ひょうご歴史研究室共同研究員

  中井淳史

 平成30年度より「赤松氏と城館」研究班に参加しています。現在研究班がとりくんでいる赤松氏居館跡や城山城跡は、以前の職場の研究プロジェクトでも注目していた遺跡で、私もその一員として何度か現地を踏査したことがありました。当時は諸般の事情から本格的な調査には至らずに終わってしまいました。10年余の時を経て思いがけずふたたび関わらせていただくことになって、不思議な因縁を感じています。

 さて、私の専門は考古学で、中世の土器・陶磁器を研究しています。具体的には土師器(かわらけ)という素焼きの土器皿をずっと追いかけています。この焼き物は中世遺跡でもっとも多く出土する遺物のひとつで、地域や遺跡の性格を問わず大量に出土します。耐久性に限界があり、使用のサイクルが短いために、遺跡や遺構の年代を推定する「ものさし」として注目されてきました。一方で、大量に廃棄された事例がしばしばみつかることから、武家儀礼の道具として使われたとする意見もあります。

 赤松氏居館跡の発掘調査では大量の土師器が出土しました。この発見はいろいろな意味を持っています。ひとつは地元の土師器編年を検討する手がかりです。一般的に土師器の年代は、微細な形状の変化からたどる編年に基づき検討されるのですが、西播磨地域はこれまで調査例が少ないこともあって、土師器の変遷過程があまりわかっていません。一緒に出土した炭化物の放射性炭素年代から14世紀代と推測される今回の資料は、地域の土師器のありようを解明する良好な素材となりそうです。

 もうひとつは、遺跡の性格を考える手がかりです。これは出土遺物全体も視野に入れて検討する必要がありますが、今回の発見は一筋縄ではいきません。土師器の皿こそ多かったものの、壺や甕、火鉢といった生活用具が極端に少なく、富裕さを示す中国製陶磁器もほとんどみつかりませんでした。守護大名の居館にしてはあまりにも寂しい印象を受けるのです。土師器の大量廃棄を武家儀礼との関連でみる意見も、武家故実が定まった15、16世紀の状況から提起されたものであって、14世紀にも同様に使われていたのかどうか、まだ十分に解明されてはいません。たとえば寺院でも法会で大量の土器を使うことがありましたから、このような可能性も捨て切れません。はたして本当に守護居館なのか。赤松氏居館跡の土師器は、さまざまな疑問を投げかけてきます。

 この疑問をどう解決するか。出土した遺物に語ってもらうしかないのですが、昨年来の新型コロナ問題は人と人との交流だけでなく、人とモノの交流すら阻んでいます。「モノをして語らしめる」とは考古学の金言ですが、流行がおさまり、モノとの対話の機会を一刻も早く得られることが待たれる現在です。