たおやかな神様の山
第2神明道路から国道175号線を北上すると、ほどなく道の周囲に田園風景が広がってくる。ずいぶん開発が進んだとはいえ、まだあちこちに残る緑豊かな里山は、東播磨(ひがしはりま)の原風景だろう。やがて道は、その丘陵地帯へと登り、目の前に円錐形の美しい山容が見え始める。それが雌岡山(めっこさん)である。
老の口の交差点で国道とわかれ、東へ道をたどると、1kmばかり進んだところで、左手に神出神社入り口の鳥居が現れる。ここからが、雌岡山を登る道である。
雌岡山には登山道が多い。東西南北いろいろな方向から、5~6本の道が山頂へと続いており、どの道もよく整備されているが車で登れる道は一本だけ。山腹を巻くようにつけられた車道を登ると、間もなく山頂下の駐車場に到着する。入り口の鳥居から1㎞ちょっと。ふもとから歩いても20分ほどであろうか。
用語解説
雌岡山と古代の信仰
雌岡山山頂には、神出神社がある。南を向いて建つ社殿の前には、神社の縁起を記した石碑がたてられていて、祭神は、スサノオノミコト、クシナダヒメノミコトと、オオナムチノミコトと記されている。伝説では、この山に天降ったのはオオナムチノミコトということになっているが、石碑ではスサノオノミコトとクシナダヒメノミコトが天降って、オオナムチノミコトをうんだとされている。伝説の世界では、こうした食い違いも珍しいことではない。
この山に登る人は多い。雌岡山にも雄岡山(おっこさん)にも「毎日登山会」があって、登る人たちはみな顔見知り。お互いに「今日は遅いやないか」などとあいさつを交わしながら行き交う。神社前の広場には、いくつかのベンチが置かれて、人々はそこで、景色を眺めながらひとときを過ごしてゆくのである。
晴れた日、ここからの眺めは素晴らしい。裏六甲の山並みから淡路島、播磨灘(はりまなだ)と、180度の眺望が開けている。西神(せいしん)ニュータウンの近代的な町並みが、雑木林の緑で縁取られ、その手前には、明石川に沿って水田が広がる。そして相方の雄岡山はというと、現在は、木々の間から山頂付近が見えるのみである。
取材で訪れた日は細かな冷たい雨が降っていたので、残念ながら風景は楽しめなかったが、その代わりに、ふもとから立ち上る霧が次々と山頂を覆っては消え、時に社殿を隠すほどに立ちこめる、幻想的なようすを見ることができた。
用語解説
裸石さんと姫石さん
山頂から少し下った場所に、「裸石(らいせき)神社・姫石(ひめいし)神社」の標柱が立っていて、そのわきから階段が、杉木立の中を下る。日中でも薄暗い階段をたどると、間もなく右手に裸石神社がある。本殿の中に祭られているのは、巨大な男性のシンボルである。ひとつは折れた鳥居から作られたそうであり、小さなものを含めて3体を、薄暗い本殿の格子越しに見ることができる。その脇には、やはり石で作られた女性のシンボルも置かれている。
石のシンボルの周囲には、おびただしい数のアワビの貝殻が置かれている。ほとんど堆積していると言いたいほどの量である。この神社に参拝する折には、アワビの貝殻を奉納してゆくということで、その数は、信仰の長さとその間に訪れた参拝者の数を物語っているのだろう。かつては、この山にたくさんのカタクリが自生していて、村の娘たちは春になると、花摘みに行くと言っては裸石神社にお参りしたそうである。
裸石神社から少し離れて姫石神社がある。山腹に露頭した巨大な岩を、女性に見立てたのであろうが、こちらには覆屋もなく、ただ、こけむした岩が太古からの信仰を思わせる。縄文時代に見られる石棒にも、男性の象徴を模したものがあるが、自然の岩を男女に見立てた素朴な信仰は非常に古い起源を持っているから、ここの巨岩もまた、神社という形式ができるよりも古くから信仰されていたのかもしれない。
木立を抜けて車道に戻り、少し下った所には御旅所がある。その一角に、「にい塚」という標柱と、柵に囲まれた塚がある。塚の中心には、大きな石がいくつも崩れたように露出していて、これが横穴式石室をもつ古墳だとわかる。6世紀ごろに造られたものであろう。この地域の里長か、それとも雌岡山にゆかりの深い人物の墓であろうか。
用語解説
雄岡山
雌岡山の写真を撮り終え、車を走らせて雄岡山へ向かった。雌岡山山頂から雄岡山の麓まで、5分とはかからないが、そこからは雌岡山と違い車で登る道はない。西側の山すそに車を停め、雑木林の中にのびる細い道をたどって山頂へ向かうことになる。雌岡山ほど道は整備されておらず、赤土がむき出しになった滑りやすい道を、息を切らせながら10分ほど登ると、雑木林の向こうに青空が開ける。そこが雄岡山の頂上である。
雄岡山の山頂は、雌岡山に比べてずいぶん狭い。凝灰岩の板石で組んだ小さな稲荷社が立つ山頂からは南側に眺望が開けており、明石大橋まで眺めることができるが、雌岡山の方向はまったく見えない。
この山の南側山腹では水晶が採れるそうで、「子供のころ採りに行った」という話を聞いたことがあるが、今は東西の登山道しかないそうである。
国土地理院の地図を開いてみると、雌岡山は249m、雄岡山は241.2mとなっていて、雌岡山の方が7.8m高く山体も大きい。大きくて高い方の山を、「雌」にしたということは、昔の人たちにとっては、女神の方が立派で信頼に足るものだったからだろうか。男の僕としては少々悔しくもあるけれど、確かに古代には、女性は豊饒(ほうじょう)の象徴でもあったし、邪馬台国の卑弥呼の例を引くまでもなく、国を統べ、祭祀(さいし)をつかさどる存在だったし、現代社会でも全然別の意味で、男より女の方が生き生きしている人が多いようだから、ここのところは素直に白旗を掲げるしかない。
用語解説
印南野と土器作り
※写真は兵庫県立考古博物館提供
雌岡山・雄岡山の周囲は、今でこそ一面に水田が広がっているが、東播磨の広大な台地が水田となったのは、そう古いことではない。「印南野(いなみの)」と呼ばれるこの地域は、『枕草子』にも、
「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野……」
と記されているが、文字通り、開墾の手が届いていない「野」だったのだろう。ここでは何よりも水の確保が大変な作業で、特に江戸時代にはたくさんの溜池が造られたそうであるが、今ではそれに加えて東播用水が広い台地を潤している。
さて、清少納言が『枕草子』を著してから100年ほど後の平安時代末、神出の周辺が一大工業地帯となったことをご存じだろうか。この地で生産されたのは、須恵器(すえき)と呼ばれる土器、そして瓦である。中でも須恵器の鉢は、神出と、少し遅れて明石市(あかしし)の魚住付近に営まれた窯で、鎌倉時代にかけて大量に生産され、関東から九州に至る広い範囲に流通していた。「東播系中世須恵器」とも呼ばれる須恵器の鉢は、各地で料理に使われたことだろう。瓦の方は、平安京の寺院からの注文だったようで、京都の鳥羽離宮や、東寺、尊勝寺などの屋根を飾っていたことが、発掘調査で確かめられている。
※写真は兵庫県立考古博物館提供
丘陵のあちこちから、土器を焼く煙が立ち上る夕焼け。かつての雌岡山からは、そんな風景がながめられたことだろう。
用語解説
北条時頼と最明寺
雌岡山の南西には、法道仙人が開いたとされる寺院の一つ、雄岡山最明寺がある(雌岡山のふもとなのだが)。最明寺境内にある「北条時頼噛み割りの梅の木」は、鎌倉幕府の執権だった北条時頼が、出家して各地をまわった時、この地に立ち寄って、法道仙人の遺言と法華経を石箱に入れて地中に埋め、その上に自分が噛み割った梅の実の半分を植えたものだと伝えられている。また最明寺郷土館には、2000点を超える土鈴が展示されているそうである。ボタンやムクゲの花も有名なお寺なので、その季節に、ぜひもう一度訪ねてみたい。
蛇足かもしれないが、豊かな森を残す雄岡山・雌岡山には、今もキツネやタヌキがいるようだ。季節ごとに鳥の種類も多い。その美しさから「春の女神」と称えられるギフチョウは、ふもとにある神出学園の生徒たちや、神戸市の神出自然教育園など、多くの人の努力で生き残っている。豊かな里山が、開発によって消えゆく現代、雌岡山・雄岡山の自然が、人々の素朴な信仰とともに未来へ受け継がれることを願わずにはいられない。
古代の信仰、立ち上る土器作りの煙、そして近代的なニュータウンを眺めながら、山造りをした神様たちは何を思っているだろうか。