加古川(かこがわ)

 兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1,730平方キロメートルを測る県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

 加古川の水運は、古代から物流を担う経路であったと考えられ、特に日本海に注ぐ由良川水系へは峠を越えずに到達できることから、「加古川-由良川の道」とも呼ばれて、日本海側と瀬戸内側を結ぶ重要なルートとされている。

 
里山(さとやま)

 人里に接する位置にある山で、森林を中心とした生態系を、人が継続的に管理・利用している場所。兵庫県下では、薪炭林(しんたんりん)として利用される、クヌギ・コナラなどの雑木類を中心とした雑木林であることが多い。多様な動植物が生育するため、生態系としての価値は高いが、近年は利用度が低下して放置され、荒廃する例が増加している。

 
達身寺(たっしんじ)

 丹波市氷上町清住(きよずみ)に所在する曹洞宗の寺院。十九山(じゅうくさん)と号する。開基は行基(ぎょうき)、あるいは法道仙人(ほうどうせんにん)とも伝え、元は天台または真言系の宗派であったと推測されている。平安時代から鎌倉時代には、丹波一円に勢力を張ったとされているが、天正年間(1573~92)に兵火にあい、タルミ堂を残して全山を焼失した。その後は荒廃したが、江戸時代の元禄年間(1688~1704)に当地に疫病が流行した際、占いによって、村人が渓谷に流出していた仏像を集めて、現在の位置に本堂が建立された。平安時代の弘仁・貞観期(9世紀)から鎌倉時代初期にかけての優れた仏像が多数残されており、「丹波の正倉院」と呼ばれる。また、鎌倉時代の仏師快慶(かいけい)も、達身寺と深いかかわりがあったとする説がある。

 
正倉院(しょうそういん)

 古代には、寺院や官の主倉庫を正倉と呼び、正倉院とはその一角を指す言葉であったが、現存するのは奈良県の東大寺に付属する正倉院のみであるため、正倉院といえばこれを指す。現在、東大寺正倉院は宮内庁が管轄しているが、その中でも特に歴史的に重要なのは、校倉造(あぜくらづくり)の宝庫で、奈良時代以来の遺品がおさめられている。

 
行基(ぎょうき)

 奈良時代の僧(668~749)。河内国(かわちのくに)出身。父は百済系の渡来人であった。はじめ官大寺で修行したが、後に民間布教をおこなったため律令政府の弾圧を受ける。ため池や水路などのかんがい施設を整備しながら説教をおこない、広く民衆の支持を集めた。東大寺の大仏造営にも協力し、745年には大僧正となった。墓は奈良県生駒市の竹林寺にあり、1235年に金銅製の骨蔵器が発掘されたが、現在はその断片が残されるのみである。

 
伽藍・伽藍配置(がらん・がらんはいち)

 伽藍とは寺院の建物のこと。伽藍配置とは、寺院における堂塔の配置で、時代や宗派により、一定の様式がある。

 
円山川(まるやまがわ)

 兵庫県北部を流れて日本海に注ぐ但馬最大の河川。朝来市円山から豊岡市津居山(ついやま)に及ぶ延長は67.3km、流域面積は1,327平方キロメートル。流域には平野が発達し、農業生産の基盤となっている。河川傾斜が緩やかで水量も多いため、水上交通に利用され、鉄道が普及するまでは重要な交通路となっていた。

 
揖保川(いぼがわ)

 兵庫県の西播磨地域を流れる河川。兵庫県最高峰である氷ノ山(ひょうのせん:1,510m)の南麓に発し、宍粟市(しそうし)、たつの市を経て瀬戸内海に注ぐ。全長は69.7km、流域面積は770平方キロメートル。流域の開発は古く、『播磨国風土記』にも多くの記述が見られる。

 
利神城(りかんじょう)

 佐用町平福(ひらふく)にある山城。14世紀中頃に、赤松氏の一族である別所氏が築城した。嘉吉の乱(かきつのらん:1441年)の後、一時山名氏が入ったが、赤松氏の再興とともに、再び別所氏が入った。1577年に、山中鹿之助に攻められて落城し、宇喜多氏の支配下となったが、関ヶ原の戦い後、播磨国を与えられた池田輝政が、甥の池田由之に佐用郡を支配させた。標高373mの山頂に、本丸、鵜の丸、二の丸、三の丸、大坂丸などの郭群を設けて威容を誇ったが、一国一城令により取り壊された。石垣、馬場、井戸などが残り、近世初頭の山城の姿をよくとどめる。

 
柳田国男(やなぎたくにお)

 民俗学者(1875~1962)。兵庫県神崎郡福崎町(当時は田原村)に生まれる。東京大学卒業後農商務省に入り、後には貴族院書記官長となったが1919年に退官。朝日新聞社に入る。同社の論説委員などを経て1932年に退社。以後は民俗学の研究に没頭する。1935年に民間伝承の会(後の日本民俗学会)、1947年に民俗学研究所を創設し、日本民俗学の発展に努めた。100余の編著を残している。福崎町辻川に記念館があり、生家が保存されている。

 
木地師(きじし)

 木地屋ともいう。ろくろを用いて、椀、盆など、日用の器物を作る工人あるいはその集団。原料を求めるため、山中で漂泊生活を送っていたとされる。このため定住民からは軽べつされがちであったというが、庶民工芸史上、木地師が果たした役割は大きい。