城跡には石垣の風情がよく似合います。眼前に立ち現れた【石】壁の威圧感。近づくものを寄せ付けない力強さの造形は、見る者に強烈な印象を与えます。何はともあれ、【石】という堅くて重厚な素材自体が、厳格な防御ラインとしての質感を高めているのですが、敢えて【石】を積み上げるという非常にハードな作業を伴うことに、石垣に託された施設永続への願いが感じ取れるのです。そもそも、特別な場所を守り固める石垣に寄せる人々の思いとは、いかなるものだったのでしょうか。姫路城に組み込まれた【石】の一つ一つに、その理由を尋ねてみる価値はありそうです。

  さて、城郭に【石】を使用することの最大のメリットは、やはり堅固さの維持に求められると思われます。過酷な気象条件に耐えながらも、与えられた望ましい形状を出来るだけ後世に保ち続けことが期待された石垣。おそらく人間の尺度を超えた時間軸の感覚が、畏敬の対象となってそこに映し出されているのでしょう。あたかも歴史の痕跡を顕彰する石碑のごとく、見る物を過去の時空の連想へと誘う【石】の造形。石垣がささえているのは、守り伝えたい場所への思いと、そこで為された物語の記憶なのでありました。

「姫路城内の転用石(姥ヶ石)」

 姫路城内の一角、乾小天守の北面石垣の中にその【石】は置かれています。石臼を半分に割った30cmほどの小振りな石材で、通称は「姥ヶ石」。築城時の説話(築石献上)を身にまとった不思議な【石】とされます。城内の石垣にはこの他にも、石棺や五輪塔などの転用石が組み込まれている状況を目にすることができるのですが、それにしても異質な雰囲気を漂わせています。江戸時代から言い伝えられた由緒正しい説話でもなく、出所も依然として謎を秘めたままです。仮に或時点で登場した後出の物語であるとすれば、史実とは異なる作為の情報イメージとして、別の角度から検証しなければなりません。

他所で使用していた【石】を運んできて、城郭の築石にしたものを「転用石」と言います。ことに何百年前の古墳の石棺や、仏教関連の石塔類を城郭構築に用立てるにあたり、旧来の使途の否定とも見なせる、【石】に対する価値の大転換が認められ、奇異な場面に遭遇した者の戸惑いは隠せないのでありました。単なる石材の不足では片付けられない理由が、別に用意されるべきではないのか。敢えて石垣に転用することの意味(時代が城郭に何を求めたのか)について、文化史の立場から捉え直してみる必要があるでしょう。

〔※ 転用石の説明としては、築城時の石材不足を補う調達事情以外に、新時代の到来を印象付けるための恣意的なパフォーマンス使用であるとか、地鎮や除災といった真摯な呪いの意味合いを見出すことも可能です。なお、石臼を組み込む意味については、構造上にかかわる必然の工法というより、職人の間で承知されていた堅固な石垣への願いを込めた観念的な習俗、と見なせるかもしれません。〕

「山里曲輪の石垣(羽柴・木下時代)」

  ところで、姫路城内の山里曲輪の石垣は、その古様さから黒田官兵衛ゆかりの石垣として、昨年のNHK大河ドラマ以降、当世の重要な観光アイテムとなっています。もっとも、池田輝政以前の羽柴・木下時代の石垣と想定される程度で、築城主体の詳細は不明なのですが、個々の築石が不揃いな野面積であることや、石垣の隅角に見られる発展途上の算木積が妙に初々しく、この城に石垣仕様が持ち込まれたばかりの状況を窺わせます。また、石垣が地形に合わせて鈍角に折れているのも、この段階ならでは個性的な特徴です。

  城山に石垣が本格的に用いられるのは、戦国時代終りの16世紀後半のこと。石を加工し積み上げる在来の技術力をベースに、当時進行しつつあった織豊政権の城郭スタイルが大きく影響しました。石垣を身にまとった新城の光景は、恒久なるものへの荘厳さのイメージを見る者の脳裏に深く印象付けたことでしょう。本来的には、山中に活動拠点の削平地を確保しつつ、斜面崩壊を防止する護岸の工法として、【石】積みが発達していく起因の経緯があったと思われますが、ともあれ、その場限りの臨時施設に終らない確固たる永続施設としての存在感が、当時の城郭づくりには求められていたと言えます。

〔※ 山里曲輪の古様石垣は2段の石垣となっています。高低差のある上下二つの曲輪の外縁を、各々固定・強化しようとした結果の姿なのですが、高石垣に集約された後世の城郭にはない空間造形の根本原理が感じられます。剛健な外観と土留めの機能の両者を合わせもつことで、以後の城郭観をリードしていく石垣は、改修を加えながらの時宜に応じた様相の展開を見せる中、姫路城内に秀吉ゆかりの古様石垣を敢えて温存しようとした築城側の思いは、もっと注意深く検証してみなければなりません。〕 

「天守南面の石垣(池田時代)」

 姫路城天守の石垣は、池田輝政の構築以来の400年の歴史を今も刻んでいます。城内の備前丸(本丸)に入ると、白く巨大な天守が立ち上がった威容で圧倒されますが、その際、是非とも石垣の方にも目を向けてみてください。ちょうど地上から2~3mのところを境に、黄色系の凝灰岩を主体とする石垣の表面において、下方が暗く黒ずんで見えるという色調の変化が認められる筈です。

 この現象は、天守の最下重の屋根とその下の石垣の位置関係がもたらしたもので、軒先から垂れる雨の滴が経年の作用を及ぼし、落下する部分に石垣の変色をもたらしながら、実に400年の環境差(雨の当たるところと、屋根に守られていたところ)を着実に記録し続けていたというわけです。雨天の少ない瀬戸内の気候にあっても、さすがに400年の累積は現況に痕跡を留めます。400年とはどういうスケールの長さなのか。時の経過を実態の感覚として知りたければ、天守の下の石垣にそっとお尋ねください。