怪談皿屋敷

「一つ、二つ、…」との皿数えが登場する『播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)』。江戸を舞台とした怪談『番町皿屋敷(ばんちょうさらやしき)』とあわせて、全国的に有名な怪談の一つと言ってよいだろう。江戸時代から近代にかけて、浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎、落語、小説、映画とさまざまな分野の作品にリライトされてきており、古くからよく知られてきた。

菊女ヶ霊(『北斎漫画』)
菊女ヶ霊(『北斎漫画』)

このサイトでは、『姫路城史』(姫路城史刊行会、1952年)に掲載された筋に沿って紹介した。これは江戸時代後期に書かれたと見られる、『播州皿屋敷実録』という書物を要約したものである。

ただし、このサイトでは、小学生にも読みやすくするために、かなり枝葉をそぎ落として紹介した。『播州皿屋敷実録』では、お菊は実は小寺氏の家臣である衣笠元信(きぬがさもとのぶ)と恋仲で、主家への忠義のために元信から命じられて青山家で働いているとされ、また青山鉄山(あおやまてつざん)の子供小五郎も、小寺則職(こでらのりもと)の妹である白妙姫(しろたえひめ)と恋仲になっていて、そのために父のくわだてを止めようとしたなど、もっと複雑な恋愛関係が描かれ、そのほかにもさまざまなサブストーリーが組み込まれている。

こうした複雑な構成は、もはや素朴な「伝説」というよりは、現代の小説のような、「戯作(げさく)」と言うべきものである。『播州皿屋敷実録』のような、非道な主家や男たちの横暴にさいなまれる女性が、亡霊となって復讐(ふくしゅう)を遂げるとの構成は、封建社会における主従関係や、義理や道徳にしばられた家族関係などに日々直面していた当時の人々にとっては、共感しやすい話だったようだ。

用語解説

青山を訪ねる

稲岡神社
稲岡神社

さて、話の舞台は姫路周辺に設定され、姫路城のほかに、青山や随願寺(ずいがんじ)といった、姫路付近に住む人々にはなじみの深い地名が現れる。まずは、青山から訪ねてみよう。

青山には、江戸時代からの集落の北側に小さな丘があり、その麓に氏神をまつる稲岡神社(いなおかじんじゃ)がある。青山という地名は、この丘が鎮守の森として、常に青々と木々が茂っていたところからついたとされている。

宗全寺跡
宗全寺跡

青山の現地を訪ねると、皿屋敷伝説よりも、室町時代後半の一時期播磨を治めていた、山名(やまな)氏に関する寺跡や居館跡の伝承が目立つ。まず、江戸時代からの集落の中には宗全寺(そうぜんじ)と呼ばれる寺跡があり石仏が数体まつられている。ここは山名宗全の菩提寺(ぼだいじ)であったとされている。

また、西方の小丸山(こまるやま)には山名氏が播磨を治める拠点とした館があり、守護代の太田垣(おおたがき)氏がいたと伝えられている。さらに青山地区の北部、かつては「遠山(どやま)」と呼ばれた集落内には、太田垣氏の菩提寺として法灯寺(ほうとうじ)があったと伝えられ、跡地には「遠山の地蔵さん」と呼ぶ石仏をまつる小堂がある。

小丸山
小丸山
法灯寺跡
法灯寺跡

このように、青山に山名氏関連の伝承が多いことは、皿屋敷伝説を考える上でも興味深いのだが、このことは、また後ほど述べてみたい。

用語解説

姫路城と城下町

姫路城天守閣の二段下、上山里曲輪(かみやまざとくるわ)の中には「お菊井戸」とされる古井戸がある。もちろんお菊が投げ込まれた井戸、ということになっているが、この井戸自体は、江戸時代の文献では「釣瓶取井戸(つるべとりいど)」と呼ばれており、大正初めに姫路城が一般公開されるようになったころから、「お菊井戸」と呼ばれるようになったのではないかと考えられている。

姫路城内の「お菊井戸」
姫路城内の「お菊井戸」
姫路城天守閣と「お菊井戸」
姫路城天守閣と「お菊井戸」
車門跡付近
(左が中堀、右が船場川)
車門跡付近
(左が中堀、右が船場川)

『播州皿屋敷実録』では、お菊の身柄を引き取った町坪弾四郎(ちょうのつぼだんしろう)が、姫路城の車門(くるまもん)の近くにあった自らの屋敷で、庭の松につるし上げるなどしてお菊を拷問し、さらに姫路城内へ連行して鉄山が見ている前で井戸に投げ込んだとされている。

桐の馬場跡
(県立姫路東高校東側)
桐の馬場跡
(県立姫路東高校東側)

伝説の末尾には、このお菊がつるされたという「梅雨の松」が出てくるが、実際に江戸時代中ごろまでは、車門の外、中堀(なかぼり)と船場川(せんばがわ)との間に、梅雨になると枯れ、梅雨があけると緑になる「梅雨の松」があった。ただし、この松については宝暦12(1762)年成立の『播磨鑑(はりまかがみ)』では、元和年間(1615~24)に姫路藩士が植えたものであるとされている。また『播磨鑑』では、お菊との関連には触れられておらず、純粋に不思議な樹木として紹介されている。名物の松が先にあって、それが皿屋敷の話に取り込まれていったようだ。

竹の門跡
竹の門跡

また、青山鉄山は城下の桐の馬場地区に屋敷を構えており、お菊が殺されたあと、この屋敷の井戸からも皿数えの声が聞こえたという。「桐の馬場」という地名は江戸時代の姫路城下町の中にも見られ、現在の県立姫路東高校や国立病院機構姫路医療センターの裏手付近にあたる。しかし、この馬場は江戸時代前半にできたものである。

車門も桐の馬場も、いずれも江戸時代初めに池田輝政(いけだてるまさ)が現在の姫路城と城下町を建設して以降の地名で、伝説で語られている戦国時代にはなかったはずである。この話は、あくまで江戸時代の戯作として、事実とは混同せずに楽しんだほうがよい。

お菊神社
お菊神社
お菊神社
お菊神社
奉納用の皿
奉納用の皿
奉納された木像(左から小寺則職、お菊、青山鉄山)
奉納された木像(左から小寺則職、お菊、青山鉄山)

そのほか、『播州皿屋敷実録』からは離れるが、18世紀末~19世紀初頭に、姫路藩酒井家の家臣たちが編纂した史書『六臣譚筆(ろくしんたんぴつ)』には、姫路城下町の東側、五軒邸(ごけんやしき)地区にあった小幡九郎右衛門(おばたくろうえもん)の屋敷内に、「お菊の墓」があるとされている。この話には若干の手がかりがあり、文化3(1806)年の『姫路城下絵図』(当館蔵)では、五軒邸地区内の竹の門(たけのもん)近くに、小幡加賀右衛門の屋敷が記されており、この屋敷のことかと考えられる。しかし残念ながら、『六臣譚筆』に見えるお菊の墓は、現在確認できない。

お菊の霊がまつられている、十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)境内にあるお菊神社。境内の案内板によれば、皿にちなんで飲食店関係の人々が皿に願いを書いて奉納すると霊験があるという。この神社については、幕末期に姫路藩士の福本勇次が著した『村翁夜話集(そんのうやわしゅう)』(姫路市立城内図書館蔵)では、「是ハ近年祭リヨシ」と記されていて、伝説の時代である戦国時代まではさかのぼりそうもない。ただし、大坂で寛保元(1741)年から上演されていた浄瑠璃『播州皿屋敷』で、お菊が十二所神社境内にまつられているとされているので、お菊神社の存在はこのころまではさかのぼるようである。

用語解説

随願寺と御着城

随願寺本堂
随願寺本堂

悪役青山鉄山が小寺氏暗殺の陰謀を仕組んだ舞台となった随願寺。この寺は、古代以来の天台宗(てんだいしゅう)の寺院で、平安後期以降は播磨天台六ヶ寺の一つとして、播磨一国全体の安穏を祈る寺院として信仰を集めた。戦国時代末期には、小寺氏出身の僧侶である休夢(きゅうむ)が寺内の実権を握っていた時期もある。この伝説で小寺氏の花見の舞台とされたのも、こうした歴史的背景を踏まえたものであろう。

現在の伽藍(がらん)は、江戸時代中ごろに姫路藩主榊原(さかきばら)氏の寄進によって再建された本堂を中心としたものである。いまは静かな境内だが、かつては「三十六坊」と呼ばれる多数の子院(しいん=寺僧の住居)もあったと伝えられ、かなり繁栄していたようだ。境内を訪れると、こうした子院の跡地に梅林が開かれている。伝説では春の花見の舞台となっているが、現在の随願寺は梅見の名所である。

御着城
御着城

小寺氏は、戦国時代に姫路周辺を治めていた領主である。播磨守護赤松氏の南北朝時代以来の重臣で、戦国時代には、御着(ごちゃく)を拠点に飾東郡(しきとうぐん)周辺に勢力を広げ、戦国後期には守護赤松氏から半ば独立して地域を治めるようになった。小寺氏が本拠とした御着城跡には、現在も部分的にではあるが堀跡が残っている。

用語解説

県域のお菊伝説

さて、皿屋敷伝説は姫路や江戸だけではなく、全国にたくさんある。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社、2002年)では、岩手から鹿児島まで、合わせて48ヶ所の伝承地が紹介されている。

こうした皿屋敷伝説の広がりの背景としては、たとえば姫路から黒田氏が藩主として移っていった福岡県内に皿屋敷伝説が見られるなど、領主層の移住や親戚関係にともなって広がっていったと見られるものもある。このほか、宗教者の布教活動や流通業者の活動、さらには演劇を通した伝播などが考えられている。

利神城跡(奥の山頂部)と
口長谷の集落
利神城跡(奥の山頂部)と
口長谷の集落
深正院の井戸跡
(右側の塀の下)
深正院の井戸跡
(右側の塀の下)

兵庫県内では、姫路のほかに、佐用郡佐用町口長谷(くちながたに)に「お菊の墓」があり、背後にある利神城跡(りかんじょうし)にはお菊が身を投げた井戸があるとされている。また、尼崎市大物(だいもつ)の深正院(じんしょういん)にも、お菊が投げ込まれたとされる井戸の跡がある。

尼崎のお菊伝説は、時代を元禄の頃(17世紀末)とし、藩主青山氏の悪家老と、それに恋慕される侍女お菊が主人公となっている。尼崎のお菊伝説は、尼崎藩主の青山氏と、姫路の皿屋敷伝説の悪役青山鉄山との名字が共通することからできあがったのであろう。

このほか、お菊の亡霊が虫に姿を変えて現れるという、お菊虫の伝説がある。この虫は、アゲハチョウのさなぎのことで、かつて姫路などでは夏の縁日でも売られていたようだ。こうした伝説は、姫路や尼崎のほかに、加東市(かとうし)の旧滝野町(きゅうたきのちょう)などにもある。

用語解説

『竹叟夜話』の皿屋敷

さて、『播州皿屋敷』には、このサイトで掲載したもののほかにもいくつかの異なった筋立てがある。

このうち最も古い形態を示すと見られているのが、『竹叟夜話(ちくそうやわ)』に収録された話である。『竹叟夜話』は、天正5(1577)年に永良竹叟(ながらちくそう)という人物が著したとの奥書があり、これが事実であるとすれば、現在のところ『播州皿屋敷』を掲載した最も古い書物となる。江戸の『番町皿屋敷』と姫路の『播州皿屋敷』との、どちらが古いのかという議論が古来あるが、近年では、『竹叟夜話』の奥書に注目して、『播州皿屋敷』の方がより古いとの見方が有力となっている。

おもちゃ絵 怪談皿家敷
おもちゃ絵 怪談皿家敷

『竹叟夜話』収録の話は、時代を室町時代後半、播磨を山名氏が守護として治めていた時期に設定している。舞台は青山に拠点を構えていた山名氏重臣の小田垣主馬助(おだがきしゅめのすけ)の館となっており、ヒロインは花野(はなの)という名前で書かれている。また、皿数えの皿は、小田垣氏が主君山名氏から拝領した5枚そろいの鮑貝(あわびがい)の盃で、これを花野に想いを寄せる若侍の笠寺新右衛門(かさでらしんえもん)が隠し、花野を拷問して殺害したとされる。そして、花野の怨念が夜な夜な現れては仕返しをくわだて、また花野がつるされた松を「首くくりの松」と呼んだ、と記されている。

山名氏が青山に拠点を構えていたことは、同時代の史料では確認できない。しかし、現地に比較的濃密な伝承が残されており、個々の具体的な場所は別として、大まかに青山付近に拠点の一つがあったという程度であれば、事実とみてよいのではないか。

また、『竹叟夜話』に山名氏の重臣として登場する「小田垣」なる人物も、実際の山名氏の重臣で播磨守護代の一人となった太田垣主殿助(おおたがきとのものすけ)をモデルとしたものであろう。そして、その後の『播州皿屋敷』で一般的となる悪役の「青山鉄山」とは、この「小田垣」が青山にいたとされてきたことから創造された人物と見ることができよう。

しかし、『竹叟夜話』では、皿は5枚であり、ヒロインの名前も「お菊」ではない。井戸も登場しない。よく知られた皿屋敷の話になるまでには、いま少し要素が不足している。『竹叟夜話』の筋立てに、いつ「お菊」というヒロインの名と10枚の皿が重なったのだろうか。その過程は現在のところはっきりしない。

用語解説