そもそも、城に完成形という概念は成立するのでしょうか。姫路城にしても慶長14年(1609)の天守の建設を以て、今日の遺構に至る全てが完工したわけではありません。西ノ丸や中曲輪の出入口の整備は池田輝政の築城行為以降も続いていきます。あらためて考えてみますと、当初の工事計画の何割が実施に移されたのかも不明ですし、当然のことながら白紙撤回や保留、はたまた大人の事情での設計変更を余儀なくされる場合もあったと思われます。城郭が当時の社会背景を反映した歴史の産物である限り、個々の条件下で求められた城内施設のバリエーションの中から、その都度の究極の理想形を用意することは出来ても、それらが以後も不変の完成形として維持され続けるのかどうかは、全くの別問題なのです。建造物というものは、完成した瞬間から過去の存在となってしまう宿命にあります。さりとて臨機応変の空間運用が求められる城郭の資質においては、完成形といった固定的な価値観自体が、もともとの実態にそぐわないのかもしれません。
 因みに、姫路城の縄張の在り方については新旧混交という特色が見出せますが、それを単なる築城工事の効率化(工期や工費の節約)からのみの視点で捉えてしまえば、よほど窮屈な解釈に終わってしまいます。私としては、池田輝政が前時代である羽柴・木下期の遺構をあえて城内に温存しようとした、それなりの積極的な理由を求めてみたいのです。あらためて考え直してみると、姫路城には秀吉と輝政を結び付ける由緒のパイプが、狭い時空を超えて見受けられる気がします。かつての姫路城は天下人の道を歩み始めた秀吉の出世物語の舞台です。秀吉と縁の深かった輝政にしてみれば、たとえ時代遅れであっても、古様の縄張を改変することなく現実の形の中に共有することで、この城のレガシーを大切に継承しようとした特別な思いがあったのではないでしょうか。輝政が権力の象徴として、斬新な発想を誇る豪華絢爛の連立式天守を築きながらも、一方では姫路城内に残る過去の遺構に全面改修を及ぼさなかったのは何故か。いわば“未完成”に見える部分の中にこそ、問題の核心が秘められているように思われてならないのです。

赤穂城模型/当館蔵(俯瞰での形)

 先日、当館の“ひょうご五国”歴史文化キャラバンの展示作業で、赤穂(会場は赤穂市立歴史博物館)へ行ってきました。こども用のワークシートを作成したり、音声ガイドやQRコード方式の解説補助システムを導入するなど、展示企画担当者の当世に向けた果敢な挑戦に、新時代の風を感じるとともに、“若さ”という可能性がうらやましくもあり、随分と好印象を覚えました。博物館の世界にも進化を求める波が押し寄せているのですね。
 ところで、赤穂と言えば有名な元禄の赤穂事件(忠臣蔵)のことが思い浮かびますが、その舞台となった赤穂城跡のユニークな立ち位置については、是非とも注目しておきたいと常々思っておりました。一般にイメージしやすい姫路城のようなタイプと違って、城下・郊外から城の本体を窺い知ることができないのです。近世城郭の特性としては、周囲からの突出した存在感を示す空間施設であることが、規模の大小にかかわらず第一に求められるところでしょう。今風で言えば自己主張とか承認欲求の感覚に近いのですが、“見せる”ことへの強いこだわりが、この国での特異な城郭観を形づくっていきます。しかしながら、むしろ赤穂城では時代の流れと逆行するかのような、全く別の築城理論が試みられました。関ヶ原の戦いから約半世紀を経過した段階での、城郭史上の一大事件です。
 そもそも、5万石の外様大名の新規築城が許可されたこと自体が、当時としては稀有な出来事と言えるもので、鈍角・鋭角・曲線などを多用したその複雑な平面プランの形は、外国の築城術の影響すら感じさせる最新の城郭スタイルの援用・実践を物語っています。この際、現地でどうしても本物の城郭を構築したいという、軍学の立場からの大人の事情もそこには見え隠れしているようで、およそ一藩レベルの実力を超えた高度な政治判断が、そこに働いて事業展開を促したのではないかと推測させます。本丸・二の丸・三の丸といった赤穂城を構成する主要な曲輪には、その全てを石垣が囲郭するだけでなく、上水道のインフラ整備も行われました。千種川河口の三角州の低地を選んで、わざわざ丁寧な築城と城下町の整備が施されているのです。しかるに、赤穂城の主要部が周囲からの視線にさらされることはありません。本丸の内部に作られた天守台は、その上に櫓建築が立つことのない“未完成”の物件ですが、外部からは天守台の存在を視認することさえ困難です。

赤穂城模型/当館蔵(視線を下げてみる)

 あらためて、赤穂城の模型を上からでなく、低い角度から見てみましょう。平面プランに比べて、あまりのインパクトのない立面構成の乏しい印象に、今更ながら驚かされます。ただし、見た目のマイナス効果は大砲戦を主体とする17世紀段階での軍事技術にあっては、まことに理想的な施設効果を発揮するのであって、赤穂新城に注がれた真の意図も、どうやらそのあたりに求められそうです。高さのある建造物の構築は、城内への目標物となることで外からの砲撃を容易にし、かえって守城側の不利を招いてしまう恐れがありました。そう考えると、経年のタタラ製鉄の作業などで千種川からもたらされた海岸一帯への膨大な土砂の堆積は、有名な赤穂の入浜塩田の開発を用意しただけでなく、軍事面では城地の先に広がる遠浅の海が、幸いなことに大砲を搭載した軍艦の侵入を阻むのであって、何はともあれ、要塞としての絶好の環境を提供していたのだと感心させられます。慶長・元和・寛永の城郭観の変遷を踏まえて進化を遂げた、なかなかの名城と言えるでしょう。
 海上からの“見せない”城としての景観に特化した場合、城塁の折れた箇所の全てに櫓を林立させる必要はありません。しかも建造物を省略することで、平素のメンテナンスをはじめとする維持管理の労力の一切が不要となります。泰平の時代の城郭事情では、それも十分にあり得る話だと思われるのですが、かくして赤穂城の“未完成”の作為が眼前に展開します。今はこれで事足りるとする“未完成”の城郭観は、決して不備に対する負い目を意味するものではなく、以後の情勢によっては、将来の変化に伴う建造物の自由自在な構築をも実現できる、(建設はいつでも可能であるが、当座は必要としないとする)柔軟なバリエーション対応を見据えたものなのだと評価しておきたいのです。その時点に所在する物件ばかりで、城郭が完成するわけではありません。城郭が動的な存在であればこその、多様な価値観のもとでの可能性の余地は、“未完成”のニュアンスの内に、実のところ無限大に残されているのでした。

赤穂城跡の現況/左に本丸・天守台、右に二の丸

 千種川の河口に位置する唐船山の標高は19メートルで、兵庫県内では最も低い山だとされます。面白いと思って展示解説の日の昼休み、急いで現地に行ってみました。海に突き出した高台のような岩場には、幕末に海上監視を担う台場が置かれ、瀬戸内のパノラマの中で家島の島影が点々と横たわっています。わずか19メートルの高さしかなくとも、確かにここは山なのだと妙に納得させられる気がしました。振り返ってみても赤穂城跡がどこにあるのか全くわからず、不思議な世界に迷い込んだ感覚はありましたが、天高く、秋風は爽やかに吹き渡っていきます。断絶した浅野家のあと、赤穂城へは森家が2万石で入封することになりますが、そこでも城主としての格式は失われることなく、築城過程に謎を残したこの城のプライドが守られたことに、あらためて思いを馳せたいと思います。