赤穂浪士の里の伝説
播州赤穂(ばんしゅうあこう)と言えば、思い出すのは「赤穂浪士(あこうろうし)」である。この史話そのものも伝説に近いものがあるが、そこからさまざまな伝説が派生してもいる。江戸時代に実際にあった事件も、テレビドラマや映画などで、ずいぶんいろいろなイメージが刷り込まれて、史実の輪郭はしだいにわかりにくくなっている。史実は、後世の人たちの思いが投影されて、伝説との間をゆれ動いてゆくのだろう。
それとは別に、赤穂の地には古くから残る伝説も少なくない。そのお話の一つを入り口にして、穏やかな瀬戸内の海、清流千種川(ちくさがわ)の河口に開けた平地と、背後にひかえる緑の濃い山々に抱かれた赤穂を歩いてみた。
伝説で取り上げた大津村は、赤穂市中心部から北東に4kmほど離れた場所にある。大津川という小さな川が、地区の中央を流れて赤穂港に注いでおり、海岸までも大体同じくらいの距離だろうか。大津でいちばん大きな神社は大津八幡神社であるから、これが伝説で語られた「氏神様」だろうと考えて訪ねてみた。
用語解説
地名に残る海岸線
大津八幡神社は、和気清麻呂(わけのきよまろ)にゆかりが深いと伝えられている。和気清麻呂が、称徳天皇の勅命を受けて宇佐八幡宮に向かう途中、大津の港に立ち寄ったということで、その船をつないだ松があり、また清麻呂が帰路にも立ち寄って、宇佐八幡宮より勧請したのが現在の大津八幡宮であると伝えられている(『播州赤穂郡志(ばんしゅうあこうぐんし)』)。
村の中の細い道を通って階段を登ると、広い境内の奥の一段高い場所に、堂々とした風格のある拝殿が建っている。訪れたときはちょうど秋祭りであったようで、赤と青の幟(のぼり)が立てられていた。境内からは海までを望むことができるけれど、伝説に言うとおり、「かつて大津が港だった」のであれば、ほんの目と鼻の先が海だったのだろう。
黒鉄山は、八幡神社の北西に望むことができる。高くはないが、重厚な印象を受ける山並みの手前に、三角形の一段高い山頂を見せている。
今は海岸から4kmも離れている大津が港町だったというのは、にわかには信じられないような気もする。しかし大津という地名は、「大きな港」そのものの意味である。大津八幡神社の南方には西から張り出す尾根があって、その先が大津川に接しているのだが、この付近には「船渡(ふなと)」という地名が残っている。さらに国土地理院の地図をよく見てみると、現在の大津川は、この船渡あたりから平野の中央を通らず、不自然な感じで山すそを巻くように流れて赤穂港に達している。船渡の東には、「古浜町」、「磯浜町」、「片浜町」などという地名が並んでいて、このあたりに古い海岸線があったことを想像させる。
こうしたことを考え合わせると、いつのころかはわからないにせよ、かつては船渡の近くまで入り込む湾があったと考えても、大きな間違いではなさそうである。それが大津川の氾濫(はんらん)などにともない、しだいに埋まって海岸平野となり現在に至ったのであろう。伝説の中で、黒鉄山から土砂が流れて港が埋まった、あるいは田畑が埋まったとされているのは、海が埋まってゆく過程で起きた、古い災害の記憶をとどめているからではないだろうか。
災害の記憶を後世に伝えたい、さらには人の心がおごることをいさめたい。昔の人のそんな思いがこの伝説を生んだと考えるのは、飛躍しすぎだろうか。
用語解説
赤穂城下を訪ねる
東西を千種川と大津川に挟まれ、北側を雄鷹台山(おたかだいやま)にさえぎられた三角形の平地に発達しているのが、赤穂市の中心部である。赤穂浪士で名高い赤穂城も、この三角形の平地の先端付近に築かれた城であった。
赤穂城の北にある花岳寺(かがくじ)は、元は浅野氏の菩提寺(ぼだいじ)として建立された寺院で、赤穂義士もここに祭られている。城跡から北へ、城下町の面影をとどめた細い通りを入ると、いちばん奥に、大きくはないが雰囲気のある山門が建っている。この山門は、赤穂城の塩屋総門を明治になってから移設したもので、市の文化財に指定されている。
玉砂利を敷いた明るい境内には、大きく枝を張った「大石良雄なごりの松」も残る。ただしこれは2代目で、大石自身が植えたという初代は、昭和初期に枯れてしまい、現在ではその切り株だけが保存されている。
この松の隣にあるのが「鳴らずの鐘」である。赤穂義士の切腹という悲報を聞いた人々が花岳寺に集まり、弔いのためにこの鐘を打ち続けたという。あまりにも打ちすぎて音色を出し過ぎたためであろうか、その後、この鐘は打っても鳴らなくなってしまい、「鳴らずの鐘」と呼ばれるようになったという。
こうした伝説によって、太平洋戦争中も「義士にゆかりの鐘」ということで、供出を免れたというから、伝説が文化財を守ったとも言えるだろうか。ただ語り継がれただけの事柄でも、時には不思議な働きをすることがあるのだ。
用語解説
坂越湾に浮かぶ島
赤穂市街から国道250号線を通って千種川を渡り、坂越橋東の交差点から東へ道をたどると、すぐにトンネルをくぐって坂越(さこし)の町に着く。ここも広い湾に面した、古い港町である。湾の奥に、ぽつんと浮かぶのが生島(いくしま)である。坂越の町中にある大避神社(おおさけじんじゃ)は、元はこの島に祭られていたとのことで、現在でも毎年秋におこなわれる、坂越の町と生島の間を、神輿(みこし)を船に積んで渡る祭り、「船渡御(ふなとぎょ)」がおこなわれている。
これほど陸に近い島でありながら、生島にはほとんど自然林と言っていいような森が残っている。古くから、この島の木を切ったり、落ち葉を拾ったりするとたたりがあるという伝説があったためのようである。
生島の照葉樹林は、スダジイやウバメガシをはじめとする自然林から構成され、植物分布上重要なものとして、天然記念物に指定されている。神域として何百年も守り続けられた森は、何世代も引き継がれてきた遺産そのものであろう。穏やかな海に浮かぶ森に夕日が射す光景をながめていると、今の時代は、いったい何を未来に残せるだろうかという思いがわいてくる。