館長に就任した翌年の平成27年(2015)4月、ひょうご歴史研究室が開室され、館長が室長を兼ねるということから急遽、兵庫の地域史に関わることとなりました。事前に知らされていなかったので驚きましたが、歴史研究者としては本望でもありました。

 播磨国風土記・赤松氏と山城・たたら製鉄の三つの班が組織され、「ひょうご」といいながら播磨重視が顕著でしたが、新宮(しんぐう)町出身の井戸前知事のアイデアだと後に聞きました。しかし、兵庫県旧五国のなかでも播磨は大国、しかもこれまで総合的に調査研究されていると思えなかったので、個人的には納得の行くテーマ設定でした。

 なによりいい企画だと思えたのは、大学の研究者の参加を仰ぐだけでなく、県内市町の文化財課所属の職員の参加を得たことでした。市町の文化財課は基本的に埋蔵文化財行政の専門家、つまり考古学畑出身者で構成されているので、文献中心の大学研究者と組み合わされることで、文献と考古、文字と非文字の両分野の共同作業という特性をひょうご歴史研究室の活動にもたらすこととなりました。こうした制度設計と参加した研究員のご協力のおかげで、9年間に挙げた研究室の成果には顕著なものがあります。

 詳細は各年度末に発行された『ひょうご歴史研究室紀要』に譲り、ここでは私的な思い出を綴らせていただきます。

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 さて「播磨国風土記」では、ニュージーランド・ウエリントンのビクトリア大学で日本学を担当されていたロンドン生まれの女性研究者エドウィーナ・パーマーさんとの出会いが印象に残ります。手許に2019年3月24日と日付の入った写真があるのですが、ご夫婦での日本訪問の折に姫路に来ていただき、風土記班のメンバーと交流した際のものです。世界で初めて「播磨国風土記」の英語版を出版され、博物館に献本していただいたことが機縁となっての出会いでした。 

 その折、「必ずもう一度、姫路に来ていただき、公開の場で英語版の成果を語っていただく機会を設けます」と約束しました。しかしその後の世界的なコロナ感染の結果、その機会は長期にわたって失われました。その間、令和3(2021)年11月、風土記研究班共同の成果である『「播磨国風土記」の古代史』が出版され、空港便で送ったところ、お礼のメールで、収載された論文を逐一、英訳したいという提案をいただきました。そして今年1月、ついに完了し、3月には研究室のホームページに全文掲載の予定です。パーマーさんの長期にわたる無償のご尽力には、感謝の言葉もありません。

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 「赤松と山城」では、館長就任とともに、佐用町に所在する()(かん)城跡の国史跡指定に向けた事業に関わり、平成29(2017)年、史跡指定されたのが強く印象に残ります。館長就任以前に10年間、文化庁の進める国史跡指定の委員会に属していたことから、市町にとって国史跡の指定が、どれほど大きな目標であるかを理解していましたが、指定を受ける側として再認識しました。その間の継続した努力の大切さと、その瞬間の喜びは、当該市町の首長・教育長さんが一番、強く認識されているでしょう。

 西播磨はとりわけ山城が多く、歴史遺産を地域再生に生かす取り組みが進んでいることから、研究室の活動を通じて、市町の展開する文化財保護活動に接する機会がしばしばありました。地元の人々との交流の機会といっていいのですが、その充実感は、現地訪問の機会を増やすこととなりました。利神城跡でいえば、史跡指定前の登頂を数え、この9年の間に4回登りましたが、今年1月には、史跡として(とくに石垣を)整備・活用する上での戦略を検討するため、公開用と想定されているルートを初めて歩いて上りました。

 その過程を話題のドローン撮影が同行しましたが、尾根を歩くこと1時間余り、373メートルの天守丸に立つと360度の視野が得られます。何度来ても、この瞬間には疲れが吹っ飛びます。眼下には佐用川と出雲街道に挟まれてL字に民家が連なる平福の町が見下ろされ、足下の単線路を智頭(ちず)急行の列車が玩具のように走って行きます。

 この達成感をどう安全に市民に提供するか、地球温暖化や地震といった環境変化の下で、露出した石垣をどう守っていくか、公開に向けた難しい課題への取り組みは続きます。

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 「たたら」とは、伝統的な和鉄生産のことを指し、大きな炉を構えた生産拠点は「たたら場」「鉄山」と呼ばれています。宍粟市には県指定の天児屋(てんごや)鉄山跡があり、宍粟(しそう)市出身の学生が書いた卒業論文を通じて知っていました。その生産遺跡は西播磨に点在しており、中世から近世への技術的発展も追えるということで考古学的に立てられた課題でしたが、途中から博物館資料の中に関連する古文書が複数あることが分かり、文献面での成果を促進しました。

 それでも「たたら」はやはり技術。地下構造を含む大きな生産拠点という認識は、文字面では覚束ない。それを補ったのは、たたら研究の先進地島根県雲南市の菅谷(すがや)たたらの視察や、島根県安来市の和鋼(わこう)博物館の展示見学などでした。くわえて、たたら研究の先覚者がいることを知ったのも大きな収穫でした。

 文化遺産は、人から人に受け継がれていくもの――という命題は、研究室の三つの課題に共通するものですが、その一時期、あるいは一コマを、わたしたちひょうご歴史研究室が担ってきた9年間と言えるでしょう。3月末には館長退任とともに室長の重責からも離れますが、9年間の足跡は、必ず誰かに受け継がれていく――そう信じて、その日を迎えたいと思います。