江戸時代においても、名城としての姫路城の評判は揺るがないものがあったようです。酒井雅楽頭家(18世紀半ばから姫路藩主)の家中の逸話を集めた「六臣譚筆」によれば、江戸詰めの家臣が他藩の侍との間で、姫路城についての問答に及んだ話題が収められています。他藩の侍にとってはこの際、姫路城のことを知っているであろう藩の人間に、日頃の興味関心事を尋ねてみたかったのでしょう。

 まずこの侍は、“姫路城には鶴が多くいるのか?”と、随分と唐突な質問を寄せています。おそらく彼の先入観としては、鶴の舞う優雅な光景をごく自然に想像していたようです。白鷺に特定はされていませんが、当時の人々の姫路城のイメージとして、城下から美しく望める白亜の天守の存在が知れ渡っており、現実の中に連想を誘う白い鳥の実在についても、当然のことながら付帯条件に備わっている筈のものでした。

 姫路藩士は自慢げに答えます。“登城する時に、邪魔になるくらいの多さだ”と。流石に行きすぎた虚言であることは容易に想像がつくのですが、さりとて、確かめる術はありません。そこで、他藩の侍は質問を追加します。“姫路城の天守は本当に大きいのか?”と。これに姫路藩士が、“上は雲に隠れるくらいだ”と答えます。いよいよ詭弁のしっぽが掴めそうでしたので、“この前、姫路城下を通過した時には全体が見えておった!”と自身の体験談で迫ります。しかし、かの姫路藩士は平然と“その日は雲がなくて幸運!”と言ってのけたということです。

 姫路城の評判をネタにした逸話が収録されていること自体、極めて意義深いものなのですが、そこには名城をめぐる藩士の心理的な駆け引きが垣間見られ、その意味するところの興味は尽きません。名城を有する自負の余裕をアドバンテージとする姫路藩士と、真相を探るべく憧れの名城をまぶしく眺めるしかない他藩の侍。かくして江戸時代には、自藩の城郭に対する優劣の認識を介した意地の応酬が繰り広げられたのでした。名城であればこそのプライドをかけた心理作戦が、時代の水面下では展開していたと言えます。

姫路城/大手門の現状:鶴はいないのだが・・・

 城郭を維持管理するため、江戸時代の各藩では用途に応じた絵図面が作成されました。因みに、榊原家が姫路藩主であった時には、有事の軍事対応を想定した姫路城全体の防備布陣図や、内曲輪の縄張における問題箇所を指摘した姫路城内図などがあります。そして、何より大切なことは、同時代人が姫路城をどのように評価していたのかが、具体的に確認できることです。現代人の史跡探訪に近いゲーム感覚の世界とは違い、姫路城を運用する当事者のシビアな視線が注がれます。さほど根拠のない攻城シミュレーションに陶酔することなく、名城を守る立場からの謙虚な意見にも耳を傾けておきたいところです。

 さて、榊原家が下した姫路城の軍事施設面での懸案事項は、以下の三つでありました。城内図に付箋を貼って問題点を記載していますが、今日の縄張研究の関心事からすれば、どれも想定外のものばかりだと思います。

 〔1〕チノ櫓の西下の塀/要害の度合いを高める

 〔2〕姫山と鷺山の鞍部の塀/要害の度合いを高める

 〔3〕搦手の堀割/手前に廊下橋を設けて、奥を見透かされないようにする

 防御線を容易に突破される恐れのある〔1〕〔2〕については、有事に然るべき補強工事が施されることになるのでしょう。また、水路として上山里曲輪の東下まで伸びることになる〔3〕については、これまでの私の中に明確な問題意識はありませんでした。現役の運用施設と過去の史跡。当然のことながら、姫路城の昔と今の空間では、扱うべき&見えるべき対象の範囲も大きく異なってくると思われます。現在も名城の評判のまま、厳密な検証を加えることなく定番の解説を受け入れてしまう危うさがそこにはあります。〈今日の姫路城の遺構に何を求めるのか〉。研究者に向けての宿題がまたしても残されました。

姫路城/天守が見通せる風景が江戸時代の懸案事項でもある

 船場側を挟んで姫路城の北西に男山が所在します。今からざっと四百年前、池田輝政による姫路城の改修工事が行われた際に、地形の関係から、城山の北西方面には中堀・外堀を大きく広げることができませんでした。そこで問題となったのは、城山に接近し過ぎて姫路城の防備にマイナスの要因となり得る男山への懸念です。不安に思った家老がその件を輝政に尋ねたところ、心配には及ばないとの返事。輝政は有事に姫路城への籠城作戦を立てていなかったようです。

 これは、江戸時代中期に編纂された「武功雑記」に収められた逸話なのですが、近世城郭の本質を説く、実に示唆的な内容だと言えます。たとえ堅固な居城一つを頼ったとしても、領外からの援軍がなければ落城は必至です。出撃して運を開くまでと宣言した輝政ですが、籠城のための最強の軍事機能を期待しないのであれば、居城に求められたものは何か他にある筈で・・・。そのためにこそ至高の“美”の戦略が用意され、平時での圧倒的な存在感を発揮する中で、不戦勝のシミュレーションを手に入れたのでした。

 時が移り、20世紀の太平洋戦争の頃、姫路城天守には防空対策として、白さの美観を隠すための擬装網が被せられました。ただし、不思議なことに天守の北面ばかりは施されなかったといいます。これについての合点のいく回答は、今のところ得られていないのですが、姫路城の防御正面(南東方面)から見て、背後の男山(北西方面)への関心が潜在的に薄かったのであれば、輝政の時代の城郭観と同様、裏側にあたる天守北面への防備の自覚は無きに等しかったのでしょう。城裏からは攻めてこないという時代を超えて共通する見立の意識の内に、どのような心理が働いていたのか、姫路城の評判記に向けた考察はまだまだ続きます。

姫路上空写真(昭和後期)/左上の男山で縄張が歪む