かつて「白過ぎ城」と称された平成の姫路城。その大天守は、塗り直された壁や瓦目地の漆喰の輝きで見る者を魅了したのですが、最近ではすっかり落ち着いた風情を漂わせています。それでも修理工事が終って2~3年の間は、オーラの如き白い輝きを身にまとっていたのですから、最新のカビ対策が施されるなど、築城当初の美観の再現・維持に向けて、21世紀の技術者たちの並々ならぬ努力が払われたのでした。「白過ぎ城」の復活は、姫路城の長い歴史の中では僅かな瞬間かもしれませんが、昭和修理後の半世紀を経過した大きな出来事なのであり、その光景に出会えた幸運は今後も覚えておきたいものです。

 当館の窓からは、姫山の緑に浮かぶ大天守の北東面を眺めることができます。春夏秋冬ばかりか、その日の午前・午後でも光の当たり方で、雰囲気の異なる姫路城が見られるのですが、少し長い年月のスパンでは、壁や瓦目地のトーンに変化が生じている様子が観察できます。そう、確実に黒ずんできているのです。考えてみれば、原形にリセットされた“白過ぎ”の感覚自体が、そうでない時期での姫路城とは、外観差を伴って既にイメージの違和感を招いているのでした。果たして、どちらが本当の姫路城の姿なのでしょうか。

2015(平成27)年の姫路城天守/当館から

 あらためて、歴史的な文化財の形について着目してみれば、過去の成立時点を体現する“オリジナル”スタイルと、今ここに対峙している〈現在完了〉での“リアル”スタイルとは両立しません。そして、当初の形の維持に価値を見出す立場では、後世の経年変化や修理による補強は、本来の趣旨とは別種の“ノイズ”のような存在として、副次的に扱われる感覚に近いかもしれません。何より成立当初の制作意図が、原形としてストレートに反映されていることに、その文化財固有の価値を求めているからです。

 ただし、時の推移とともに文化財のオリジナルの形状は変化していきます。後世の人々にとって、当初のスタイルを不変のまま維持し続けることが困難な場合、むしろ、今時に至るまでの歴史を物語る“経過”の風情の中にこそ、文化財が大切に守られてきたことの稀有な状況を再認識し、時を重ねた変化の形を肯定・受容していく方向性が導かれたのではないか、と思われるのです。今日も人々の信仰を集める仏像では、時代を超えた数多の瞬間ごとに、一期一会の出会いの真実があり、それゆえに、時の累積(由緒)を担保する“古色”での体感が、殊更に尊ばれるのでした。

 ところで、伊勢神宮などで現在も続いている式年での建替え事業では、原点復帰という“リセット”による永続性への更新が、一方で認められるところですが、これは“木材”という建材の特性を活かした日本固有の文化表現でもあったと言えます。木の文化では、時に“経過”のインターバル化も図られていたようです。いずれにせよ、文化財と対峙する際の軸足の違いにより、成立時の完成形を現状から遡及する“ルーツ”確認の観点と、それとは逆に、過去からの経年変化を“リアルタイム”で受け入れながら現状を積極的に評価する、二つの方向での価値基準が併存していたように思われます。

2021(令和3)年の姫路城天守/当館から

 最近では、文化財に向けられた価値も多様となり、長崎の海上に所在する端島(軍艦島)では、かつての近代化を担った遺構が放置され、適切な保存措置を講じることが難しいことから、その自然に崩壊していく過程にも強い関心が寄せられています。実生活の余韻が残されたままの“廃墟”化の進行ということで、これまでになかった文化財の性格が注目される中、ここでの復元再生によるテーマパークのような通常の整備事業は、現状遺構のインパクトに鑑みても、決して相応しいものとは思われないのでしょう。

 また佐賀県の名護屋城跡では、築城時の軍事評価にかかる縄張の検証以上に、豊臣秀吉が起こした朝鮮出兵後の和平の象徴として、意図的に実施された機能停止のための「破城」遺構の方が、高く評価されています。城郭であるがゆえに条件付けられた軍事面への興味に留まることなく、ここでは、その時代の社会的な背景に即した城郭の存在意義として、むしろ事後に変化した“経過”の形に関心が向けられているのです。

 さて、姫路城の場合はどうでしょう。そこには「お城」の在るがままの姿を、街中からいつも愛(め)で親しんできた市民生活の厚みがありました。たとえ瞬間的な「白過ぎ城」の話題がなくなっても、地元ならでは穏やかな日常の関係性は、〈進行形〉の経年変化に寄り添いながら、これからも続いていきます。もしも、「白過ぎ城」の景観に違和感があったとするなら、それこそ地元の人々の、地に足の付いた“経過”視線の賜物と言えるのではないでしょうか。

2021(令和3)年の姫路城天守(部分)/当館から