【加古川】かこがわ

 兵庫県の南部を流れる一級河川。延長96km、流域面積1730平方キロメートルをはかる県下最大・最長の河川である。但馬・丹波・播磨の三国が接する丹波市青垣町の粟鹿山(あわがさん、標高962m)付近が源流で、途中小野市、加古川市などを流れ、加古川市と高砂市の境で播磨灘に注ぐ。

 加古川の水運は、古代から物流を担う経路であったと考えられ、特に日本海に注ぐ由良川水系へは峠を越えずに到達できることから、「加古川-由良川の道」とも呼ばれて、日本海側と瀬戸内側を結ぶ重要なルートとされている。

 
【兵庫の貴重な景観】
ひょうごのきちょうなけいかん

 兵庫県の健康生活部環境局自然環境保全課が選定した、『改訂・兵庫の貴重な自然 兵庫県版レッドデータブック2003』で選定された景観。ここでは景観を、「視覚的な美しさと緑や自然の質(生態系)を包合した概念」としてとらえており、景観資源的価値と自然的価値の両面から評価されるものを貴重な自然景観とし、A~Cランクで合計207か所が選定されている。

 
【日岡山】ひおかやま

 加古川市日岡に所在する独立丘陵。加古川に面し、標高は51m前後である。山頂からふもとにかけて、日岡古墳群が広がっている。『播磨国風土記』によると日岡の語源は、景行天皇(応神天皇とする説もある)がこの丘に登ったとき、鹿が「比々(ヒヒ)」と鳴いたためだという。現在一帯は、公園としてさまざまな施設が整備されている。

 
【景行天皇】けいこうてんのう

 第12代の天皇。記紀には、全国を征討した天皇として描かれており、皇子ヤマトタケルによる熊襲、蝦夷の征討などの記述がある。143歳まで生きたとされるなど、伝説的要素が強く、史実性は確かではない。

 
【応神天皇】おうじんてんのう

 第15代の天皇。4世紀末から5世紀初頭ころとされる。記紀では、この時期に渡来人と新技術の伝来があり、大規模な開発がおこなわれたとしている。陵墓に比定されている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)は、全長425mをはかり、墳丘の長さで第2位、体積では第1位の古墳である。

 
【日岡古墳群】ひおかこふんぐん

 日岡山山頂からふもとにかけて分布する古墳群。主として古墳時代前期~中期にかけて築造されたと推定されている。日岡山頂には、陵墓として管理されている褶墓古墳(日岡陵)がある。全長80mの前方後円墳で、公開されている測量図からは整った古式前方後円墳とされているが、明治時代初頭に修築した際、円墳であったものに前方部を付け加えたという説もある。古墳時代前期の加古川下流地域を考える上で、重要な古墳群である。

 
【照葉樹林】しょうようじゅりん

 温帯に見られる常緑広葉樹林の一つ。森林を構成する木に、葉の表面の光沢が強い樹木が多いのでこの名がある。本来本州の南西部以南では、照葉樹林が極相林(きょくそうりん、その地域で自然の変遷に任せたとき、最終的に到達する森林の姿。その地域の環境に適合して、長期にわたって安定する)であるが、開発や植林を通じてまとまった照葉樹林はほとんどが消失し、一部の山地や寺社の鎮守の森などで断片的に見られるだけとなっている。

 
【陵墓・陵墓参考地】りょうぼ・りょうぼさんこうち

 一般に、天皇・皇族の墓を総称して陵墓といい、皇族の墓所である可能性がある場所を陵墓参考地と呼ぶ。陵墓および陵墓参考地は宮内庁によって管理されており、研究者などが自由に立ち入って調査することができない。一部の古墳では、比定される天皇と古墳の年代に明らかな相違が見られ、当該天皇陵であることに疑義が出されている。考古学的には、古墳の名称はその古墳が所在する地名(字名など)を用いることが原則であり、○○天皇陵という呼称は用いない(例:仁徳天皇陵=大仙(だいせん)古墳、応神天皇陵=誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳など)が、「仁徳天皇陵古墳」といった用い方をする例もある。

 
【褶】ひれ

 比礼・領巾とも書く。

 古代、女性が着用したスカーフの一種。薄い細長い布で作られ、女性が首から肩にかけてめぐらせ、長く垂らした。装飾的な効果だけではなく、これを振ることで破邪の呪力があるとされていた。中世以降はしだいに使用されなくなった。

 
【播磨国風土記】はりまのくにふどき

 奈良時代に編集された播磨国の地誌。成立は715年以前とされている。原文の冒頭が失われて巻首と明石郡の項目は存在しないが、他の部分はよく保存されており、当時の地名に関する伝承や産物などがわかる。

 
【竜山石】たつやまいし

 兵庫県の播磨地方南部に産出する、流紋岩質溶結凝灰岩(りゅうもんがんしつようけつぎょうかいがん)。高砂市竜山(たかさごしたつやま、標高92.4m)付近を中心に採掘されていたため、「竜山石」と呼ばれる。古墳時代から、石棺(せっかん)用の石材として用いられている。加西市長(おさ)、高室(たかむろ)などでも近似の石材を産し、同様に利用された。

 
【石棺仏】せっかんぶつ

 石棺の部材を利用して作られた石仏。石棺の蓋(ふた)のような板状の石材をそのまま利用して、浮き彫りで石仏をあらわしたものが多い。加古川市、高砂市、小野市、加西市など、加古川流域西部に多く分布する。13~16世紀に製作されたものが多いと考えられている。

 
【石棺】せっかん

 埋葬する遺体を納めるために作られた、石製の棺。石を組み合わせて作る場合と、一個の石をくりぬいて作る場合がある。日本での最古の例は縄文時代後期にさかのぼる。

 古墳時代には、古墳に埋葬するためのさまざまな形式の石棺が製作された。その主要なものには、割竹形石棺、舟形石棺(ともに古墳時代前期)、長持形石棺(中期)、家形石棺(後期)がある。

 
【生石神社・石の宝殿】おうしこじんじゃ (「おおしこ」とも表記することがある)・いしのほうでん

 『生石神社略記』によれば、崇神天皇(すじんてんのう)の代に創建したとされ、背後の宝殿山山腹にある石の宝殿を神体として祭る。

 石の宝殿については、オオナムチの神とスクナヒコナの神が、出雲からこの地に来た際に、国土を鎮めるため、夜の間に石の宮殿を造営しようとしたが、阿賀の神の反乱を受けて造営が間に合わなかったという伝承(『生石神社略記』)、聖徳太子の時代に弓削大連(ゆげのおおむらじ、物部守屋(もののべのもりや)のこと)が造ったという『播磨国風土記』の伝承などがある。古墳時代終末期の石棺や横口式石槨(せきかく)などとの関係を指摘する説、石棺の未製品とする説、火葬骨の骨蔵器外容器とする説、供養堂とする説などがあるが、製作年代については、7世紀代と考える人が多いようである。

 
【聖徳の王】しょうとくのおおきみ

 聖徳太子(574~622)のこと(『播磨国風土記』印南郡の記述)。

 
【弓削の大連】ゆげのおおむらじ

 物部守屋(?~587)のこと。仏教を排斥して蘇我氏(そがし)と対立し、滅ぼされた。