神々の伝説とはるかな過去の記憶
去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。
太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。
二つの伝説に共通しているのは、「但馬(特に円山川(まるやまがわ)流域)はかつて湖だったが、神様(たち)が水を海へ流し出して土地を造った」という点である。実はこの「かつて湖だった」というくだりは、必ずしも荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではなさそうなのだ。 今から6000年ほど前の縄文時代前期は、現代よりもずっと暖かい時代だった。海面は現在よりも数m高く、東京湾や大阪湾は今よりも内陸まで入り込んでいたことが確かめられている(縄文海進)。
但馬の中でも円山川下流域は非常に水はけの悪い土地で、昭和以降もたびたび大洪水を起こしている。近代的な堤防が整備されていてもそうなのだから、そんなものがない古代のことは想像に難くない。実際、円山川支流の出石川周辺を発掘調査してみると、地表から何mも、砂と泥が交互に堆積した軟弱な地層が続いている。
豊岡市中谷や同長谷では、縄文時代の貝塚が見つかっている。中谷貝塚は、円山川の東500mほどの所にある縄文時代中期~晩期の貝塚だが、現在の海岸線からは十数km離れている。長谷貝塚はさらに内陸寄りにある、縄文時代後期の貝塚である。これらの貝塚は、かつて豊岡盆地の奥深くまで汽水湖が入り込んでいたことを物語っている。
縄文時代中期だとおよそ5000年前、晩期でもおよそ3000年前のことである。「神様たちが湖の水を海に流し出した」という伝説は、ひょっとするとこういった太古の記憶を伝えているのではないだろうか。
用語解説
円山川をさかのぼる
円山川をさかのぼって北から南へ。それぞれの神社(北から順に、絹巻神社、小田井縣神社、出石神社、養父神社、粟鹿神社)を訪ねて、五社明神のお話を考えてみた。途中、鼻かけ地蔵さんと、伝説に登場する来日岳(くるひだけ)に立ち寄ったのはもちろんである。
絹巻神社
円山川が日本海に注ぐすぐ手前、豊岡市城崎町(きのさきちょう)の気比に、国造りをした五社明神(但馬五社)のひとつ、絹巻神社(きぬまきじんじゃ)がある。円山川と背後の山に挟まれた狭い場所に、河口の方、つまり北を向いて建てられた社殿は、僕たちが訪ねたときにはちょうど工事の最中であった。どうしてこんな狭い場所をわざわざ選んだのだろう。単に建物をというなら、ほかにもっと適地があったんじゃないだろうか。神様が河口をにらんでいる、それには、水との苦闘を繰り返した歴史が隠されているような気がするのは、僕の思い込みだろうか。
用語解説
鼻かけ地蔵
絹巻神社から少し円山川をさかのぼった右岸に、楽々浦(ささうら)という、普通の川では珍しい大きな入り江がある。この楽々浦のほとりに立っているのが、鼻かけ地蔵様だ。円山川から大きく入り込んだ浦は、まわりを囲む小高い山の緑を静かな水面に映した、とても美しい場所である。
鼻かけ地蔵様は、村の人たちにとても愛されているようで、お祭りを拝見に伺った時には、まさに村中総出のにぎわいだった。区長の岩村隆雄さんのお話では、昔から村でお祭りをしてきたが、『まんが日本昔ばなし』で放送されてから、「鼻かけ地蔵尊祭」として盛大におこなうようになったという。テレビアニメがきっかけで、人々のつながりも強くなったというのは、いかにも現代のお地蔵様らしいエピソードだなと思う。
楽々浦には、ほかに「浮弁天」という弁天様もお祭りされている。「どんなに水かさが上がっても、弁天様だけは沈まない」という伝説があると岩村さんから伺った。
波静かな楽々浦は、美しい景色だけでなくよい漁場としても、古くから生活の糧を与えてくれただろう。どことなくユーモラスな鼻かけ地蔵様にお参りして、何となくほっとしたような気分になりながら、次の目的地を目指した。
来日岳
楽々浦からそう遠くない円山川左岸、ちょうど豊岡の町と城崎とを分けるような場所にあるのが、来日岳(くるひだけ)。少し上流側から見ると、川面にたおやかな山容を映す風景がとても美しい山である。国造りの伝説では、このあたりにあった大岩を、神様が突き崩して水路を開いたことになっている。その真偽は別として、確かにこの来日岳のあたりは、川の左右から山が迫り、両岸の平野もぐっと狭まっているから、円山川が洪水をおこしたときには水の流れがせき止められそうに見える。
この来日岳の頂上からは、夏から秋にかけての早朝、素晴らしい雲海を見ることができる。日の出直前の山頂に立つと、遠くに床尾の山々が見え、手前の豊岡盆地から来日岳のふもとにかけて、綿菓子を並べたような雲海が広がる。日の出が近づくとともに、少しずつ色を変える雲は、川の流れに沿うようにごくゆったりと海の方へと流れてゆく。 豊岡盆地の奥深くまで湖となっていた時代、ここからはどんな風景がながめられたのだろう。山頂に立って想像するだけで、ちょっと神様気分である。
用語解説
小田井縣神社
出石神社
養父神社と斎神社
さらに川をさかのぼった養父市養父市場(やぶしやぶいちば)にあるのが、養父神社(やぶじんじゃ)である。やはり円山川に面して建つ神社であるが、ここには「お走りさん」とか「お走り祭り」と呼ばれる祭りが伝わっている。
残念なことにまだ見たことがないのだけれど、毎年4月15日から16日にかけて、150kgもある神輿(みこし)を担いで、片道およそ18kmもある斎神社(いつきじんじゃ)まで往復する祭りで、特に途中でおこなわれる大屋川の川渡りは圧巻だそうである。祭りの由来は、「但馬五社の神様たちが、斎神社の神様に大蛇退治をお願いしたので、そのお礼としておこなわれるようになった」ものだとされていて、伝説のページとは少し内容が異なっている。ただ、「豊岡のあたりが泥海だった」という点は共通しており、但馬のこの伝承が同じ起源をもっていることが想像できる。
用語解説
粟鹿神社
そして円山川の水源の一つ、粟鹿山のふもとにあるのが粟鹿神社(あわがじんじゃ)である。古代の主要街道の一つであった山陰道、現在の国道427号線が、遠阪峠(とおざかとうげ)を越えて但馬に入って間もなくの南に、以前はうっそうとした鎮守の森を見ることができたが、現在では高速道路に視界を遮られている。
『延喜式』の中では、但馬一宮、名神大社と定められている神社である。古くから朝廷の尊崇も厚く、勅使門を備えた格式高い神社は、巨杉が育つ深い鎮守の森に囲まれて、古代の雰囲気をそのままに伝えている。本殿の背後には、ご神体として祭られている小山があるが、これはどう見ても自然の山には見えない。
この勅使門には、精緻な鳳凰(ほうおう)の彫刻が施されている。社務所で伺ったところによると、この鳳凰は、かつて夜ごとに鳴き声をあげていたという伝説があるそうだ。
用語解説
粟鹿山
河口から数十km。円山川に沿う五社の伝説は、どのようにしてできあがってきたのだろうか。その背後にあった太古の記憶は、どうすれば解き明かすことができるのだろうか。アマツヒダカヒコホホデミノミコトが降り立ったという粟鹿山を最後に、今回の紀行を終えることにしたい。