『番町皿屋敷』(ばんちょうさらやしき)

一般的なものは、江戸番町に住む旗本(はたもと)の青山主膳(あおやましゅぜん)の下女お菊が、皿を紛失したことを責められて井戸に投げ込まれて殺され、そのたたりが青山を苦しめたとする話。江戸を舞台とした皿屋敷話としては、現在のところ正徳2(1712)年の『当世知恵鑑』に見える牛込(うしごめ)を舞台とした話が、残された書物の中では最も古いと見られている。なお、歌舞伎の演目としては、現在は1916(大正5)年の岡本綺堂(おかもときどう)による新歌舞伎作品がよく知られている。

 
浄瑠璃(じょうるり)

楽器の伴奏にのせて章句を語る音曲。語り手を「太夫(たゆう)」と呼ぶ。このうち義太夫節(ぎだゆうぶし)という流派の語りに、あやつり人形が加わるものを人形浄瑠璃(文楽、ぶんらく)と呼ぶ。本来は演劇的要素が希薄な語り物であったが、江戸時代中ごろから人形劇を伴うものが主流となっていった。

 
山名氏(やまなし)

南北朝の内乱の中で、山陰地方を中心に勢力を広げた一族。南北朝最末期には一族で11ヶ国の守護職を持ち、「六分の一殿」とも呼ばれたが、明徳の乱(1391年)によって勢力を削減された。乱後は、但馬(たじま)などの守護職を一族で分有したが、嘉吉の乱(1441年)によって、赤松氏旧領国の播磨(はりま)、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、美作(みまさか=現在の岡山県北部)の守護職を獲得した。

応仁・文明の乱(1467―77年)では宗全(そうぜん)が西軍の主将となった。戦国時代前半には、播磨の再占領を目指して赤松氏と数度戦ったが、その後、但馬、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)の一族間での争いや、重臣層の台頭によって次第に衰えていった。

但馬守護家は天正8(1580)年に羽柴秀吉(はしばひでよし)によって滅ぼされ、子孫は旗本となった。また、因幡守護家の子孫は但馬の村岡(むらおか=現在の香美町村岡区)に6,700石の領地を持つ上級の旗本(はたもと)として存続し、明治初年の高直しによって11,000石の大名となって廃藩置県を迎えた。

 
太田垣氏(おおたがきし)

但馬国南部の朝来郡(あさごぐん=現在の朝来市)を本拠とした中世後期の領主。但馬の多くの中世在地領主と同様に、古代の日下部氏(くさかべし)の子孫と称した。山名氏が但馬の守護となると重用され、但馬や備後(びんご=現在の広島県東部)の守護代に任命された。

嘉吉の乱後に山名氏が播磨守護職を獲得すると、播磨に置かれた三人の守護代の一人ともなった。戦国時代には一時期領内に発見された生野銀山(いくのぎんざん)の権益を掌握したとも伝えられるが、天正年間における羽柴秀吉(はしばひでよし)の播磨・但馬進出によって没落した。

 
『播磨鑑』(はりまかがみ)

宝暦12(1762)年ごろに成立した播磨の地理書。著者は、播磨国印南郡平津村(はりまのくにいなみぐんひらつむら=現在の加古川市米田町平津)の医者であった平野庸脩(ひらのつねなが、ひらのようしゅう)。享保4(1719)年ごろから執筆が始められ、一旦完成して姫路藩に提出した宝暦12年以降にも補訂作業が進められた。著者の40年以上にわたる長期の調査・執筆活動の成果である。活字化されたものは、播磨史籍刊行会校訂『地志 播磨鑑』(播磨史籍刊行会、1958年)がある。

 
池田輝政(いけだてるまさ)

1565―1613。織田信長(おだのぶなが)の家臣である池田恒興(いけだつねおき)の次男。父と兄の元助(もとすけ)が小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(1584年)で戦死したために家督を継ぐ。関ヶ原の戦い(1600年)の後、三河吉田(みかわよしだ=現在の愛知県豊橋市)15万石から加増されて、播磨姫路(はりまひめじ)52万石の領主となる。慶長6(1601)―14(1609)年にかけて、羽柴秀吉(はしばひでよし)が築いていた姫路城を大改修し、現在見られる城郭と城下町を建設した。

徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を妻としたために江戸幕府から重用され、長男の利隆(としたか)のほかに、督姫が生んだ子供たちなども順次それぞれに所領を得て、一時は一族で播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、淡路(あわじ)、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)に合計100万石近くを領有した。慶長18(1613)年死去。

 
『六臣譚筆』(ろくしんたんぴつ)

姫路藩士が編纂した藩主酒井家にまつわる逸話を集成した書物。編者は松下高保、石本勝包、新井有寿、大河内規章、山川能察、藤塚義章の6人。もとは『官暇雑記(かんかざっき)』という書名であったが、享和元(1801)年に藩主酒井忠道(さかいただみち)が、6人の家臣が編纂した書物というところから『六臣譚筆』と命名した。

 
十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)

現在の姫路市十二所前町にある神社。この場所は旧城下町の南西隅近くにあたる。現在の祭神は少彦名神(すくなひこなのかみ)。社伝では、延長6(928)年、一夜のうちに十二茎の蓬(よもぎ)が生え、その葉で病を治すようにとの神託に従って、南畝(のうねん)の森(現在の姫路駅西側付近)に創建されたという。その後、安元元(1175)年に現在地へ移ったとされている。

 
随願寺(ずいがんじ)

現在姫路市白国(ひめじししらくに)の増位山(ますいやま)にある天台宗(てんだいしゅう)の寺院。古代以来の寺院で、もとは山麓の平地部にあったが、元徳元(1329)年の洪水被害によって現在地に移転したとされている。書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)などとともに「播磨天台六ヶ寺」の一つで、平安時代後期以来、播磨全体の安穏のための法会が行われる寺院と位置づけられていた。

 
播磨天台六ヶ寺(はりまてんだいろっかじ)

円教寺(えんぎょうじ、姫路市書写)、随願寺(ずいがんじ、姫路市白国)、八葉寺(はちようじ、姫路市香寺町相坂)、神積寺(じんしゃくじ、福崎町東田原)、一乗寺(いちじょうじ、加西市坂本町)、普光寺(ふこうじ、加西市河内町)の6ヶ寺のこと。平安時代後期以来、播磨の国衙(こくが=国の役所)が主催する法会に参加するなど、播磨全体の安穏を祈る寺院として位置づけられていた。

 
小寺氏(こでらし)

播磨守護赤松氏の重臣の一つで、南北朝時代に播磨の守護代を務めた宇野頼季(うのよりすえ)の子孫とされる。応仁の乱後、赤松氏が播磨・備前(びぜん=現在の岡山県南東部)・美作(みまさか=現在の岡山県北東部)を回復すると、播磨の段銭奉行(たんせんぶぎょう)という租税徴収の役職につき、御着(ごちゃく=現在の姫路市御国野町御着)を拠点に勢力を広げた。

戦国前半には、赤松氏当主を支えて備前(びぜん=現在の岡山県東部)を拠点とする浦上(うらがみ)氏との抗争を繰り返した。戦国最末期の当主である政職(まさもと)は、天正3(1577)年に織田信長に服属したが、翌年三木の別所長治(べっしょながはる)が離反するとこれに同調して御着城に籠城した。しかし、三木城落城にともなって没落した。

戦国時代後半に重用された家臣に黒田氏があり、小寺の姓を名乗ることを許されている。この黒田氏から出て豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕えたのが黒田孝高(くろだよしたか)で、黒田氏は江戸時代には筑前国(ちくぜんのくに=現在の福岡県)福岡藩主となった。小寺氏の子孫も江戸時代には黒田家に仕えるようになった。

 
赤松氏(あかまつし)

播磨国佐用荘(はりまのくにさようのしょう)内を本拠とする領主で、則村(のりむら)は鎌倉幕府倒幕戦で活躍し、室町幕府から播磨守護に任命された。明徳の乱(1391年)後は、播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、美作(みまさか=現在の岡山県北東部)の守護職を持ち、幕府の侍所所司(さむらいどころしょし)に任命される家柄(いわゆる「四職(ししき)」)として中央政界でも活躍した。

しかし、嘉吉元(1441)年に、満祐(みつすけ)が将軍の義教(よしのり)を殺害する嘉吉の乱を起こし、幕府軍に討伐されて一旦滅亡する。その後、一族の遺児である政則(まさのり)が加賀半国の守護としての再興を許された。応仁の乱が始まると、東軍方について旧分国の播磨、備前、美作を回復したが、その後も但馬(たじま)の山名氏(やまなし)や、重臣の浦上氏(うらがみし)との対立抗争を繰り返し、天文年間には山陰の尼子氏(あまごし)の進出によって一旦淡路(あわじ)へ脱出したこともあった。

戦国後半には分国各地の有力者が自立傾向を強めたが、守護家としての権威をもとに、影響力の及ぶ範囲を狭めながらも存続していった。最後の当主である則房(のりふさ)は、織田政権に服属した後、豊臣政権によって阿波(あわ=現在の徳島県)へ移され、そのまま病没したとも、関ヶ原の合戦で西軍方についたため自害させられたともされ、最後は定かではないが、これ以後断絶した。

 
御着城跡(ごちゃくじょうし)

姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)にあった城。赤松氏(あかまつし)の重臣である小寺氏(こでらし)の居城。江戸時代中ごろの絵図では、四重の堀の中に山陽道や町家を取り込んだ、いわゆる「惣構(そうがまえ)」を持つ大城郭として描かれている。この絵図の描写がどこまで信頼できるかは慎重な検討が必要であるが、中心部付近の堀跡の一部は現在も地表面から推測でき、また近年の発掘調査で二の丸跡の建物群や堀跡などが検出されている。現在二の丸跡の一部は城址公園となっている。

 
利神城跡(りかんじょうし)

佐用町平福(さようちょうひらふく)にある城跡。播磨の西北部、美作市(みまさかし)を経て鳥取市(とっとりし)へ至る因幡街道(いなばかいどう)の沿道にある。伝承では中世においては赤松氏一族の別所氏(べっしょし)の城であったとされる。南方の口長谷(くちながたに)には、別所構跡(べっしょかまえあと)と伝える平地の領主居館の跡も残されている。

慶長6(1601)年に池田輝政(いけだてるまさ)が播磨に入ると、平福周辺で22,000石が甥の由之(よしゆき)に与えられ、現在遺構が見られる城郭の建設が始められた。山上に石垣造りの主郭を構え、山麓に城主屋敷、武家屋敷と街道沿いの町家などの城下町が形成された。元和元(1615)年からは輝政の6男である輝興(てるおき)が25,000石の平福藩を与えられ居城としたが、寛永8(1631)年に輝興が赤穂藩(あこうはん)を継承したことによって平福藩は廃藩、利神城も廃城となった。

 
『竹叟夜話』(ちくそうやわ)

『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻40に収録。主に姫路(ひめじ)や龍野(たつの)の周辺にあった逸話、霊験、奇聞などを集めた書物。奥書によれば、天正5(1577)年に永良竹叟(ながらちくそう)という人物が記したとされている。永良竹叟は、『播陽万宝知恵袋』に収録された他の数種の書物にも名前が見え、実在の人物と見てよい。赤松氏一族で、永良荘(ながらのしょう=現在の市川町北西部)を本拠とした永良氏の一族と見られる。

 
『播陽万宝智恵袋』(ばんようばんぽうちえぶくろ)

天川友親(あまかわともちか)が編纂した、播磨国の歴史・地理に関する書籍を集成した書物。宝暦10(1760)年に一旦完成したが、その後にも若干の収録書籍の追加が行われている。天川友親は現在の姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)の商家に生まれた。収録された書物は、戦国末・安土桃山時代から、友親の同時代にまでわたる125件に及ぶ。これらのほとんどは、現在原本が失われてしまっており、本書の価値は高い。活字化されたものは、八木哲浩校訂『播陽万宝知恵袋』上・下(臨川書店、1988年)がある。