1600年ほども前のことでしょうか。景行天皇(けいこうてんのう)は、播磨(はりま)に住む豪族(ごうぞく)の娘を妻にすることになりました。そのころは、結婚するときには男の人の方から、女の人のところへ出かけてゆかなければなりませんでした。そこで天皇は旅のしたくをして、大和国(やまとのくに)から播磨国(はりまのくに)へと向かいました。

摂津国(せっつのくに)の高瀬(たかせ)という所まで来ると、舟で向こう岸へわたらなければなりません。天皇は、岸辺にいたわたし守に「私を向こう岸へ渡してくれ」と言いました。ところがこれを聞いたわたし守は、「私はあなたの家来ではありません」とすまして言います。
「それはそうだが、どうにかわたしてくれ。」
「それなら、わたし賃をおはらいなさい。」
そこで天皇は、旅の時につけるかみかざりを舟に投げてやりました。その輝きで、舟の中はまぶしいほどになったそうです。こうして、景行天皇は舟に乗り、向こう岸へ着くことができたのでした。

天皇が明石まで来たころになって、娘ははじめて、天皇がやってくることを聞かされます。娘はすっかりおどろいてしまいました。いったいどうしてよいやらわかりません。困った娘は、海にうかぶ小島にかくれてしまいました。
一方天皇は、娘の住む加古(かこ)の松原(まつばら)までやってきましたが、娘の姿はどこにもありません。ちょうどその時、一匹の白い犬が、海に向かってはげしく吠えたてました。
「あれはだれの犬か」と天皇がたずねると、家来のひとりが「娘が飼っている犬です」と答えました。
「それならば、娘はおきにうかぶあの島にいるにちがいない。」

島へわたった天皇は、優しい声で呼びかけます。
「この島にかくれている愛しい妻よ。どうか出てきておくれ。」
その声に、娘はようやく姿をあらわしました。船を連ねて島からもどった天皇は、加古の地に立派な宮を建てて、結婚の儀式(ぎしき)をおこないました。

天皇と娘は、その宮で幸せに暮らしましたが、数年の後、娘は亡くなってしまいました。天皇は深く悲しみました。娘のなきがらをほうむるため、はるかに海を望む日岡(ひおか)の頂上に、立派な墓が造られました。
ところが娘のなきがらを墓へと運ぶために、船に乗せて川をわたっていたときのことです。とつぜん大きなつむじ風が吹いて船を転覆(てんぷく)させ、さかまく水は、そのなきがらを川底深くしずめてしまいました。天皇は悲しんで、娘のなきがらをさがさせましたが、見つかったのはくしを入れる箱と褶(ひれ)だけで、どんなにさがしても、なきがらは見つかりませんでした。
そこで、このくし箱と褶だけを墓にほうむったということです。そのためいつしか、この墓を「褶墓(ひれはか)」と呼ぶようになりました。

娘のことを思い出すたびに、天皇は娘が恋しく、また悲しくてなりません。
「これからは、娘のなきがらがしずんだこの川で取れるものは、食べるまい」と言って、その後、加古川でとれた魚を決してめし上がることはなかったということです。

景行天皇が娘を訪ねたときに立ち寄った場所は、今もいくつかの言い伝えがありますが、そのほとんどは長い年月の中で忘れられています。二人が暮らした宮の場所も、今ではどこだかわからなくなってしまいました。