全国に伝わる椀貸し伝説
「椀貸し」の話は、子供のころ、何かの本で読んだ記憶があった。昔話の一つとして、頭の隅っこに残っていたのである。だから、『ひょうご伝説紀行』であれこれと調べるうちに、兵庫県に「椀貸し」伝説があること、それどころか全国各地に同じような伝説があることを知って、懐かしく思うと同時にとても新鮮な驚きを感じた。
「ある所でお願いすれば、お椀を貸してもらうことができた。使った後はきれいに洗って返す。ところがある時、悪い人が借りたお椀の一つを返さなかったため、2度と貸してくれなくなった」というのが、このお話の筋書きである。兵庫県に残る椀貸し伝説も、細かい部分はともかく、すべて同じパターンを踏襲している。
伝説のページの「高座石の椀貸し」は、その中でも、お話として比較的よくまとまっていたので取り上げることにした。このお話は、丹波市の氷上町に伝わっている。伝承地は、旧氷上町西部にある山中である。
丹波の高座石
氷上町の中心部から、加古川支流の葛野川(かどのがわ)を西へたどる。町並みを抜け、たおやかな里山を眺めながら道をゆくと、中野の集落あたりで北側に広い谷が見え、この奥に清住の村がある。
この静かな山あいの村にある達身寺は、丹波(たんば)を代表する名刹(めいさつ)の一つである。僕たちが訪ねた時には、寺の前に広がる水田一面にコスモスが咲き、多くの観光客でにぎわっていた。華やかなコスモスとは対照的に、落ち着いたたたずまいの山門をくぐって境内に入ると、手入れが行き届いた庭にも秋の色は濃く、わらぶきの本堂がとてもゆかしく感じられる。
達身寺は、丹波の正倉院とも呼ばれている。奈良時代(8世紀)に行基(ぎょうき)が開いたとされ、丹波でもっとも古いお寺の一つであるともいわれている。かつては背後の山々に伽藍(がらん)が広がっていたのだが、明智光秀の丹波攻めで焼け落ちたという。
本堂に上がらせていただき、奥へ進むと、古くから伝えられた多くの仏像たち――いくつかは、苦難の時代をその身に刻みつけたかのように傷んでいる――が安置されている。さらに宝物殿へと進むと、国指定重要文化財の仏像12体と県指定の仏像11体を拝観することができる。荘厳な、あるいは峻厳な仏像群は、かつて山上にあったという堂坊に祭られていたものであろうか。昔日の達身寺の繁栄をしのばせてくれる。
達身寺の西方、民家の間から、細い道を谷奥へとたどると、葛野川から分かれた清住谷川(きよずみたにがわ)に沿って、林道の登り坂へ導かれる。スギやヒノキが植林された山腹をしばらく登ると、やがて右前方の杉林の中に、巨大な岩が見えてくる。「高座石」という立札もあるから、見落とすことはないだろう。
巨大な岩である。ツタが絡みつき、岩の上にはシダやササが育っている。どれほど前から、この場所にあったのだろうか。ずいぶん昔に、近くの山腹から崩れ落ちてきたのであろう。到底登ることはできないけれど、岩の上はわりあいに面積もあって平らな感じなので、伝説のとおりそこにお供え物を置くことはできそうだ。もちろん今は、岩の周囲に、「お供え物」の痕跡など見つけることはできないが。
単なる岩なのだが、そう思って見るせいか存在感がある。伝説を語った人たちは、清住谷川と村とを見下ろすこの岩の前で、何かのお祭りをしたのだろうか。
用語解説
椀貸し狐と椀貸し淵
但馬南部の朝来市(あさごし)の旧生野町には、「椀貸し狐」の話が伝わっている。場所は、新井集落の南のはずれにある崎山稲荷神社である。伝説では、ここのお稲荷さんがお椀を貸してくれたそうだ。神社は、西から延びてきた山塊が、円山川に向かって大きく張り出した先端にある。草木が茂って、はっきりとは見えないが本殿の背後には大きな岩盤があるようだ。眼前の円山川は、滔々(とうとう)とした下流の流れとは異なり、透明な水がさわやかな音をたてている。
ここから南へ峠を越えると、播磨国、神崎郡神河町(かんざきぐんかみかわちょう)であるが、この町の南東にある越知谷にも、椀貸し伝説が残っている。県道8号加美山崎線を東へ、越知川に沿って上流へさかのぼると、越知谷小学校の500mほど手前で渡る橋のあたりが「椀貸し淵」である。深い碧色の水をたたえた清流に、大小の岩が顔を出している。その前にある小さなお稲荷さんが、お椀を貸してくれるというのだ。
このあたりは越知ヶ峰(おちがみね)の名水で知られているそうで、椀貸し淵の傍には切り立った岩壁と、有料の給水施設がある。
用語解説
白滝さんと鬼面様
さらに西へ目を転ずると、揖保川(いぼがわ)上流には2か所の椀貸し伝説が残っている。宍粟市(しそうし)一宮町の「白滝さん」と、同山崎町の「鬼面様」である。
白滝さんは、宍粟市の北端に近い一宮町倉床(くらとこ)にある。一宮町の安積(あづみ)から県道6号八鹿山崎線をたどり、上岸田から揖保川支流の倉床川に沿って上流へとさかのぼる。その途中にかかる「浜廻橋」を渡った所で車を停め、そこから、川の左岸に沿って続く細い道を行くと、ほどなく小さいけれど新しいお堂が見える。その横に流れ落ちるのが「白滝さん」と呼ばれる小さな滝である。伝説では、ここのお不動様にお願いすると、とても立派なお皿(ここではお椀ではない)を貸してもらえたという。
白滝さんの場所を教えていただいた地元の田中豊彦氏によれば、今、杉林になっているお不動様の裏山は、昔はすべて雑木林だったという。「スギを植林してから、水が汚れてしまった」と嘆息しておられた。普段は大した水量もない流れだが、以前、大雨で出水した時には、滝の前に祭られていた石仏のうち二つが流されてしまったという。「一つは掘り出せたが、あとの一つはまだこのあたりに埋まっとるやろ」とのことであった。さらに田中氏は、「このあたりの岩は『白滝岩』といって石灰岩を含み、そのおかげでよい水がわく」とも語ってくれた。
倉床川は今もなお清流を保っている。そこへ流れ落ちる白滝とお不動様は、ずっと村と人々を守り続けてきたのだろう。
もう一方の「鬼面様」は、山崎町の中心部から西へ抜けた所にある。県道53号山崎南光線を西へとたどり、市場集落の中ほどから北へ農道を進むと、揖保川(いぼがわ)支流の菅野川を渡った山すそに、古びた鳥居が建っているのが見える。ここが鬼面様の入り口である。鳥居をくぐり、鹿除けの金網を通り抜けると、石ころの多い谷筋を登る坂道である。息を切らせながら登ってゆくと、やがて道は右手(西)に屈折して、今度は尾根へとさらに急斜度で登る。前方がようやく明るく見え始めた所に、またひとつ、今にも倒れそうな古い木の鳥居があって、そこが鬼面様の前である。集落から見上げてもほとんどわからない場所であるが、鬼面様の前からは集落がよく見える。
山腹に露頭した巨大な岩の下に、鬼面様の小さな祠(ほこら)がある。上方の岩があまりに巨大なので、押しつぶされてしまいそうな感覚を覚えるが、よく見てみると、岩にはいくつか深い亀裂が走っているので、本当に崩れてしまうかもしれない。よくこんな場所で、神様のお祭りをする気になったと思うけれど、巨岩や巨樹など、人智を超えた巨大な自然物を崇め、祭ることは、昔の人たちにとってはむしろごく当たり前のことだったに違いない。
用語解説
借膳岩
さらに西、佐用郡佐用町の宗行(むねゆき)にも、「借膳岩(しゃくぜんいわ)」がある。やはり巨大な岩なのだが、昭和51年に刊行された『播磨伝説風土記(はりまでんせつふどき)』(読売新聞姫路支局)によれば、この近くに「借膳谷」という地名も残っているという。
旧佐用町中心部から少し北、国道373号線から100mほど西に入った水田の間に、借膳岩はある。岩の西側には標高300mほどの山が迫り、そのふもとを智頭急行(ちずきゅうこう)が走っている。岩から東には眺望が開けている。少し離れて佐用川が流れ、北寄りには国史跡の利神城(りかんじょう)跡も見える。借膳岩の周辺は、ほ場整備がおこなわれるのに合わせて整備されたようで、昭和51年当時の写真と比べてみると、現在の方が岩がずいぶん巨大に見える。そしてかつての写真にはなかった小さな祠が、岩の上に祭られている。
用語解説
椀貸し伝説と木地師
水と岩の精霊
今回の伝説紀行で、兵庫県の椀貸し伝説に、いくつか大きな共通点があることがわかった。どの場所にも巨大な岩か、岩盤がある。そして「鬼面様」を除くと、どの場所も清冽な川の流れに臨んでいるのだ。あえて言うならば、鬼面様もすぐ脇の谷筋には細い流れがある。
澄んだ水と、巨岩や岩壁。この二つに宿る神様や精霊を、人々は、太古の昔からごく自然に崇め祭ってきたことだろう。椀貸しの伝説は、そうした人々の素直な思いと重なって、長く生き続けてきたのだと思えてならない。