古代の道が交わる地
南但馬の王墓
最初の訪問地は、旧山東町である。国道312号線の加都(かつ)北交差点を東へ折れて、県道136号線を走ると、1kmちょっとで道は豊岡自動車道の下を通るが、くぐり抜けたちょうどその場所にあるのが、茶すり山古墳である。
2002年に発掘調査がおこなわれたこの古墳は、直径が90mもある円墳で、円墳としては近畿最大、全国でも第4位という大古墳である。墳丘の一部は壊されていたが、幸いにも埋葬部は無傷で、見つかった二つの木棺からは、大量の副葬品が出土し、5世紀に築かれたものであることがわかった。
朝来市和田山町にある、城ノ山(じょうのやま)古墳、但馬最大の前方後円墳である池田古墳などに後続する、但馬の王墓であることは疑いない。古墳は現在、整備工事がおこなわれており、見学できるようになる日も遠くないだろう。
用語解説
ハチと薬師様
茶すり山古墳のふもとを過ぎると、間もなく低いながら峠道にさしかかる。ここが宝珠峠(ほうじゅとうげ)である。「宝珠」というとお寺に関係しそうな名前だが、調べてもその由来はわからなかった。ただこの付近では、高速道路の建設にともなって多くの遺跡が発掘されているから、宝珠峠を越える道が長い歴史をもっていることは間違いないだろう。
峠を越えて緩やかな坂道を下ると、左手(北)に楽音寺の集落が広がっている。
楽音寺は、平安時代初期に創建されたとされており、楽音寺へと続く道の両側には、ハチの像がたくさん飾られている。いったいなぜかといぶかしく思う人もいるかもしれないが、楽音寺の境内は、「ウツギノヒメハナバチ」という小さなハチが、大集団で営巣することで有名で、県の天然記念物に指定されているのである。
ご住職の藤本さんによれば、最近では巣の数がずいぶん減ったので、土を入れ替えて巣作りがしやすいように努力されているそうである。
ハチの巣を踏まないように、境内の端を通って薬師堂を拝見した。伝説のお薬師様は、秘仏で、25年に1度だけ開帳されるとのことである。その代わりにとお薬師様の写真を見せていただいたが、小さな像は半身以上が焼けただれて表面が粟立ったようになった部分もあり、思っていたよりずっとひどい様子であった。
※写真は楽音寺提供
盗人がこのお薬師様を放り込んだのが、楽音寺のそばにある弁天池だった。現在の楽音寺にも、南に接して弁天様がお祭りされた池があるのだが、藤本住職によると、本来の弁天池は、楽音寺の南側にある尾根を越えたところにあった池ではないかという。その池は、今はもう埋め立てられてなくなってしまったということであった。
今の弁天池からも、かつてもう一つの池があった場所からも、伝説にあったように遠阪峠(とおざかとうげ)を遠望できる。
用語解説
青倉山を登る
楽音寺からもう一度国道312号線に戻り、4kmほど南下すると、道の左手(東)に、大きな石の鳥居が見える。これが青倉神社の鳥居で、道から見ると、鳥居の向こう側に青倉山の雄大な山体が見える。
この鳥居から、東の奥にある川上の集落を経るのが、青倉神社の正規の参道だと思うが、撮影機材を抱えた取材では徒歩というわけにもゆかないので、もう一つ南の多々良木(たたらぎ)から車で登る道を選んだ。
国道から2kmほど東へ入ると、谷をせき止めた多々良木ダムが見えてくる。上流側にある旧生野町の黒川ダムから落下させた水で発電し、その水を多々良木ダムに蓄えて、再び黒川ダムへくみ上げるという、揚水式発電の下部ダムである。 1974年に完成したダムは、普段は青い水をたたえているが、渇水期には湖底に沈んだ集落の跡が現れる。石垣や庭の木立、畑の跡など、ダムに沈んだ集落は、遠い未来には現代の暮らしを伝える遺跡になるかもしれない。
ダム湖の横を通り、次第に斜度を増す道を登ってゆくと、やがて青倉神社の駐車場が見えるので、そこに車を停めて山腹に建てられた神社を目指す。新しく設けられた参道を100mほど歩き、長くはないけれど急な石段を登らねばならない。
用語解説
そびえ立つ巨岩と流れ落ちる滝
青倉神社の社殿はかなり風変わりである。普通なら、拝殿があってその奥に本殿があるのだが、ここは2階建てになっていて、お参りする人は靴を脱いで2階に上がり、畳の部屋に座って神様を拝むのである。
実はこの社殿の裏手には、高さが10mを超える巨大な岩があって、社殿はその岩のすぐ前にぴったりとくっつけるように建てられているのだ。社殿一階の奥には、岩の根元が見えている。
社殿の右手から裏へ回ると、ご神体の巨岩の後ろには、幅10mほど、高さは20m以上ありそうな岩壁がそびえ、そこに滝が流れ落ちている。これが伝説に語られた、目の病気に効く水なのである。
こけむした岩肌を流れ落ちる清冽(せいれつ)な水の音以外、何も聞こえない山奥である。ずっと昔、杣道(そまみち)を登りつめてきた人は、巨岩と水が織り成す光景に圧倒され、この場所こそ神が宿ると信じたことだろう。
伝説の地を訪ねると、しばしばこうした風景に出会い、そのたびに心が洗われるような気がする。
生野から播磨路へ
国道をさらに南へ走ると、旧生野町に入り、「椀貸し伝説」でも訪ねた新井の「椀貸し狐」、崎山稲荷(さきやまいなり)神社も遠くない。
さらに播但国境に至る手前には、2007年に開鉱1200年を迎えたという生野銀山があるから、ここまで訪ねてみてほしい。鉱山開発が始まったと伝えられる大同2年は、奇しくも、楽音寺の創建と同じ年である。この開鉱そのものは伝説的であるとしても、中世には山名氏がここに城を築いて銀山を掌握したとされている。その後は織田信長から羽柴秀吉を経て、徳川家の支配するところとなった。さらには明治時代へと、近世~近代日本で最も重要な鉱山の一つとして採鉱され続けた、兵庫県でも随一の鉱山と言えるだろう。また最近では、飾磨港と生野銀山を結んだ「銀の馬車道」も、近代化遺産の一つとして注目を集めている。
朝来市を縦断してきた「但馬道」は、ここから峠を越えて播磨国へと続いてゆく。