800年以上前、源氏(げんじ)と平氏(へいし)がはげしく戦った時のことです。

平清盛(たいらのきよもり)の弟、三位少将経盛(さんみのしょうしょうつねもり)は、名高い歌人であり、笛や管弦(かんげん)の名手としても知られた人でした。清盛が高い位に上りつめてからは、追捕使(ついぶし)として、治安に目を光らせることになりましたから、武勇の人でもあったのでしょう。

しかし、繁栄(はんえい)をきわめた平氏も、源氏との戦いがはじまると敗北をくり返すばかりです。再起をはかった一ノ谷(いちのたに)の戦いでも、激戦の末に敗れ去りました。このとき経盛は、三人の子、経正(つねまさ)、経俊(つねとし)、敦盛(あつもり)をなくします。

清盛が亡くなった後、一族を束ねる立場にもあった経盛は、さらに屋島(やしま)、壇ノ浦(だんのうら)と戦いぬきます。平氏の栄えと敗北のすべてを見た経盛の心中は、どんなものだったでしょう。老いた体にむち打って、経盛は最後の戦いにのぞみました。しかし奮戦(ふんせん)むなしく平氏は敗れ、一族の武将もあるものは討ち死にし、あるものは海へと身を投げたのです。経盛も矢傷を受け、入水(じゅすい)したと伝えられていますが、播磨(はりま)にはその後の経盛の伝説が残されている場所があります。
壇ノ浦の戦いに敗れた後、平経盛は、何人かの家来とともに、播磨国までのがれてきました。そして、上郡(かみごおり)の小野豆(おのず)という深い山里にかくれ住んだといいます。
源氏の追求は速くて、しつこいものでした。しかしさすがの源氏の兵たちも、山にかくされた小野豆の里をなかなか見つけることはできませんでした。兵たちがつかれ果てて休んでいるときです。川上から茄子(なす)と箸(はし)が流れてくるのが見えました。

「このようなものが流れ下るとは、川上に人がいるにちがいない。」
兵士たちは森をぬけ、けわしい谷をさかのぼって、ついに小野豆の里を見つけ出しました。けれども、経盛主従がかくれている場所がわかりません。その時です。とつぜん、鶏(にわとり)が鳴く声がひびきました。

その声をたよりに、兵たちはとうとう経盛主従を見つけ出してしまいました。
「私の命はかまわない。どうか家来たちの命は助けてやってくれ。」
経盛はそう言うと、自分はその場で切腹して果てたということです。

その後家来たちは許されて小野豆の地に永住し、村を見下ろす尾根の上に、経盛の墓が建てられました。今も村人たちは、平家塚と呼んで手厚くお祭りをしています。そして、経盛主従が見つかるもとになった茄子や鶏は、決して村では作ったり飼ったりしないと決めたそうです。