山陰道(さんいんどう)

 都から発し、丹波・丹後・但馬を経て山陰地方を結んだ、古代の主要街道の一つ。兵庫県下では、丹波篠山市、丹波市、遠阪峠を通って但馬に入り、朝来市、養父市、香美町、新温泉町を経由する。また養父市からは、豊岡市域に所在した但馬国府へ至る支線があった。

 
但馬道(たじまみち)

 播磨国と但馬国を結び中国山地を貫く南北の街道。姫路を起点にして粟賀、生野、竹田、和田山、八鹿、納屋、豊岡を経て城崎まで、延長約95kmを測る。温泉として有名であった湯嶋(城崎)へ向かう道として利用されたほか、近世以降は、生野銀山と姫路を結ぶ産業道路としての性格も帯びるようになった。瀬戸内側では市川、日本海側へは円山川と並行して整備されていたので舟運とも競合していたようである。納屋(豊岡市日高町)から北へ城崎までの4里(約16km)の間は道路事情が悪いため、舟に乗るのがよしとされていた。

 
茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)

 朝来市和田山町筒江に所在する古墳。5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳としては全国で第4位の規模である。北近畿豊岡自動車道の建設に伴って発掘調査がおこなわれ、頂上部に埋葬された2基の木棺から、畿内以外では初めてとなる「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」をはじめ、多数の鉄製品、銅鏡、玉類などの副葬品が出土した。5世紀前半の但馬地域の王墓と考えられている。なお古墳は、道路の設計を変更して保存され、2007年現在整備工事中である。

 
城ノ山古墳(じょうのやまこふん)

 朝来市和田山町東谷に所在する古墳。4世紀末に築造された円墳で、直径は36mを測る。長さ6.4mという長大な木棺を埋葬しており、人骨のほか、銅鏡6面、石製腕輪、玉類、鉄製品などが出土している。城ノ山古墳の築造は、南但馬における王墓の成立として重視されている。

 
池田古墳(いけだこふん)

 朝来市和田山町平野に所在する古墳。古墳時代中期前半に築造された但馬地域最大の前方後円墳で、全長136m、後円部の直径76mを測る。1重の周濠(しゅうごう)をめぐらせる。埋葬施設は、古くからの土取り作業によって完全に破壊されているため不明。墳丘からは埴輪類が、周濠からは木製品が出土している。

 
楽音寺(がくおんじ)

 朝来市山東町楽音寺に所在する真言宗の寺院。正覚山(しょうかくさん)と号する。本尊は薬師如来。寺伝によれば、807年の創建とされ、当時は七堂伽藍に12の僧坊を連ねた大寺院であったという。所蔵の経瓦は県指定文化財。また600平方メートルの境内は、ウツギノヒメハナバチの群生地として、県の天然記念物に指定されている。

 
ウツギノヒメハナバチ(うつぎのひめはなばち)

 ヒメハナバチ科に属するハチ。体長は10~13mm。学名はAndrena prostomias。年に一度、5月末~6月中旬に現われる。地中に巣を掘り、団子状の花粉を蓄えて幼虫の食餌(しょくじ)とする。

 
遠阪峠(とおざかとうげ)

 丹波市と朝来市との境界にある峠。標高363m。古代山陰道にも、遠阪峠を越える路線があった。急峻で、特に冬季には雪が多い難路であったが、現在はトンネルが開通している。

 
青倉神社(あおくらじんじゃ)

 朝来市川上に所在する神社。社殿は、青倉山中腹に露頭した巨岩の下に建てられている。祭神は稚産霊神(わくむすびのかみ:日本神話では穀物、養蚕の神)。創建年代は不詳。社殿背後の岩壁から流下する滝の水は、眼病に効果があるとして信仰の対象となっており、参拝者が多い。

 
青倉山(あおくらやま)

 朝来市中央部に所在する山。標高は811m。中腹に青倉神社があり、当地の滝の水は眼病に効果があるとして信仰の対象となっている。頂上からの展望が良く登山者も少なくない。

 
生野銀山(いくのぎんざん)

 生野鉱山(いくのこうざん)のこと。朝来市生野町に所在する鉱山。807年に発見されたと伝えられており、2007年で開鉱1,200年を迎えたという。室町時代末期から本格的な開発が始まり、織田信長、羽柴(のち豊臣)秀吉らの支配を経て、江戸幕府直轄の鉱山となった。明治29(1896)年からは三菱の経営となり、採掘が続けられたが、昭和48(1973)年に操業を終えた。現在、鉱山跡地は史跡に指定されており、生野鉱物館があって、旧坑道も見学可能である。

 
織田信長(おだのぶなが)

 戦国時代末期、尾張の大名(1534~82)。父織田信秀の死後、尾張を継承し、大国であった駿河の今川義元を桶狭間の戦いで敗死させた。その後三河の徳川氏と結んで美濃へ進出し、斎藤氏を滅ぼした。1568年には、足利義昭を奉じて京へ上ったが、1573年にはこれを追放して、室町幕府に終止符を打った。同年には浅井氏・朝倉氏の連合軍を破り、1575年には長篠の合戦で武田勝頼を破って、本州の中央部を押さえ、最大の勢力を誇った。

 1576年安土に築城開始。楽市楽座の実施により産業を振興したほか、城下でのキリスト教布教を認めるなど、西洋文化の導入にも意を注いだ。しかし中国地方への進出途上、家臣であった明智光秀に殺害された(本能寺の変)。

 
羽柴秀吉(はしばひでよし)

 安土桃山時代の武将(1536~98)。尾張国中村の人。はじめ木下藤吉郎と名乗る。年少の時期から織田信長に仕え、戦功をたてて重用され、羽柴氏を称した。信長の命による中国地方経略の途上で、明智光秀による信長殺害(本能寺の変)が起こった。秀吉は毛利氏と和睦し、山陽道を経て淀川右岸を北上、山崎の合戦で光秀を破った。

 その後、各地の大名を服属させた秀吉は、1585年に関白、翌年には豊臣姓を下賜され、また太政大臣に任ぜられて天下統一を達成した。晩年には、朝鮮および明への侵攻を図り、2度にわたって派兵したが失敗に終わった(文禄・慶長の役)。太閤検地による税制の確立、兵農分離政策、都市や主要鉱山の直轄支配など、幕藩体制への基礎をつくった。

 
銀の馬車道(ぎんのばしゃみち)

 旧生野鉱山寮馬車道の愛称。明治9年に朝来市生野町と姫路の飾磨港との間、市川沿いの約49kmを結んだ馬車専用の道路である。産出した銀を港に運ぶ一方、港から鉱山には精錬に必要な機械や石炭が運ばれた。欧米の最新工法を取り入れた馬車道は、幅約6m、日本初の高速産業道路とも言われる。