丹波というと、山里の印象が強い。丹波の朝霧や美しい紅葉、ぼたん鍋など、山に関わるものがまず思い浮かぶ。土の香りがするような、ひなびた山里。今回の伝説紀行は、そんな場所を巡ることになった。
豊林寺と櫛岩窓神社
豊林寺(ぶりんじ)は篠山盆地(ささやまぼんち)の北東部、京都府との境界からそう遠くない、丹波篠山市(たんばささやまし)福井にある。豊林寺へ行くには、まず櫛岩窓神社(くしいわまどじんじゃ)を目標にするといいだろう。篠山の市街地を離れ、盆地の中央を流れる篠山川に沿って国道173号線を北上する。道の両側には水田が開けているが、その先には穏やかな里山が連なっている。やがて進行方向の右手、道のすぐ南側に、スギやヒノキの大木がつくる大きな森が見えてくる。これが櫛岩窓神社である。
鳥居をくぐり広い境内を進むと、やがて拝殿に至る。たいていの神社ならば、拝殿のすぐ裏に本殿があるのだが、塀をめぐらせたその上から中を拝見すると、広々とした空間の奥に本殿が見える。
本殿の背後には、ご神体として祭られている山がある。高さが20~30mほどの小さな山で、頂上付近には3個の巨岩があるそうだ。ご神体の山なので実際に登ることは遠慮したのだが、おそらく「神様が宿る岩」として、はるかな古代から信仰されていたものなのだろう。
櫛岩窓神社は、延喜式(えんぎしき)で名神大社(みょうじんたいしゃ)のひとつとされた由緒ある神社で、「天の岩戸」を開いた櫛岩窓命(くしいわまどのみこと)、豊岩窓命(とよいわまどのみこと)、大宮比売命(おおみやひめのみこと)の三神がお祭りされている。巨岩への信仰が、天の岩戸の神話と結びついてごく自然に祭神となっていった、そんな過程を想像してもいいように思える。三神の姿を刻んだ木像は、いずれも国の重要文化財に指定されていて、僕は写真でしか見たことがないのだが、どの神様もふくよかな顔立ちながら、少し厳しい表情をしておられる。
櫛岩窓神社を出て、正面にある山塊をながめると、不自然に平らに見える山頂が見える。そこが、豊林寺城が置かれた山頂で、豊林寺はこのふもとにある。
「玄渓山(げんけいざん)豊林寺」と刻まれた標柱の左横から、集落の中を通り抜ける道を行くと、谷筋のいちばん奥に豊林寺がある。こけむした石垣と高い木立がお寺を囲み、潤った空気に包まれた静かな場所である。現在、お寺のそばに池はない。境内から少し下った場所には小さな溜池があるので、これが伝説にあった池だろうか。そうだとすると、お薬師様のお堂は、現在の豊林寺よりもずっと下の方にあったのかもしれない。
ご住職にうかがったところでは、現在、豊林寺では薬師如来はお祭りしておらず、この話そのものもほとんど忘れられたものであったという。今回参考にした伝説の原著者である中野卓郎さんによれば、この話は『丹波志(たんばし)』の中にわずか2行だけ記録されていたものだそうであるから、忘れられた存在だったとしてもうなずける。
用語解説
街道の面影を残す大山宮
追手神社(おってじんじゃ)は、豊林寺とは正反対の方角、篠山盆地の北西に位置する丹波篠山市大山宮(おおやまみや)にある。現在は国道176号線が交通の動脈になっているが、かつてもここには街道が通り、丹波と摂津を結ぶ交通の要所であった。江戸時代に刊行された『但州湯島道中独案内(たんしゅうゆしまどうちゅうひとりあんない)』にも、この付近の地名が記されているという。
追手神社を訪ねる時には、是非、国道の西側に沿う旧道を歩いてみてほしい。山すそに沿って緩やかにカーブを繰り返す道をたどると、いかにも街道筋らしい家並みが続き、その間にはわらぶき屋根の家もぽつぽつと混じる。曲がり角に祭られた石仏が、いかにも所を得たもののように見えるのは、風景にとけ込んでいるからだろう。
追手神社は、その大山宮の村はずれにある。
広い境内でまず目に入るのは、天を突くような巨大なモミの木である。「千年モミ」とも呼ばれる巨木は、国の天然記念物に指定されている。境内には、これに劣らぬほどのイチョウの大木もあって、ともにご神木として大切に守られている。
境内の奥に、こぢんまりとした本殿が見える。閑静で質素な、いかにも田舎らしい神社と言ったら叱られるだろうか。夕暮れになり、灯りがともってぼんやりと照らし出された神社を見ていると、巨樹の中で眠っていた神様が、起き出してくるような錯覚にとらわれてしまう。
追手神社の前から、街道筋を700~800mほど北へたどった所に、追入神社(おいれじんじゃ)がある。追手と追入という名からは、二つの神社に何か関係があるように想像されるのだが、具体的なことはよくわからない。ちょうど出会った区長さんにうかがったところでは、追入神社は、かつては村の北東の山腹にあったものを、現在の位置に移動したということであった。
追入神社では、秋祭りに三番叟(さんばそう)が奉納される。拍子木の音に合わせて舞われる三番叟は、江戸時代に伝えられたものだといわれている。大きな宿場町であったという追入の村には、人々の盛んな往来によって、さまざまな文化も伝えられたのだろう。
用語解説
鐘ヶ坂から苅野神社へ
そのまま街道を進み、峠を越えて氷上へと下る坂道が鐘ヶ坂である。この峠越えはかなりの難所であったようで、明治になってからトンネル掘削が計画され、3年近い工事の末、明治16年に完成した。レンガ造りの明治の隧道(ずいどう)は今も保存されているが、通常は閉鎖されていて通ることはできない。最近、近代化遺産として注目されるようになり、時折開放されているようだから、興味がある人は行ってみるといいだろう。トンネルの入り口には、工事にあたって寄付を寄せた人たちの名が刻まれた碑が建っているが、その数の多さは、この地域の人々がトンネルに寄せる期待がどれほど大きかったかを示している。
1967年には、自動車交通の発達に促されて二代目のトンネルが開通する。さらに2005年には新しいトンネルが開通し、2代目トンネルを通る車もほとんどなくなった。一つの峠に、明治・昭和・平成と、3本ものトンネルが同居する例は珍しいのではないだろうか。
いちばん高所にある明治のトンネルを見学した帰り、峠道から氷上側を見ると、新旧3本の坂道が重なりあうように走るのが見えた。これに峠越えの道を加えると、ここには古代から現代に至る4本の道が通ったことになる。新しい道が造られるたびに、古い道は通る人がなくなり、忘れられてゆく。神様が鐘を置いた場所も、今ではだれも知らないのである。
鐘ヶ坂を下って小倉まで行くと、苅野神社(かりのじんじゃ)がある。鐘を盗んで、逃げていった神様が祭られている神社である。現在の国道に並行した、山すそを巻く細い旧道に面して鳥居が建っていて、その奥に急な階段が続いている。そこを登り切ると、尾根に挟まれた細い谷筋を塞ぐように建てられた社殿に至る。
苅野神社は式内社(しきないしゃ)であるが、本来はもっと鐘ヶ坂のふもとにあったそうで、江戸時代の寛文年間に現在の位置に移されたということである。その故地までは訪ねる時間がなかったが、次に機会があれば是非行ってみたいものである。
それにしても、神様は、なぜ鐘を盗もうと思ったのだろう。いったいどこから盗もうとしたのだろう。尾根が迫る急な坂道に置き去られた鐘の正体は・・・。