オノコロ島はどこに
日本神話の中で、オノコロ島は特別な島である。神様が日本の島々を作ったとき、最初にできた島だからである。そもそもオノコロ島というのは、数多い列島の中でどの島なのか。それともあくまでも空想上の島で、現実には存在しないのか。古くからいくつもの説が出されてきた。
兵庫県の淡路島には、自凝島神社(おのころじまじんじゃ)がある。それだけではなく、淡路島の南西に浮かぶ沼島にも自凝神社(おのころじんじゃ)があって、そのどちらにもオノコロ島の発祥地だとする考えがある。それだけではない。播磨灘(はりまなだ)を隔てた家島こそがオノコロ島だという説も、実は根強く存在する。
いずれが正しいかを判定するのは、到底僕の手に負えない仕事だけれど、「日本発祥の地」を探す旅はそれだけで十分魅惑的で、何だか解けない謎を追う探偵のような気分にさせてくれるのだ。
用語解説
淡路島か沼島か
淡路島は、島をあげて「淡路=オノコロ島説」を主張している。その舞台のひとつが自凝島神社だろう。南あわじ市榎列(えなみ)の自凝島神社は、国道28号線の円行寺(えんぎょうじ)から北西へ、三原川に沿って1.5kmほど行った所にある。
巨大な鳥居をくぐり、階段を登ると、思ったよりも質素な社殿が建っている。ここにお祭りされているのは、もちろんイザナギノミコト・イザナミノミコトである。神社の周辺には、「天浮橋(あめのうきはし)」や「芦原国(あしはらのくに)」など、国産みの物語にちなむ場所がお祭りされている。
現在は、周囲はかなり市街地化しているが、かつてはどうだったのだろう。
淡路島には伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)もある。淡路市一宮町多賀にあるこの神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)で、やはりイザナギノミコト・イザナミノミコトがお祭りされている。本殿の下には、イザナギノミコトが葬られた古墳があるとも伝えられていて、オノコロ島であると同時に、神様の永眠の地でもあるそうだ。深い森は、いかにもその地にふさわしく思える。
さて、「オノコロ神社」は、実はもう一つある。淡路本島の南西に浮かぶ、沼島(ぬしま)にある自凝神社である。 南あわじ市灘の土生(はぶ)にある港から、連絡船に15分ほどゆられると、沼島港に着く。そこから港に沿って南へ歩き、細い山道を、息を切らしながら10分ほど登った尾根の上に、自凝神社がある。沼島は空から見ると、ちょうど勾玉(まがたま)のような形をしているが、自凝神社はその一方の先端にあると思ってもらえばよい。
小さな神社である。特別な飾りも、目立つ鳥居もなく、ただ質素な社殿が雑木林に囲まれてひっそりと建っている。社殿の背後へ続く道を歩くと、淡路島の南部から四国までのすばらしい展望が開ける。
沼島の港から、家の間を抜ける細い道を行くと、やがて島の中ほどの丘を越えて、島の東側の海岸に出る。ちょうどその海岸にあるのが上立神岩(かみたてがみいわ)である。巨大な岩石が崩落してできた荒磯の先の海中に、天を裂くような三角形の先端を見せながら屹立(きつりつ)する巨岩である。高さが15mあるという岩は、イザナギとイザナミがオノコロ島に降り立ち、巨大な柱の周囲をまわって婚姻をおこなったという、「天の御柱」だともいわれている。
もちろん、長い自然の営みでできた巨岩の柱なのだろうが、そこに砕ける波頭を見ていると、あまりの雄大さに、神威を感じてしまうのも確かである。
用語解説
蛭子命が流れ着いた場所
淡路島の北端、岩屋港の傍には、岩楠神社(いわくすじんじゃ)がある。この神社にはイザナギノミコトとイザナミノミコト、そして二人の間に最初に生まれた、蛭子命(ひるこのみこと)が祭られている。蛭子命は、体がうまくできあがっていなかったために、葦舟にのせられて流されてしまったという神様である。港に向かって建つ鳥居をくぐると、まず戎神社(えびすじんじゃ)の社殿が目に入るが、岩楠神社は、実はその裏にある。
戎神社の背後には、高さ十数mの岩壁があり、そこに洞窟が二つ開いている。その一つに岩楠神社がお祭りされているのだ。地元では、ここがイザナギノミコトの墓所だと伝えられているそうだ。洞窟の入り口に設けられた格子の隙間からうかがうと、暗闇の中に石造りの小さな祠(ほこら)がぼんやりと見えて、まるでその先に黄泉の世界が続いているような感覚にとらわれてしまう。
これだけ、伝説にゆかりの場所がそろうと、淡路島=オノコロ島説が信憑性を帯びてくるように思うのだが、実は、兵庫県にはもう一つ、オノコロ島を主張する場所があるのだ。
用語解説
もうひとつの候補地
淡路島から播磨灘(はりまなだ)を隔てて、およそ30km西にある、家島がそれだ。家島という名のいわれは、神武天皇が日向から大和へと攻め上るとき、家島に船を泊め、「まるで家にいるように静かだ」と言ったことに始まるという。天皇はここで天津神(あまつかみ)を祭り、武運を祈ったそうである。後には、神功皇后が三韓(新羅・百済・高句麗)へ出発するとき、ここで天神を祭ったとも伝えられている。
神武天皇や神功皇后の話を、歴史的事実として取り扱うことはできないが、このような伝承が生まれるほど、この地が古くから崇敬の対象であったことは間違いないだろう。
播磨灘に浮かぶ家島は、確かにオノコロ島に相応しい島の一つだと思える。
オノコロ島は、淡路島、またはその一部か。それとも北淡路の海辺に浮かぶ絵島か、あるいは沼島か。「自凝島」が淡路島だとすると、神話の中で自凝島の後に「淡路島を産んだ」と書かれている点をどう考えるのか。やはり家島が自凝島なのか。
用語解説
『古事記』の歌の謎
古事記の中に、仁徳天皇が詠んだという歌がある。
『ここに天皇、その黒日賣(くろひめ)を恋ひたまひて、大后(おほきさき)を欺きて曰らさく、「淡道島を見むと欲(おも)ふ。」とのりたまひて、幸行(い)でましし時、淡道島(あはじしま)に坐(いま)して、遙(はろばろ)に望(みさ)けて歌ひたまひて曰く、 おし照るや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡嶋(あはしま) 淤能碁呂嶋(おのころしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放(さけ)つ島見ゆ とうたひたまひき』
天皇がクロヒメに浮気心を起こしたことはともかく、「淡路島に坐して」歌ったという点は注目に値する。「オノコロ島が見える」と歌われているからには、「オノコロ島」は、淡路島から見える島だったということになるからだ。
最後の「さけつ島」は、はるかに離れた島、あるいはぽつんと離れた島というほどの意味だろうが、おのころ島の前に登場する「淡島」は、現在の何島にあたるのだろう。また檳榔(あじまさ)はヤシ科の植物で、現在はビロウと呼ばれているそうであるが、これはかなり暖地性の植物で、現在の大阪湾周辺には生育場所がないようだ。
国産み神話では、蛭子神の次に生まれたのが淡島であり、これも満足な子ではなかったため、イザナギ、イザナミ両神の子として数えないとされているが、もしかすると歌にでてくるのは、この淡島なのだろうか。そうすると、仁徳天皇の歌に出てくる島のうち、淡島や檳榔島は、現実には存在しない=見えない島だったかもしれないとも思えてくる。だとすると、この歌で「見ゆ」と詠まれた「オノコロ島」も、本当は見えなかったのではないか、見えたのははるか彼方の「さけつ島」だけで、他の島々は、天皇の心の中だけで見えた島だったかもしれない。
オノコロ島は、はるかな祖先たちが自分たちの故郷を心に思い描いた、伝説の中だけに生きる島だったのだろうか、それとも・・・。