小野市(おのし)

 兵庫県中央部に所在する市。加古川中流域に位置し、1954年に市制を施行する。2007年11月現在の人口は約50,500人。江戸時代に一柳氏(ひとつやなぎし)が、小野に陣屋を移し、その城下町が建設された(小野藩)。古くから、そろばんと家庭用刃物に代表される伝統工業に特徴があり、複合地場産業都市として発展を遂げてきた。

 
青野ヶ原(あおのがはら)

 播州平野の中央部に広がる台地。東は加古川に面する。小野市、加東市、加西市にまたがり、東西3km、南北10km、標高は80~90mを測る。

 台地上からは後期旧石器が出土するほか、古墳も分布しているが、酸性土壌である上、水利に恵まれなかったため開発が進まなかった。明治24(1891)年に陸軍演習地となり、太平洋戦争終結後はアメリカ軍に接収されたが、昭和32(1957)年からは自衛隊演習場となった。近年、台地周辺には播磨中央公園、工業団地などが造営され、変貌しつつある。

 
加古川(かこがわ)

 兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1,730平方キロメートルを測る県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

 加古川の水運は、古代から物流を担う経路であったと考えられ、特に日本海に注ぐ由良川水系へは峠を越えずに到達できることから、「加古川-由良川の道」とも呼ばれて、日本海側と瀬戸内側を結ぶ重要なルートとされている。

 
雄岡山・雌岡山(おっこさん・めっこさん)

 神戸市西区に所在する山。雄岡山は標高241m、雌岡山は標高249mを測る。古代から神奈備(かんなび:神が鎮座する山)として信仰されたようで、雌岡山頂上には、神出神社が祭られている。優美な山容から、一帯は『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』の自然景観でCランクにあげられている。

 
五輪塔(ごりんとう)

 墓、または故人を供養するために建てられた塔の一種。多くは石製。下から順に、基礎、塔身、笠、請花(うけばな)、宝珠の5段に積み、それぞれが、地、水、火、風、空をあらわす。密教に由来し、平安時代中ごろから造られるようになった。一石五輪塔は、これを一個の石材に刻んだもの。

 
金鑵城(かなつるべじょう)

 小野市昭和町に所在する中世の城跡。青野ヶ原台地の先端に位置する山城で、平成4年から6年にわたる調査で、全容が明らかにされた。城の構造としては、主郭と西の郭からなり、その間に幅約20m、深さ約9mの堀切が設けられている。主郭は土塁に囲まれ、その内側に4棟の建物跡が検出された。城主は、赤松氏の家臣中村氏とされ、後には別所氏が保有した。発掘調査では、壺(つぼ)、擂鉢(すりばち)、茶碗などの陶磁器、石臼、土錘などの漁労具、刀、小刀の鞘などの武具類、瓦、釘、硯、水滴、銅銭などが出土した。

 このほかに山城の範囲内で、弥生時代の竪穴式住居が6棟検出され、加古川を見下ろす高地性集落が存在したことが確認されている。

 
浄土寺(じょうどじ)

 小野市浄谷(きよたに)町に所在する真言宗の寺院。極楽山(ごくらくさん)と号する。東大寺の播磨別所として、重源(ちょうげん)が建久年間(1190~98)に開いた。

 この地域には、古くから東大寺の荘園(大部荘:おおべのしょう)が営まれていたが、重源は、東大寺大仏復興のために、長く荒廃していた同荘園を東大寺別所として経営することとなった。

 境内は、中央の池(放生池)を中心に、西に浄土堂、東に薬師堂を配する。

 西の浄土堂は、重源が1194年に建立したもので、当時の中国(宋)の建築様式を取り入れた大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる様式で建てられており、鎌倉時代以降の寺院建築に大きな影響を与えた。大仏様の建築は、ほかに東大寺南大門、同開山堂などが残されているのみで、本尊の阿弥陀三尊像とともに国宝に指定されている。

 浄土堂は夏の間、阿弥陀三尊の背後から夕日が射しこむように設計されており、夕暮れ時に朱色に染まる堂内は荘厳そのものである。

 ほかに1517年に再建された薬師堂、重源坐像、境内の浄谷八幡神社本殿・拝殿、絹本著色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくぶつねはんず)ほかの重要文化財、県指定文化財など多数を保有し、播磨を代表する古刹といえる。

 
真言宗(しんごんしゅう)

 仏教の一派。インドに起こり、平安時代前期に、空海によって日本へもたらされた。空海は、高野山に金剛峯寺を開いて、真言宗の道場としたほか、823年には京都に教王護国寺(きょうおうごこくじ:現在の東寺)を受け、これらの寺院が同宗の中心となった。

 
重源(ちょうげん)

 鎌倉時代初期の、浄土宗の僧。醍醐寺(だいごじ)で真言を学んだ後、法然について浄土宗を学んだ。3度にわたって宋へ入り学んだほか、土木建築の技術を習得した。戦乱で荒廃した東大寺再建のために、造東大寺大勧進職(ぞうとうだいじだいかんじんしき)に任ぜられ、諸国をまわって勧進(かんじん:寄付を募ること)に努めるとともに、民衆の教化・救済などの社会事業を推進した。

 
東大寺(とうだいじ)

 奈良市に所在する華厳宗(けごんしゅう)の寺院。聖武天皇の発願により745年に建立されたもので、本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。平安時代にかけて、23か国に92か所の荘園を領有して勢力を誇ったが、1180年に平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちにあって、堂塔の大部分を焼失した。その後、重源(ちょうげん)が中心となって復興されるも、1567年には三好氏一族と松永久秀の戦火により再び焼失。大仏殿は1692年に至ってようやく復興された。

 創建以来の建築として、三月堂、正倉院(いずれも国宝)が、鎌倉時代の建築として南大門、鐘楼(いずれも国宝)などが残るほか、奈良~平安時代の仏像、古文書など、日本史上重要な資料が多数残され、その多くが国宝、重要文化財に指定されている。

 
大部荘(おおべのしょう)

 播磨国に設けられた東大寺の荘園。現在の小野市付近にあたる。12世紀中ごろに成立したが、その後国衙(こくが:律令制下において国単位で設けられた政庁)との間で所属が争われたため、放置されて荒廃した。12世紀末になって、東大寺の復興に従事することになった重源の尽力により、東大寺領として確定した。

 
西方浄土(さいほうじょうど)

 仏教において、この世の西方、十万億の仏土を隔てたところに存在する、阿弥陀仏の浄土。極楽浄土。

 
 
阿弥陀如来(あみだにょらい)

 阿弥陀仏と同じ。大乗仏教の浄土教の中心をなす仏。修行者であったとき衆生(しゅじょう)救済の願を立て、成仏して後は西方の極楽浄土で教化しているとされる。自力で成仏できない人も、念仏を唱えれば阿弥陀仏の力で救われ、極楽に往生すると説く。平安時代に信仰が高まり、浄土宗・浄土真宗の本尊となっている。

 
東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)

 阿弥陀如来(あみだにょらい)の浄土が西方にあるのに対し、東方に存在するという薬師如来(やくしにょらい)の浄土。地は瑠璃(るり)からなり、建物・用具などがすべて七宝造りで、無数の菩薩(ぼさつ)が住んでいるという。

 
薬師如来(やくしにょらい)

 東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の仏。修行者の時に12の願を立てて成仏したとされ、衆生(しゅじょう)の病気を治し、安楽を得させる仏とされている。仏教の伝来以後、治病の仏として広く信仰された。薬壺(つぼ)を持つ像が多い。

 
大仏様(だいぶつよう)

 天竺様(てんじくよう)ともいう。鎌倉時代に、東大寺大仏殿再建に採用された、中国(宋)の建築様式。構造上、大型木造建築に適する様式である。

 
快慶(かいけい)

 鎌倉時代の仏師。生没年不詳。運慶の弟子とされ、流麗な作風で知られている。東大寺を再興した重源(ちょうげん)の知遇を得て、浄土寺阿弥陀三尊像、東大寺の阿弥陀如来像、同南大門金剛力士像、同僧形八幡神像などのほか、多数の阿弥陀如来像を残している。

 
広渡廃寺(こうどはいじ)

 小野市広渡町に所在する古代寺院跡。昭和48~50(1973~75)年と、平成5~7(1993~95)年に発掘調査が実施され、伽藍配置と規模が明らかになった。伽藍配置は、金堂と中門の間に東西両塔を配し、金堂の背後に講堂をおき、これらを回廊で取り囲むという薬師寺式を踏襲しており、寺域は、東西約100m、南北約150mにわたる。

 出土遺物等から、創建年代は奈良時代中ごろ、廃絶年代は平安時代後期と考えられている。なお、小野市の浄土寺に伝わる『浄土寺縁起』では、荒廃したままとなっていた広渡寺の本尊を、浄土寺薬師堂の本尊として移して安置したと記されている。

 
伽藍・伽藍配置(がらん・がらんはいち)

 伽藍とは寺院の建物のこと。伽藍配置とは、寺院における堂塔の配置で、時代や宗派により、一定の様式がある。