奈良時代を中心とした仏教関連の奇譚を集めた『日本霊異記』。その中に、城郭史を考える上で以前から気になっていた一つの説話があります。〔上巻-第三十二「三宝に帰信して衆僧を欽仰し、誦経せしめて、現報を得し縁」〕

 神亀4年(727)のこと。聖武天皇が狩猟をしていたところ、民家に逃げ込んだ鹿を殺した住民らが罪に問われ、平城京内に伽藍のあった大安寺の丈六仏へ、必死の思いから或る願い事をするのです。

 < 私たちが役所に向かう際には、寺の南門を開いて、仏様を拝めるようにしてください。また、役所に行き着くまでの間、鐘を鳴らし続けてください・・・ >

 すると仏様への功徳が通じたのか、天皇の慶事による俄かの大赦が発せられ、住民らは刑罰を蒙らずに帰宅することが出来たのでありました。切なる願いを込めた僧侶の読経が都に響き渡る鐘の音を介して、この世と仏の世界を結び付けたのでしょうか・・・

 何とも不思議な話ですが、とりわけ私が興味を覚えたのは、大安寺の南門を開くことの意味についてです。開門することにより、寺院内に安置された仏様との〝結縁〟が物理的にも心理的にも成立しました。しかも、南門を経た外からの拝礼は、寺内に準ずる特殊な隣接空間としての〝門前〟の存在感を強く意識させるのです。

 回廊に囲まれた寺院の境内[けいだい]や、塀や堀で仕切られた城郭の曲輪[くるわ]など、外部とは異なる場の創出のために結界された空間は、境界線の施設によって内部の特定・保全が図られ、空間相互の意味合いの差を明確にします。ただし、内外を結ぶ連絡の機能をそこに併存させたい場合は、門などの必然の開口部が出入を司るために用意され、閉鎖と開放の位相に伴う空間構造の認識について、少なからず影響を与えるのでした。

 開門された場合は、『日本霊異記』の話が示すように、内奥から発せられる高位のパワーが、まさにその一点から満ち溢れて外界へと広がっていきます。そして、仏縁の享受を強く意識させる〝門前〟には、内部に準拠して隣接する副次的な空間としての独自の性格を、さらに延長・増大させていくものと思われます。さればこそ、境内の開口(門)から真直ぐに伸びる参道の形が、〝門前〟空間として人々の意識のベクトルに導かれるまま、大地にその姿を現すことになるのでしょう(鳥居は参道の動線をピンポイントで仕切ることにより、〝門前〟の表象化に貢献しているわけです)。

「播磨国総社の門前(当館蔵:高橋コレクション)」
「兵法雄鑑(内升形と角馬出)当館蔵」

 ところで、平安時代の『今昔物語集』にも〝門前〟のことを題材にした説話があります。巻二十八-第三十七「東の人 花山院の御門を通る語」がそれで、東国から都にやって来た人が、花山院の御所の 〝門前〟を、馬に乗ったまま通過しようとしたので咎められたというもの。そこでは身柄を拘束されてしまうほど、〝門前〟での行動規範としての〝礼〟に対する確固たる意識を読み取ることができました。今日でも寺社の〝門前〟を通り過ぎる際に、境内正面に向かって一礼される光景を目にすることがありますが、内と外が体感的にも繋がっている開門時ならではの作法と言えるでしょう。

 つまり、〝門前〟が内部空間に付随する〝礼〟を求められるエリアだとすれば、そこに新たな空間構造のモデルが浮かび上がってくるのです。城郭の縄張理論では、虎口[こぐち]と称される曲輪の出入口を防御上の要所として、外からの視線の遮断や横矢[よこや]の側面攻撃に配慮しつつ通路の動線に折れを施し、直進を避ける軍事的な工夫を考案するのですが、近世城郭では馬出[うまだし]と枡形[ますがた]がその代表例でした(なお枡形については次回のコラムで採り上げるとして、ここでは馬出の空間を見ていきます)。

 曲輪の開口部の前面に陣地のような小空間を展開させた虎口の形態、それが馬出です。囲郭の塁線が円形の場合は丸馬出、「コ」字形の四角いものは角馬出に分類されます。そのポジション取りからして、開口部正面前方の保護と、門外への出撃時の拠点機能を有することは容易に窺えますが、城郭には戦時運用と平時運用の双方があり、とくに後者の立場から先程来の論議(〝礼〟の意識に規定された〝門前〟の性格)を思い起こせば、馬出の形状はまさしく、その空間化の表現に他なりません。

 〔※ 甕城やバービカンなど、外国の城郭には洋の東西を問わず丸馬出と同形の縄張を見出せるので、軍事機能の普遍性について思いを巡らすことが可能ですが、座標計画に基づく角馬出の登場には、むしろ別概念からの経緯を追求してみたいところです。〕

「広島城の手拭い画(当館蔵:鳥羽コレクション)」 
※ 画面中央に天守のある本丸、堀を挟んだ右側に馬出の形態の二ノ丸

 毛利輝元は父祖伝来の山間部の郡山城を離れて、豊臣大名に相応しい新たな居城としての広島城を計画。かつての平安京の大内裏跡地に構築された天下人の聚楽第の縄張を参考に、秀吉の城郭プランに類似した同系の空間を意図的に採用しました。それは、主郭である本丸とその開口部に付随する馬出(二ノ丸)をワンセットにしたもので、馬出には文字通り、厩[うまや]が設置され、本丸の入る直前の〝礼〟に則った(下馬して身支度を整える)〝控えの間〟としての役割を見て取れます。

 これまでの城郭史の研究では、戦時運用における軍事機能の優劣を類型化して、個別の城郭の評価を判断する大原則の傾向がありました。しかしながら、聚楽第から広島城へと継承された〝門前〟における〝礼〟の意識は、政治の場としての新時代の城郭に必須の、要素(舞台設定)を求めたのでした。そこでは、動線の折れの数や喰い違う塁線の形状に帰結しない縄張理論が展開し、居城の〝格式〟さえ演出したのです。

 因みに古代の宮都では、政治の中心となる「朝堂」の〝門前〟に、役人の〝控えの間〟である「朝集殿」が馬出のような区画内に配されました。その伝統的な空間構造の様式が後世の城郭の形に影響を与えたとすれば、感慨深いものがあります。城郭の開口部(虎口)には、戦時の軍事シミュレーション以外の別ルートの価値基準が存在することを、この際しっかりと認識しておくべきだと思います。