ひょうご歴史研究室共同研究員 島 田  拓

 私は、上郡町教育委員会で文化財を担当しており、平成28年度から「赤松氏と山城研究班」に参加させていただいています。専門は考古学で、発掘調査を行い出土資料から赤松氏の実態に迫ることができればと思っています。

 上郡町は、中世の守護・赤松氏の本拠地であった「赤松」集落がある町です。「赤松」の名を世に知らしめたのは、赤松氏中興の祖とも言われる赤松円心(則村)で、鎌倉幕府打倒に動いた後醍醐天皇に味方して兵を挙げたことに始まります。「赤松」は赤松発祥の地なのです。

 余談ではありますが、赤松氏は嘉吉元(1441)年に赤松満祐が、将軍・足利義教を暗殺して嘉吉の乱を起こしましたが、敗れて自刃し、赤松宗家は滅んでしまいます。しかし、その後赤松氏の末裔は有馬氏となり、九州・久留米藩の有馬氏として幕末まで名跡を保ちます。私は福岡県久留米市の出身で、「赤松末裔の地」から「赤松発祥の地」にやってきて、赤松氏の調査・研究を行うことになりました。不思議な縁があったものです。

 赤松居館跡は、現在でも小字名に「御屋敷」という地名が残り、江戸時代後期の村絵図には「円心屋敷」という区画が描かれるぐらい地元集落の人たちには特別な空間であったことが分かります。近代になって、小学校や幼稚園が建設されますが、統廃合が進み、現在は地元住民の健康広場として利用されています。赤松氏は、集落内の高台で、集落全体を見渡すことができ、眼前には千種川を望む非常に良い場所に館を構えていたのだろうと想像が膨らみます。また居館跡は、東西約107m、南北約70mを測り、ちょうどサッカーのフィールドとほぼ同じ平坦地が広がっています。

 それほどの平坦地ですので、どれぐらいの「御殿」があったのかと思いますが、実際に発掘調査を行うと、現在目に見えている地形とは異なるものであることが分かってきました。

 調査前の地形測量で、居館跡は北東側から南西側に緩やかに傾斜していることは分かっていましたが、実際の地形は居館跡中央部からに南西部に向けて大きく落ち込んでいく地形であることが判明したのです。また、中央部から東側は遺構の残存状況が悪く、遺構の上部は削られてしまっている可能性が高くなりました。つまり、現状で見えている平坦地は、北東側から東側の範囲を削り、南西側を埋めて造成したものと考えられるのです。

 発掘調査では、3時期の遺構面を確認しており、この造成は第2面を埋め立てて第1面を造り出していることが分かりました。

 第1面では礎石の柱列を3列検出しました。いずれもほぼ平行に東西方向に伸びる柱列です。残念ながら同一の建物とは認定できませんでしたが、礎石を用いる建物は、当時一般集落ではほとんど見られないことからも、特別な建物であったことが推察されます。

 また、土師器皿が大量に出土した廃棄土坑や溝が見つかりました。土師器皿とともに出土した炭化物の年代測定から、溝は14世紀後半の年代、廃棄土坑は14世紀末の年代が測定されていますので、第1面は14世紀後半から14世紀末と考えられます。

 第2面では、大規模な土器溜を検出しました。複数の調査区にまたがっていますが、合計すると東西約6.5m、南北約11m以上の土器溜であることが判明しました。土器溜からは大量の土師器皿が出土しました。土器溜からの出土遺物としては、実に9割以上が土師器皿です。炭化物の年代測定からは、14世紀前半から中ごろの年代が測定されています。

 第18回のリレートークで、中井研究員が土師器皿の大量出土については、武家儀礼と寺院での法会の可能性を示唆していますが、私は武家儀礼に使用したと考えています。つまり、検出した遺構は赤松氏の館に関連するものと考えて良いと思います。

 それを裏付ける根拠は希薄です。中国陶磁器など豪華な遺物の出土がほとんどなく、壺や甕、火鉢などの生活用品も少ないです。しかし、全く出土していないわけでもありません。

 また、近世後期の段階で「円心屋敷」と伝えられていたことは、かつて赤松氏の館であったことを示していると考えてよいと思います。寺院に関連するのであれば「○○寺」や「○○院」といった地名で残ったり、周辺にそのような地名が残ると思うのです。

 発掘調査では、赤松氏の「御殿」は発見することはできませんでしたが、どこかにその遺構が眠っていると思います。「御殿」の発見は、今後の課題の一つです。

 赤松居館跡の出土遺物については、第2面と第1面の土師器皿を比較すると、一つの特徴が浮かび上がってきました。「京都系土師器皿」と呼ばれる皿の量が、第1面の方が多く、第2面の方が圧倒的に少ないのです。

 「京都系土師器皿」は、その名にあるように、京都で使われていた土師器皿と同じ作り方を用いて地方で作ったり、形だけを模して地方で作られた土師器皿の事を指します。大抵は白色系の色調をしています。そして「京都系土師器皿」は、地域的に京都に近かったり、守護のような権力を持つ人物の勢力下では出土割合が多い傾向を示します。

 この「京都系土師器皿」の出土量が何を物語るかは、今後さらに検討を深める必要がありますが、私は一つの可能性として第2面の遺構が、赤松円心の時代のものではないかと考えています。

 赤松円心は元弘2(1333)年の挙兵後、建武の新政を経て室町幕府の侍所所司となりましたが、それまでは播磨国佐用庄地頭職だったとされてます。地方の一武士だったのです。

 第2面の土器溜は、まだ地方武士時代の赤松氏の館のため、京の「匂い」のする土器が少なく、大規模な造成がなされた後の第1面の遺構からは、京都でも活躍した赤松氏として、「京都系土師器皿」が増えるのではないかと思います。

 西播磨の中世の資料はそれほど多いわけでもありませんが、中世遺跡の発掘調査はここ数年で比較的増えてきました。上郡町内だけでも山野里宿遺跡や赤松遺跡、栖雲寺跡、宝林寺遺跡などがありますので、さらに詳細な研究を重ねて、赤松氏の実態を解明していくことができればと思います。