加古川下流の景観

加古川の河口付近
加古川の河口付近

加古川(かこがわ)に沿って海を目指すと、風景は幾度か大きく変わる。一度目は西脇市(にしわきし)あたり。それまで中国山地の山間を流れていた川が、一気に広々とした景色の中へ入ってゆく。広大な台地が広がる中流域である。次は小野市・三木市(みきし)と加古川市の市境あたり、東に正法寺山(しょうぼうじやま)、西からは坊主山(ぼうずやま)が迫り、平野がほとんどなくなる所である。ここから下は一気に視界が開け、流れも一段と穏やかな下流域に入る。

加古川下流の景観
加古川下流の景観

加古川の市街地を遠望するあたりからは、川幅が広がり、水量も豊かな大河の景観となってくる。河口付近こそ臨海工業地帯に囲まれてはいるが、夕日に染まる穏やかな瀬戸内海へ流れ込むあたりは、昔の面影を今にとどめていて「兵庫の貴重な景観」にも選ばれている。

かつてこの流れに沿って、さまざまな人と文化が往来した。

用語解説

褶墓と日岡山古墳群

加古川が、市街地に入るよりも少し上流の左岸に、独立丘陵の日岡山(ひおかやま)がある。『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、景行天皇(けいこうてんのう、応神天皇(おうじんてんのう)という説もある)がこの丘の上に立ち、「この国、丘と原野いと広くして、この丘を見るに鹿児(かこ)のごとし」と述べたという。つまり日岡こそは、加古という名の発祥の地なのである。

日岡山陵への階段
日岡山陵への階段
日岡山陵
日岡山陵

日岡には古墳が数多く知られている。公園として整備された丘には、日岡山古墳群が広がっている。褶墓(ひれはか)を含め、合計5基の前方後円墳と3基 の円墳からなる前期の古墳群と、およそ20基の円墳からなる後期の古墳群で、外観だけではあるが、いくつかは見学もできる。

褶墓は、この日岡山の頂上にある。
公園の駐車場から続く階段を上り詰めた頂上に、照葉樹林に覆われた古墳がひっそりと眠っている。

加古川方面を望む
加古川方面を望む

現在は、宮内庁指定の陵墓であるから、内部をうかがうことすらできない。現在は、宮内庁指定の陵墓であるから、内部をうかがうことすらできない。測量図をもとに、全長80mの前方後円墳と言われているけれど、前方部は後世につけ足したものだという説もあるようだ。発掘調査をおこなうほかに、それを確かめるすべはないだろう。しかし、加古川下流に向かって見晴らしのきく頂上に立つと、むしろこの場所に、最も古い前方後円墳があるのは当然だろうと思える。加古川下流を支配する王であれば、いちばん目立つこの丘を墓所に選ぶだろう。風土記が語るように、大和の大王であった景行天皇が、妻問いに訪れたというのも、播磨地方の王が並々ならぬ力を保っていたことの証なのではないだろうか。「姫の遺体が川に沈んだ」という伝説の真偽はともかく、この古墳に葬られた人物が、加古川の水運などとも深く関わっていたことも間違いないだろう。

褶墓の真実が明らかになる日は、まだまだ先のことだろう。それまでは、常緑の森に覆われて、川に沈んだ娘の伝説も秘やかに生き続けるに違いない。

用語解説

竜山

竜山
竜山

褶墓から加古川を下ると、右岸に竜山(たつやま)が見えてくる。高さ100mにも満たない低山だが、「竜山石」の産地としてその名はよく知られている。この山に産する石は、石棺を造るための材料として古墳時代から採掘されていた。竜山石の石棺は近畿一円で広く用いられていたから、ある意味「ブランド品」と言える。

古墳の石棺は、大きさといい形といい手ごろな石材であったせいか、中世以降あちこちで、ほかの目的に転用された。今、東播磨で一番目につくのは、棺材に刻まれた「石棺仏」である。加古川市・高砂市(たかさごし)から小野市・加西市(かさいし)にかけて、竜山石の石棺仏は点々と分布している。よく考えてみると、墓をあばいて石棺をこわし、仏像を刻むのであるから、坊さんたちもずいぶん乱暴なことをしたものだが、リサイクルと言えば言えないこともない。

竜山付近の石切り場
竜山付近の石切り場
生石山から竜山を見る
生石山から竜山を見る

竜山では、今も石材の採掘が続いている。1500年以上も続く「石の山」は、また、人々の暮らしに生き続けている山でもある。

用語解説

生石神社と石の宝殿

この石を産む山で、石をご神体としているのが生石神社(おうしこじんじゃ)である。竜山の北にある生石神社は、その名の通り「石を生み出す山」を祭っている。ご神体となっている「石の宝殿(いしのほうでん)」は、謎を秘めた石として知る人も多い。

生石神社
生石神社
生石神社と石の宝殿
生石神社と石の宝殿
生石山
生石山

『播磨国風土記』では、「原の南に作石あり。形、屋の如し。-中略- 伝へて言えらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」と伝えているが、この当時にはすでに、はっきりとしたことがわからなくなっていたのではないだろうか。

石の宝殿
石の宝殿

その形などから、7世紀ごろに墓として造られたのではないかとも言われるが、これほど巨大なものを本当に動かせると思っていたのだろうか。古墳や石棺作りにたけた古代の石工たちが、そんなことがわからなかったとは思えない。しかし一方で、この巨石の根元は、明らかに切り離すことを目ざして、深くえぐられているのである。

墓か、それとも巨大な記念物か。どこかへ運ぶつもりだったのか。造らせたのはだれなのか。すべてが謎のまま、石は立ち続けている。

石の宝殿
石の宝殿

石の宝殿の裏山からの眺望は素晴らしい。実はこの山は、頂上まで続く巨大な1個の岩盤なのである。そこに刻まれた階段を、滑らないよう一歩ずつ確かめながら登ると、5分ほどで東屋のある頂上に至る。

頂上からは360度のパノラマである。竜山から西へ続く山塊と、石切場のようすが一目で見渡せるだけでなく、はるか北播磨の山地から加古川下流域の平野、瀬戸内海(せとないかい)までが視界に入る。宝殿を刻んだ石工たちが見た風景を思って、しばしの間立ちつくしていた。

用語解説