが大切な意味を持ちます。そこで、阪神・淡路大震災が発生した1990年代の情報と通信にかかわる歴史的な視点が必要になると考えました。 こうした視点から、展示のなかでは、震災直後に発行された新聞紙面や、神戸の報道機関が当時使用していた取材のための機材などのほか、ボランティア団体が発行したミニコミ誌などを多く展示しています。その詳細については、ぜひ展示をご覧いただきたく思いますが、これらを展示するにあたっては、その歴史的背景の部分を重視しました。

たとえば1990年代には携帯電話の利用が進んで1995年ごろから急速に普及しますが、携帯電話の契約数が固定電話を上回るのは2000年です。つまり1995年には、携帯電話があらわれつつも、なお郵便や固定電話が主要な通信手段であったということになります。

また、1980年代以降、さまざまなタウン情報誌やミニコミ誌が地域メディアとして広がっていました。インターネットは1990年代後半から2000年代にかけて急速に普及しますが、同じ時期には新聞の発行部数が減り始めます。つまり、阪神・淡路大震災が起きた1990年代は、新しいメディアや通信機器が出始めたけれども、それまでのものが主流であった時代ということになります。

こうした事がらを踏まえ、被災地での情報発信のあり方を見ると、新聞やテレビなどのマスコミだけでは取り上げきれない身近な生活情報を、ボランティアが現地の状況を的確に把握し、きめ細やかな情報発信を続けていました。こうした被災地におけるミニコミ誌の役割の背景には、1990年代の情報発信をめぐる状況を見ることができます。

そしてこの時期は、兵庫県の人口においても変化のあらわれる時期でした。戦後、兵庫県は一貫して人口が増えますが、高度成長期にそれを支えていたのは神戸・阪神間の大都市部で、1970年代以降には東播磨や阪神北地域の人口が大きく増加しました。さらに神戸市は、1980年代以降、大規模な都市開発を進め、「山、海へ行く」と表現されるように広大なニュータウンの造成による宅地開発を続けます。それによって神戸市西区、北区の人口が急増したのに対し、戦前からの旧市街地を含む地域の人口は減少するなど、いわゆる「インナーシティ」問題が生じました。こうした動向は、阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けた長田区に顕著でした。

もともと長田には、戦前から朝鮮半島にルーツをもつ人たちが多く住んでいましたが、これにくわえ、1980年代になると、ベトナム戦争終結後に日本にやって来たベトナム人も増加し、長田の地場産業であるケミカルシューズ製造の担い手となりました。このように、神戸市内の地域社会が国際化していくなかで阪神・淡路大震災が発生したことになります。

展示のなかでは、神戸市長田区の多言語・多文化放送局「FMわぃわぃ」に関する資料を多数展示しています。なぜ、長田で、外国人支援の取り組みが広がったのかは、こうした1980年代以降の地域社会のうつりかわりと深くかかわっているものと言うことができます。

 ここまで記したとおり、この展覧会にあたっては、阪神・淡路大震災がどのような時代に発生し、それがどのように現在につながっているのかを意識しました。この展示では、テーマや地域などの面で必ずしも取り上げきれなかった点が多くありますが、1990年代という時代のなかで震災を捉え直し、現在にまで続くさまざまな問題に改めて向き合う機会となれば幸いです。

 特別展「阪神・淡路大震災を伝える・知らせる―情報と通信の1990年代―」は、3月16日(日)まで開催しています。ぜひご来館ください。