学芸員コラム
2022年11月15日
第145回 「円教寺旧記」にみられる因縁話
令和4年3月当館発行の紀要『塵界』33号に、鎌倉時代の書写山圓教寺に性空上人以来の隆盛をもたらした第34世長吏俊源についての小論を載せました。その執筆時に使用した『円教寺長吏記』などの「円教寺旧記」に、妄念やたたりなどの記載があるのに目がとまり、その中には現存する仏像の銘文に登場する人物もいます。今回はそれらの話を紹介してみたいと思います。
まず、俊源に関わる人物である第31世長吏実心について、第62世実祐の項に「実祐は18年長吏を務め、辞して1年後に97才で亡くなった。第31世実心の再来といわれる。その理由は、実心は真覚(俊源)の結構により長吏を剥奪され、刀田山(鶴林寺)で亡くなった。実心は、かなりの学侶であったが、妄念で生まれ替わり、再度長吏となって長年の本意を遂げた。」とあります。(意訳は筆者による、以下同じ)
この「実祐」の名が記された仏像が書写山南麓にある如意輪寺の本尊、法眼康俊作如意輪観音坐像(像高41・0㎝)で、像底に、観応2年(1351)11月の開眼供養の導師として「供養導師書写山長吏法印大和尚位実祐」と記されています。銘文の観応2年は実祐が長吏であった18年間の内であるので、実祐は14世紀中頃に長吏であったことが判明します。
実祐の前身とされる実心の記録をみると、「播磨国風早(姫路市域の北東砥堀周辺と考えられる)の人で、学問無双であったとされ、長吏であったときに、俊源が強引に浄雲坊寛昌を長吏にしようとしたため、実心は衆徒の署名を以て公に訴えたが、裁定が2、3年かかっている内に実心は亡くなった。」とあります。
実心と実祐の項を要約しますと、「俊源は実心が長吏であったときに、長吏職を剥奪して寛昌を長吏に就けた。実心は俊源の横暴を公に訴えたが、裁定に2、3年かかっている間に鶴林寺で亡くなった。実心は妄念によって実祐に生まれ変り、再度長吏となって本懐を遂げた。」ということになります。
実祐の項に記される俊源の「結構」とは、実心の長吏職を剥奪して寛昌を長吏にする企てであると考えられます。なぜ、俊源が実心の長吏職を剥奪して寛昌を次の長吏にさせたか不明ですが、優秀な学侶であった実心が妄念で生まれ変わるほどのすさまじい仕打ちを受けたことが推察されます。
その俊源にもたたり話があります。小論執筆時には見落としており、元大手前大学教授の小林基伸氏のご教示により判明したことで、「円教寺旧記」の『捃拾集』「次ニ五重ノ塔婆造営ノ事」の項に記されています。元徳3年(1331)3月5日に五重塔への落雷で、五重塔、大講堂、食堂、常行堂、大経蔵の5棟が焼失しました。再建の際に五重塔は他の建物への類焼を避けるため、場所を変えて再建されて応安3年(1370)に完成したようですが、その建築中の延文2年(1357)4月9日に塔に落雷し、三重目から煙が上がったことが俊源によるものとされました。
それは俊源の生前、彼と弟子たちはかなり専横を極めたようで、俊源没後に弟子たちは書写山を追放され、俊源の墓は流失したままで、修繕や追善もされなかったため、落雷は俊源の「聖霊怨心」の仕業とされたようです。それ以後俊源の菩提を弔い、一日千部経の転読が始められたようです。
また俊源が自坊として建てた「二階坊」も維持されたようです。それは天正6年(1578)に羽柴秀吉の軍勢が、別所長治と戦った「三木合戦」に際して圓教寺に入山し、寺内を荒らした「天正の一乱」の折りに、護法堂若天社の護法童子像が無くなったため、その代理として、二階坊にあった俊源の念持仏の檀像毘沙門天立像(像高15・1㎝)が安置されたことから、俊源没後約300年経っても二階坊が維持されていたことがわかります。明治維新で山内の塔頭の多くが退転し、現在では二階坊の所在地は不明で、そのまま同坊に毘沙門天が置かれていたら、鎌倉初期の慶派仏師作の像は失われていたと思われます。
俊源ゆかりのこの像を若天社に安置して供養したのは第106世長吏実祐です。俊源が長吏職を剥奪した第31世実心の生まれ変わりとされる第62世実祐と同名であることは偶然でしょうが、なにか因縁があるようにも感じられます。