コロナ感染の勢いが止まりません。ついに第4波となり、兵庫県をはじめ緊急事態が宣言されていました。「三密」を避けるということで調査に出かけることが難しい昨今ですが、近場ということで5月半ば、和歌山県の友ケ島に出かけました。地ノ島と沖ノ島などからなる友ケ島は、瀬戸内海国立公園に位置し、夏場のキャンピング・海水浴場として有名ですが、歴史的には要塞の島として知られています。明治政府が紀淡海峡防備のために築造し、第2次世界大戦まで使用された砲台跡が5つも残され、最大の第3砲台跡は砲座と砲座の間がトンネルで繋がれています。

 日本地図を広げると、その立地がよく分かります。沖ノ島と対岸の淡路由良との間は明石海峡とほぼ同じ3700メートルで、古来「由良の瀬戸」と呼ばれています。したがって要塞は、由良にも及び、(なる)山・高崎・()(いし)山にそれぞれ砲台が築かれ、由良には司令部が置かれていました。

 その起点は、幕末の「摂海防衛」にありました。プチャーチンの指揮するロシア軍艦の突然の大阪湾侵攻が、湾全域の軍事要塞化の契機となり、各地に台場が築かれたのです。近年、若い人々の間で台場研究が盛り上りを見せています。

 しかしわたしの関心は、台場ではありません。2020年8月、由良に赴き、渡船で成ケ島に降り立ち、州浜を歩いていると突如、眼前に友ケ島が現れ、驚いたことに起因しています。つぎは、対岸から淡路由良を見たいと思ったのです。

 成山から高崎に伸びる州浜は、成ケ島と呼ばれていますが、この島、「日々に成長している」という説明を現地で受け、驚きました。島が、潮流の影響で成長するとは・・・

 調べて見ると実際、江戸時代と現代では地形が大きく変わっているのです。現在は図のように、北の成山と南の生石公園の傍に開かれた二つの川口、新川口と今川口を船舶が運航していますが、名前の通りそれは、新たに開削されたものです。『洲本市史』(昭和49)によると新川口は明和3年(1766)、今川口は文政6年(1823)の開削です。

 それ以前、成山は淡路島本土と繋がっていたのです。なぜそれを切断し、川口を開いたかといえば、もともと州浜の真ん中にあった川口が、潮流によってもたらされる土砂・砂礫の堆積によって埋まってしまい、島の状態になったからなのです。名付けて(なる)ケ島とは言い得て妙。

 もはやその景観は、古絵図でしか確かめられませんが、『淡路古絵図』(淡路文化資料館蔵)によれば、由良港への入口は東西に開かれた一カ所のみ。かつてはそこを、森水軍の船団や菱垣廻船などが航行していたのでしょう。

淡路古絵図(部分) 淡路文化資料館蔵

 この地形の変化の背景には、名勝「鳴門の渦潮」を生み出す潮流の力があるのではないか。淡路島が「国うみの島」とされる状況は、いまも続いているのではないか―妄想が膨らみます。