【千種川】ちくさがわ

 西播磨を流れる河川。兵庫、鳥取県境の三室山に源流をもち、西播磨西部を南流して瀬戸内海に注ぐ。全長67.6km、流域面積は752平方キロメートル。上流部の宍粟市千種町付近では、古代から製鉄がおこなわれ、河口の赤穂市では近世以降製塩業が発達した。環境省が定めた名水百選に選ばれた清流である。

 
【平経盛】たいらのつねもり

 平安時代末期の武将(1124~1185)。平忠盛の子、清盛の異母弟である。保元の乱の後、安芸、常陸、伊加などの国守を経て若狭守となる。以後、追捕使や朝廷の守護の任にもあたる。源氏との戦いがおこると、一門とともに西国へ落ち、1184年の一ノ谷の戦いで、息子の経正、経俊、敦盛らを失った。壇ノ浦の戦いで入水(じゅすい)。

 
【五輪塔】ごりんとう

 墓、または故人を供養するために建てられた塔の一種。多くは石製。下から順に、基礎、塔身、笠(かさ)、受花(うけばな)、宝珠の五段に積み、それぞれが、地、水、火、風、空をあらわす。密教に由来し、平安時代中ごろから造られるようになった。

 
【万勝院】まんしょういん

 上郡町の富満高原(とどまこうげん)にある真言宗の寺院。正式には大通宝山富満寺(おおつぼさんとどまじ)万勝院という。富満寺万勝院は、奈良時代行基によって創建されたと伝えられるが、嘉吉の乱で荒廃し、その後赤松氏によって復興された。江戸時代には池田輝政によって6院33坊が造られて、富満寺と称したが、明治時代に5院が廃され、万勝院のみが残ったという。空海にもゆかりの寺とされる。境内裏手の山の斜面にボタン園が設けられ、牡丹寺と呼ばれる。

 
【瓜生羅漢石仏群】うりゅうらかんせきぶつぐん

 相生市矢野にある石仏群。羅漢山ふもとの岩陰(幅7.7m、高さ5m、奥行き4m)に、釈迦三尊像(釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩)を中心として十六羅漢の石像が安置されている。伝説では、朝鮮の僧恵弁・恵聡(えべん・えそう、ともに『日本書紀』に記された飛鳥時代の渡来僧。恵弁は、蘇我馬子の仏教の師であったとされる)がここに隠れ住んで作ったというが、実際の製作年代は室町時代と推定されている。

 
【山陽道】さんようどう

  奈良時代に政府によって整備された、平城京から大宰府に至る道。古代では最大規模の街道で、幅6~9mの道路が直線的に設けられていた。平安京に遷都後は、起点が平安京となる。外国の使節が通行することが予想されたため、同様に整備された七街道の中で、唯一の大路に格付けされて最重要視された。途中には56駅が設けられていた。

 江戸時代には、古代山陽道を踏襲して西国街道が整備され、現在の国道2号線も一部で重複しながら、これに沿って設けられている。

 
【感状山城】かんじょうさんじょう

 相生市森にある室町時代の城跡。14世紀初めに赤松則祐が築城した。標高240mの感状山頂を中心として、梯郭(ていかく)式縄張をもつ山城である。嘉吉(かきつ)の乱(1441)で廃城となったが、15世紀後半に赤松義村が再興した。

 感状山城の名は、新田義貞の軍勢を50余日にわたり足止めをした功績により、赤松則祐が足利尊氏に感状を授かった事に由来する。中世山城の状態が良好に残されており、国指定史跡となっている。

 
【赤松氏】あかまつし

 中世播磨の豪族。赤松は佐用荘内の地名。赤松則村(円心)が足利尊氏に属し、新田義貞との戦いに勝利して守護に任じられた。後には備前、美作の守護にもなり、幕府の四職(ししき、室町時代の武家の家格。三管・四職と総称する。三管とは管領に任じられる、斯波(しば)、細川、畠山の三家、四職とは侍所頭人に任じられる、赤松、一色、山名、京極の四家をいう)として室町幕府の重臣となった。

 しかし1441年に赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍足利義教を殺し、幕府軍の攻撃を受けて一族は没落した(嘉吉(かきつ)の乱)。その後赤松政則が再興したが、家臣であった浦上氏、宇喜多氏に領国を奪われ、さらには関ヶ原の戦いで西軍に属した赤松則房が戦死。一族は断絶した。

 赤松義則(1358~1427)は、室町時代の武将。赤松満祐は義則の嫡男、政則は玄孫にあたる。