橋の地蔵さんを訪ねて

橋の地蔵さんは、小野市北西部の「青野ヶ原」に近い、加古川の左岸の高田町にある。雄岡山・雌岡山(おっこさん・めっこさん)からさらに国道175号線を北上して、小野市へ向かうと、三木市大村の交差点から道幅の広い新道になるが、ここからは旧国道に道をかえることになる。さらに神戸電鉄の小野駅前から、県道を北上すると高田町に到る。

県道が通っていた台地から加古川に向かって坂道を下ると、青々とした田が広がり、その中に高田の集落がある。道の先には加古川の堤防が見え、その対岸が南北にのびた広大な青野ヶ原台地である。

橋の地蔵さん
橋の地蔵さん
コンクリートの用水路
コンクリートの用水路

しばし橋の地蔵さんを探して車を走らせたが、いっこうに見つけられない。確かに田んぼのわきにあるはずなのだが、目にとまらないのである。探しあぐねたころ、作業をしている村の人に出会ったので「橋の地蔵さんはどこですか」と尋ねたところ、「橋の地蔵さんかいな。あこのな、家が見えとるやろ。あの筋のちょっと入ったとこや」と教えてくれた。教えられたとおりに道をたどると、広い車道からちょっと入った所に、「橋の地蔵」の物語を刻んだ、背の低い石碑が建てられていた。

石碑の左には、最近作られたらしい小さな地蔵が置かれ、右側には古い一石五輪塔(いっせきごりんとう)のかけらが置かれている。そして、ほ場整備でコンクリート造りになってしまった水路の上に、お地蔵さんの橋がかかっていた。

橋の地蔵さんは、板石に刻まれた小さなお地蔵さんである。橋になるときにうつぶせになったということで、今もうつぶせのまま、コンクリート水路にかかっている。もっとも今ではお地蔵さんを踏んで渡る必要はない。お地蔵さんの前には、少ししおれかけた花束が供えられ、その間に置かれたお茶碗にはおさい銭がいれられていた。隣の新しいお地蔵さんのひざにも、おさい銭が置かれている。今でもお参りする人が絶えないということがわかる。

新しいお地蔵様
新しいお地蔵様
橋の地蔵(石碑)
橋の地蔵(石碑)

お地蔵様の顔を拝見しようと水路に入ってみたが、狭すぎてお地蔵さんが見える所まで顔をつっこめない。仕方なく、カメラを持った腕をいっぱいに伸ばして、「このあたりか」というところでシャッターを切ってみた。

写ったのは、立ち姿のお地蔵さんと、そのわきに座る小さなお地蔵さんであった。が、まっすぐに写っていない。腕を伸ばしたり少し縮めたり、手首を曲げてみたりと、散々苦労して、やっと何枚か「こんなもんかな」という写真が撮れた。撮り終わって立ち上がると、水路の中でかがんで、不自然な姿勢をしていたせいか腰の筋肉が引きつっている。こんな時こそ橋の地蔵さんの御利益にすがらねばと、伝説の通りお地蔵さんの背中を両手でなでてみたのは言うまでもない。

用水路にかかるお地蔵様
用水路にかかるお地蔵様
用水路の底から
用水路の底から

青々と稲が育つ田の上を、ツバメが急旋回しながら飛び交っている。少し歩いてみたら、池の堤にカワラナデシコがピンクの花を咲かせていた。のどかな風景。コンクリートの水路はちょっと味気ないけれど、お地蔵さんを大切にしてきた村の人たちの気持ちは、伝説とともに、今も間違いなく受け継がれている。

橋の地蔵さんの周辺には、ほかにも伝説スポットがいくつかあるし、歴史を伝える文化財も多い。小野市では市内の地区ごとに、こうした場所をとりまとめてわかりやすく編集したパンフレットを作っているから、これを見ながら歩くのも楽しいだろう。

用語解説

あごなし地蔵さんと泣き石

街道の脇に立つ
街道の脇に立つ

橋の地蔵さんの北方、小野市と加東市(かとうし)との市境近くには、「あごなし地蔵さん」がある。橋の地蔵さんから西へ向かって加古川(かこがわ)を越え、県道349号市場滝野線を北へ3kmほど車を走らせる。復井町の交差点の一つ北で右折して、JRの線路を渡り、さらに村の中の細い道を左折して200mばかり進んだやぶの前である。元はどこにあったものかわからないそうであるが、「世の中に出て人々を助けたい」とおっしゃったことから、現在ある場所に移されたという。道路から一段下がったところに小さな祠(ほこら)があって、橋の地蔵さんと同じように花束や果物やおさい銭が供えられていた。

祠と石碑
祠と石碑
あごなし地蔵
(石碑)
あごなし地蔵
(石碑)
あごなし地蔵様
あごなし地蔵様

お地蔵様の顔を見ようと、地面に顔を近づけて祠をのぞいてみたが、小さなお地蔵様は赤い前掛けをいくつもされていて、本当にあごが無いのかどうかわからなかった。

泣き石からの展望
泣き石からの展望
泣き石(石碑)
泣き石(石碑)

あごなし地蔵さんの南約2.5km、河合西町の丘の上には「泣き石」がある。自然石の表面に梵字(ぼんじ)と絵が刻まれた碑なのだが、表面の風化が進んで刻線は今ひとつはっきりしない。昔、この石を別の場所に運んだところ、「元の場所に戻りたい」と泣いたので、あわてて返したという話が伝えられている。

泣き石
泣き石
刻まれた梵字
刻まれた梵字

お地蔵様といい泣き石といい、石には不思議な魂があって、人を助けたり脅かしたりするものだと、昔の人は心から信じていたのだろう。

金鑵城

さらに南へ車を走らせると、昭和町の夢の森公園に、金鑵城(かなつるべじょう)がある。青野ヶ原台地の先端に位置する、中世に築かれた山城であるが、同じ範囲の中で弥生時代の高地性集落跡も見つかっており、現在は史跡公園として整備されている。

金鑵城(看板)
金鑵城(看板)
金鑵城(看板)
金鑵城(看板)
城跡全景
城跡全景
尾根の先の櫓
尾根の先の櫓

土塁や柵(さく)、堀跡、郭の中の建物跡などがわかりやすく復元されている。また台地の先端には物見櫓(ものみやぐら)が復元されていて、中世地方城館のありかたがよくわかる城跡である。

金鑵城跡からの眺望

ここからの眺望はすばらしく、小野市南部から播磨(はりま)・丹波(たんば)国境の山塊まで見渡すことができる。

復元された櫓
復元された櫓

用語解説

国宝浄土寺とその前身

浄土堂
浄土堂
浄土堂
浄土堂
薬師堂
薬師堂
浄谷八幡神社拝殿
浄谷八幡神社拝殿

橋の地蔵さんから東へ5kmほどの浄谷町には、国宝「阿弥陀三尊立像」を本尊とする浄土寺がある。浄土寺は真言宗の寺院で、鎌倉時代初めごろに、重源(ちょうげん)により創建されたものである。もともとこの付近は、東大寺領の「大部荘(おおべのしょう)」という荘園であった。重源は、平安時代末に焼失した東大寺大仏殿を再興するために、西日本各地に7か所の別所を設けたとされるが、そのうちの一つが浄土寺だとのことである。 浄土寺の門を入ると、境内の中央には蓮の花が咲く池がある。池をはさんで東側のお堂が薬師堂、西側が浄土堂であるが、もちろんこの配置は西方浄土に坐す阿弥陀如来と、東方浄瑠璃世界(じょうるりせかい)の薬師如来の位置をあらわしているのだろう。

大仏様(だいぶつよう)建築の浄土堂は、浄土寺創建当時の建築で、本尊の快慶作の阿弥陀三尊像は特に著名である。阿弥陀様が祭られているお堂の西には幅広い格子窓があって、夏の夕暮れには赤い夕日が射し込むようになっている。夕日が射すと、朱に塗られた本堂の中は赤い光で満ちて、金色の阿弥陀様を包み込み、真の極楽浄土にいるかのような荘厳な雰囲気を醸し出すそうである。

広渡廃寺(全景)
広渡廃寺(全景)
復元模型
復元模型
復元画
復元画
展示室
展示室

この浄土寺の前身とされるのが広渡廃寺(こうどはいじ)である。国指定史跡の広渡廃寺は、浄土寺と橋の地蔵さんの中ほどにあって、現在は史跡公園として整備され、資料館も併設されている。

奈良の薬師寺に似た伽藍配置(がらんはいち)をもつ広渡廃寺は、7世紀に造営された後、平安時代まで続くが、平安時代の末には衰微して荒れ果てていた。その仏像の一部が、浄土寺に移されたということである。

公園では、各建物跡がわかりやすく整備されていて、礎石の配置や回廊の姿がよくわかる。また資料館には、ここからの出土品が多数展示されているから、ぜひ一度訪ねてみてほしい。

加古川の中流域は、古くから開けた場所である。いつのころからか村ごとに祭られたお地蔵様は、どれほど世の中が有為転変を経ても、いつも暮らしのそばにいて人々をなぐさめたり、力づけたりしてくれてきた。これからもきっとそうであるに違いない。

用語解説