雌岡山・雄岡山(めっこさん・おっこさん)

 神戸市西区に所在する山。雌岡山は標高249m、雄岡山は標高241mを測る。古代から神奈備(かんなび:神が鎮座する山)として信仰されたようで、雌岡山頂上には、神出神社が祭られている。優美な山容から、一帯は『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でCランクにあげられている。

 
神出神社(かんでじんじゃ)

 神戸市西区神出町の雌岡山山頂に所在する神社。スサノオノミコトと妻のクシナダヒメ、およびオオナムチノミコトを祭神とする。後に、前2神の孫にあたるオオクニヌシノミコトから八百余の神々が生まれたことが、「神出」の由来とされる。雌岡山は牛頭天王を祭っているため、「天王山」(てんのはん)とも呼ばれる。山頂からは、六甲山・淡路島方面から小豆島までを望むことができる。

 
スサノオノミコト・クシナダヒメノミコト
(すさのおのみこと・くしなだひめのみこと)

 記紀の神話に登場する神。古事記では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と呼ぶ。イザナギノミコトの3子の末。イザナギから海を統治するよう命ぜられるがそれを拒否する。一時、姉のアマテラスオオミカミが治める高天原に滞在したが、後に出雲国に至り、怪蛇ヤマタノオロチを退治。クシナダヒメと結婚したとされる。出雲神話の祖となる大国主命(おおくにぬしのみこと:『日本書紀』ではオオナムチノミコトとする)は、スサノオの子とも六世あるいは七世孫ともされている。

 
オオナムチノミコト(おおなむちのみこと)

 記紀や風土記に見られる神。国造り、国土経営などの神とされるほか、農業神、商業神、医療神としても信仰される。大穴牟遅神・大己貴命・大穴持命・大汝命など、さまざまに表記される。『播磨国風土記』では、葦原色許乎神(あしはらのしこをのみこと)、伊和大神と同一神とみなされているようである。また記紀では、大国主(おおくにぬし)と同一神として扱われる。こうした神名の多重性は、本来、各地域で伝承された別個の神を、記紀編集などの過程で統一しようとしたため生じたものであろう。

 
裸石神社・姫石神社(らいせきじんじゃ・ひめいしじんじゃ)

 神戸市西区神出町の雌岡山中腹に所在する神社。縁結び、安産の神として信仰される。裸石神社は、彦石と呼ばれる男性の象徴を祭り、姫石神社は女性を象徴する三裂した巨岩を祭る。現在は裸石神社のみ社殿が設けられているが、本来社殿はなかった。彦石にまたがって体をゆすると願いがかなうという伝承があるといい、巨岩を性の象徴として、子孫繁栄や豊饒を祈る古い信仰の系譜をひくものと思われる。裸石神社には、アワビの貝殻を供えて祈願するという風習があり、彦石の周辺は貝殻で埋まっている。

 
カタクリ(かたくり)

 ユリ科カタクリ属に属する多年草。学名はErythronium japonicum。雑木林の林床に群生し、早春に地上部を展開させて薄紫色の花をつける。夏季には地上部は枯れる。鱗茎(りんけい:球根)から片栗粉がとれる。カタコユリは古名。『万葉集』では堅香子(かたかご)とも呼ばれる。

 
御旅所(おたびしょ)

 神社の祭りで、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所。仮宮。

 
にい塚(にいづか)

 雌岡山西側の中腹にある古墳。大型石材が露出していることから、横穴式石室が埋葬主体と思われる。調査がおこなわれていないため詳細は不明。

 
横穴式石室(よこあなしきせきしつ)

 古墳に設けられる埋葬施設のひとつ。竪穴式石室と対比される。石材を積んで構築された石室の一方に、外部と結ばれた通路を設けたもので、通常は棺を納める玄室(げんしつ)と、通路にあたる羨道(せんどう)から構成される。

 
邪馬台国・卑弥呼(やまたいこく・ひみこ)

 邪馬台国は、『魏志(ぎし)』の東夷伝倭人の条(一般には魏志倭人伝と呼ばれる)に記載された倭の国の一つで、卑弥呼はその女王。『魏志』によれば、小国が分立して争乱状態にあった倭は、卑弥呼を女王に立てることで安定したという。卑弥呼は数回にわたって魏に遣使し、「親魏倭王(しんぎわのおう)」の称号と金印を与えられた。卑弥呼は3世紀中ごろに没したとされるが、これは古墳時代の初頭にあたる。邪馬台国の所在地は古くから論争の的となっており、九州説と大和説が対立していたが、近年、初期の大型古墳が大和地域で発生したことが明らかになり、大和説をとる研究者が多くなっている。

 
印南野(いなみの)

 高砂市、加古川市から明石市にかけての平野および台地。加古川、明石川の流域にあたり、沖積平野は豊かな生産力を誇る。陸海ともに西国への要衝であり、記紀や『播磨国風土記』にも、この地域の経営に関する記録・伝承が多い。

 
枕草子・清少納言(まくらのそうし・せいしょうなごん)

 枕草子は、平安時代に清少納言により著された随筆集で、全3巻。一条天皇の中宮、定子に仕えていた筆者の随筆で、宮中の日常や行事、筆者の自然観、人生観などからなる。豊かな感受性と透徹した文体で、同時期の『源氏物語』と並び、平安時代女流文学の代表作とされる。筆者の清少納言は清原元輔の娘で、本名、生没年とも不詳。

 
須恵器(すえき)

 古墳時代中期に生産が開始された無釉の陶質土器。須恵器の技術は、5世紀代に朝鮮半島からの渡来人によってもたらされ、大阪府南部で生産が開始された。半地下式の登窯(のぼりがま)を用い、1100度前後の還元焔(かんげんえん)で焼成されるため、表面は青灰色を呈する。6世紀以降は、北海道を除く全国で生産されるようになり、平安時代末には陶器へと発展してゆく。

 
東播系中世須恵器(とうばんけいちゅうせいすえき)

 兵庫県の東播磨地方で、平安時代末~室町時代初期に生産された須恵器。三木市、神戸市西区、明石市などに窯跡が集中する。大型の甕(かめ)、片口鉢、碗などを生産していたが、特に生産の後半期には、片口鉢を多量に生産するようになった。東播系の須恵器は、全国各地の遺跡から出土し、東播磨地域が当時の一大窯業地帯であったことを示している。またこの地域の窯で焼かれた瓦は、主に平安京内の寺院で使用され、鳥羽離宮、東寺、尊勝寺(そんしょうじ)などから出土している。15世紀には生産を終えた。

 
鳥羽離宮(とばりきゅう)

 白河上皇(1053~1129)が、平安京の南に造営した離宮。

 
東寺(とうじ)

 正式名称は金光明四天王教王護国寺(こんこうみょうしてんのうきょうおうごこくじ)。平安京の左京に設けられた寺院で、823年に空海に与えられて、真言宗の根本道場となった。

 
尊勝寺(そんしょうじ)

 堀河天皇の発願により、平安京内に建てられた寺院(創建は1102年)。法勝寺(ほっしょうじ)、最勝寺(さいしょうじ)、円勝寺(えんしょうじ)、成勝寺(せいしょうじ)、延勝寺(えんしょうじ)とともに六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)と称される。

 
最明寺(さいみょうじ)

 神戸市西区神出町に所在する真言宗の寺院。雄岡山(おっこさん)と号する。7世紀に法道仙人が開いたという伝承をもつ。また、鎌倉幕府の5代執権北条時頼(ほうじょうときより:1227~63)が、出家して最明寺入道と名乗り各地をまわった際、この寺に立ち寄って、法道仙人の遺言と法華経を入れた石箱を地中に埋めた後、梅の実を噛み割って、半分をそこに植えたという伝承がある。現在も境内には、何代目かにあたる「時頼かみわりの梅」がある。

 
法道仙人(ほうどうせんにん)

 法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)を開いたとされる、伝説上の仙人。他にも数多くの、近畿地方の山岳寺院を開いたとされる。法道仙人についての最も古い記録は、兵庫県加東市にある御嶽山(みたけさん)清水寺に伝わる1181年のものである。

 伝説によれば、法道仙人は天竺(てんじく=インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)に住む五百侍明仙の一人で、孝徳天皇のころ、紫雲に乗って日本に渡り、法華山一乗寺を開いたという。千手大悲銅像(千手観音)と仏舎利(ぶっしゃり)、宝鉢を持って常に法華経を誦(よう)し、また、その鉢を里へ飛ばしては供物を受けたので、空鉢仙人とも呼ばれたとされる。室町時代初期に著された『峰相記(みねあいき)』には、播磨において法道仙人が開いた寺として、20か寺があげられている。

 
北条時頼(ほうじょうときより)

 鎌倉幕府の第5代執権(1227~63)。幕府に引付衆(ひきつけしゅう)を置いて、裁判の迅速化と公正化をはかるなど幕府政治の改革をおこなったほか、有力豪族であった三浦氏を滅ぼして北条氏独裁体制を確立した。民政にも尽力したとされ、このため、諸国巡回の伝説がある。

 
ギフチョウ(ぎふちょう)

 アゲハチョウ科に属するチョウ。年に一度、4月に現れ、その美しさから「春の女神」と称えられる。播磨地域では、幼虫はミヤコアオイ・ヒメカンアオイなどを食べて育つ。食草の関係から、播磨地域では、里山の雑木林が主な生息地となっていたが、開発による生息地の破壊と、雑木林の放置による荒廃で減少しつつある。環境省絶滅危惧(きぐ)II類、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』Bランク。