西播磨の山々と小野豆
播但国境付近を除けば、西播磨(にしはりま)にはさしたる高峰はない。千種川(ちくさがわ)の流域にある山々は、どれもたおやかな里山である。しかし里山であっても、幾重にも重なる尾根は、時に深山幽谷の姿をほうふつとさせ、また時には高原地帯のような景観を見せてくれる。
久しく開墾されてきた山では、思いもよらないところで小さな里に巡り会う。雑木林を抜け、急な谷を詰めた奥。よくこんな所を開墾したものだと、感嘆せずにはいられないような場所である。
それにしてもどこの里も穏やかである。都会の騒がしさを離れ、時間もゆっくりと流れているようだ。無論、都会の生活からはわからないような苦労も多かっただろうけれど。
小野豆(おのず)は、そうした山里のひとつである。
用語解説
平家塚とジャンジャン穴
小野豆の村は、上郡町(かみごおりちょう)の東部に広がる300mほどの山地にある。県道姫路上郡線で、たつの市から椿峠(つばきとうげ)をこえると、ほどなく北側に宿の集落が見えて、その道のわきに、「小野豆平家塚」と書かれた小さな看板が立っている。
案内の通りにたどると、道は里を離れてどんどん山奥へと入ってゆく。何度か急なカーブを回り、坂を上り詰めたところに、小野豆の村がある。初めてこの村を訪ねたとき、「隠れ里」という言葉が浮かんだ。今でこそ舗装道路があるが、わずかな杣道(そまみち)が通るだけだったころには、ふもととの往来でさえ大変な苦労だったことだろう。なるほど、源氏の兵士たちも、これほど奥に村があるとは思わなかったに違いない。
村を抜けて、さらに登った尾根の上に立つ大きな五輪塔が、平家塚である。こけむした塔の側面には、南無阿弥陀仏の文字が一つずつ刻まれている。このあたりからは、南西に眺望が開けている。到着したのはまだ早朝だったので、ゆったりと流れる霧がまるで雲海のように見える、素晴らしい光景を目にすることができた。
平家塚は今も村の人たちが大切に守り続けていて、毎年10月の第1日曜には、平家祭りが催されている。
ジャンジャン穴へは、小野豆村の中ほどから家の間を抜けて、階段を登ること5分ばかり。整地された山腹に古墳の入り口のような石積みがあって、これがジャンジャン穴なのである。言い伝えによれば、平経盛(たいらのつねもり)と家来たちはこの穴に隠れ住んでいたという。ジャンジャン穴という名の由来は、穴の奥に向かって声をかけると、「ジャンジャン」と響くからだという。
この穴自体は2003年に、地元の方々によって復元されたということだから、元々どんな形であったのかはわからないが、落人たちが住むのであればこうした場所であったろう。
用語解説
富満の万勝院
万勝院(まんしょういん)がある富満(とどま)も、まるで隠れ里のような、下界を離れた別天地である。小野豆からは広い谷筋ひとつを隔てた北にある。尾根の上にある境内はボタンの花で有名で、季節には観光に訪れる人も多い名所である。
奥の院はその下の谷にある。ボタンの花が植え込まれた境内とはうってかわって、杉木立に囲まれ、森閑とした空気に包まれている。厚くこけが育った地面に、紅葉したイチョウやカエデが幾枚か散り、風の音と鳥の声だけが聞こえていた。
用語解説
羅漢の石仏と感状山城
相生市(あいおいし)は、上郡町からは山一つ隔てた東にある。相生湾で5月におこなわれるペーロン祭が有名で、海に面した町の印象が強いけれども、県道姫路上郡線(旧山陽道)から北の市境の三濃山(みのうさん)までは、田園風景と里山が広がっている。
その三濃山から感状山(かんじょうさん)へとのびる尾根に抱かれるように、羅漢石仏群(らかんせきぶつぐん)がある。山腹にせり出した巨大な岩盤に覆われた岩窟(がんくつ)に、釈迦如来(しゃかにょらい)、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)のほか、十六羅漢(らかん)の像が並んでいる。室町時代に作られたと言われているが、詳細はわからないことが多いようだ。
岩窟の前には、樹齢500年を越えていただろうと思える、巨大な杉の切り株があった。この石仏を刻んだ人が植えたのであろうか。今はその切り株の中に、二代目の若杉が育っている。
その東にある尾根の頂上付近が、赤松氏(あかまつし)の城、感状山城である。国史跡にも指定されている室町時代初期の山城で、平野を見下ろす険しい山であるが、今は登山路も整備されている。
この周辺一帯は、西播磨丘陵県立自然公園に指定されており、いろいろな施設も整えられている。歴史や伝説とともに、豊かな自然を訪ねることもできる。