〈姫路城の石垣の話を続けます〉石垣構築が大規模になると、いかに効率よく積んでいくかの工夫がなされていきます。そのため石材の規格化が図られ(資材調達と労力の積算が容易となるだけでなく)、一方では、どの城にあっても共通する積み方のマニュアルが確立することで、一定の技術レベルでの迅速な作業が望めるようになりました。言わば、個々の現場で必要とされる専門家の特殊技能を介さなくても、それなりの標準仕様の石垣を組む上げることはできるわけで、全国の城郭の石垣使用の展開に大いに貢献したのです。

 なお、外部からの侵攻を守る防御空間としての城郭では、城壁や断崖といった上下方向の高さをもった障害施設の構築が求められます。その際、工事技術の簡便・普遍化を勘案するなら、大陸での使用例のある煉瓦(レンガ)や磚(セン)といった、最小単位のモデュールの定まった部材を用いれば、大量生産・調達に加えて現場での取扱いに便宜があり、多様な形・規模への構造仕様の対応が可能となったことでしょう。ただし、我が国の城郭文化では採用されなかった工法なのであり、その理由は様々ですが、〝石垣とは何か〟という根本の問題を追究する上で、検討をしておくべき事象であろうと私は考えています。

「置塩城(本丸曲輪群下の石垣)」

 さて、姫路の北西郊外、夢前川の中流に置塩城跡があります。室町時代の後期に赤松氏が播磨国の守護に返り咲いた際の、本拠の城郭として整備が進められました。播磨中央部の上位公権としての権威をこの城の意匠に込めたとすれば、庭園を設けた山上の主要曲輪のほか、城内の所々に認められる石垣(石積)が殊更の注目に値します。しかも置塩城の場合、石垣(石積)はそれほど高さがあるものではなく、進入路に立ちはだかった障害物というより、曲輪の縁辺足元を固める造作意匠としての印象がどこか強いのです。

 どうやらこの時代の石垣(石積)は、軍事的機能とは別種の役割を期待されていたのであって、城内に隈なく施されてはおらず、石材使用による完全無欠な要塞化を図ったものでないことは明らかです。置塩城の詰丸に相当する本丸曲輪群下の石垣では、その登り口付近に巨石を介した石組みが残されていますが、先行する原風景の環境が想像されて興味深く思われます。すなわち、城山の露岩(巨石)がそのまま曲輪の基底の根固めとなり、それを補う形で周囲に小石を詰め並べて表面を仕上げようとした、一連の作業過程が見て取れるのでした。案外これが、石垣(石積)へと至る原初の姿〔「笑い積み」の出現〕なのかもしれません。

 城山の地形条件がいかに築城行為に影響を与え、それらを城郭空間の中にどう採り入れていくのか。煉瓦(レンガ)や磚(セン)といった自由度の高い零(ゼロ)からの構築の手法ではなく、先行する現場固有の環境を容認しつつ、むしろ制約面を積極的に活かそうとする築城思想の選択が、特異な石組みを招来するための重要なセンスであったと考えられるのです。さればこそ、石垣(石積)を施される箇所は城内での限定された特別仕様となり、パワフルな巨石の存在感もまた城郭の空間意匠の個性に受け継がれたのでした。

「大石使用(菱ノ門東方石垣/屈曲部)」

 姫路城の正面玄関。城内の二ノ丸への進入路を遮るように、優美な楼門の「菱ノ門」が前方に立ち塞がっており、そこから東へ長く伸びる石垣には、多数の巨石が組み込まれていました。城内見学のルート設定の関係から、一般に注目されることの少ない場所ですが、実は知る人ぞ知る姫路城内でも稀有な石垣の見所なのです。大坂城の事例を挙げるまでもなく、圧倒的な巨石は築城者の権威を見せつける最強の視覚効果だと言えます。しかし、ここでは巨石使用の石垣について、先に紹介した置塩城の事例を参考に、城郭の原点にも通底するその造形感覚について、もっと自由に想起しておきたかったのです。

 城山に石垣が本格的に用いられるのは、戦国時代終りの16世紀後半のこと。石を加工し積み上げる在来の技術力をベースに、当時進行しつつあった織豊政権の城郭スタイルが大きく影響しました。石垣を身にまとった新城の光景は、恒久なるものへの荘厳さのイメージを見る者の脳裏に深く印象付けたことでしょう。本来的には、山中に活動拠点の削平地を確保しつつ、斜面崩壊を防止する護岸の工法として、【石】積みが発達していく起因の経緯があったと思われますが、ともあれ、その場限りの臨時施設に終らない確固たる永続施設としての存在感が、当時の城郭づくりには求められていたと言えます。

 少し以前、ここ石垣の謎について姫路市内の中学生と研究を行ったことがありました。彼等・彼女なりに遺構と真摯に向き合う姿勢が頼もしくもあり、対応したこちらも嬉しくなりました。そして、次のようなユニークな意見が寄せられたのです。

 (1)石が抜かれないようにするため、大きな石を使用した。

 (2)大小の石が不規則に組み合わせて、容易に登れない工夫とした。

 (3)長塀の下の石垣なので大きな石を多く使い、地震に強い構造を期した。

 (4)大きな門の近くに使用して、城主の財力や偉大さを見せつけた。

 (5)石垣構築技術が未熟なため、大きな石を並べて小さな石を適当に埋めている。

 (6)京都のお寺のように“わび・さび”の趣を出した。

 (7)小さな石の上に大きな石を載せ、石垣の強度を高めている。

「一乗谷遺跡(下城戸の石組み)」

 ところで、城郭の石垣構築に発展する前提の作業行為として、寺院や庭園の造成工事との関連性が先学より既に指摘されており、(1)や(6)の意見で見られる中学生の感覚も確かに評価できるところです。越前国(今の福井県)の戦国大名/朝倉氏の本拠地であった一乗谷遺跡は、発掘調査の成果から居館や町屋などの史跡整備が進められていますが、城下町の入口を仕切る「下城戸」の石組みには魅了されます。ここは、谷に展開する城下町の防御正面を土塁で備えたもので、喰い違いの屈曲通路の限定部分に巨石を積み上げ、進入する者の視線を強烈に意識して出迎えているのでした。

 城郭の石垣というより、庭園の石組みを思わせる造形に作庭技法の系譜のようなものが感じられ、巨石の見せ方にもどこか精神的な趣があります。例えて言うなら、〝凄い物を見せて驚かせたいとする「馳走(ちそう)」〟の表現とでも申せましょうか。巨石の居場所は本当に奥が深そうです。