白滝姫が歩いた道
山田左衛門(やまださえもん)と白滝姫(しらたきひめ)が山田の里へ入るとき、都からどのような道をたどったのだろうか。もちろん伝説の話であるから、現実のとおりとは限らないが、奈良の都を出た二人は、山陽道(さんようどう)をたどって神戸までやってきた。現在の兵庫区から山田町へ向かうならば、有馬街道(ありまかいどう)を登って東の箕谷(みのたに)から入る道筋が中心であろうが、山陽道から有馬街道を登るなら、都由乃町(つゆのちょう)では少し行き過ぎている。二人がたどった道は、おそらく烏原古道(からすはらこどう)と呼ばれる道であったろう。
烏原道は、都由乃町付近から石井川に沿って烏原→鈴蘭台(すずらんだい)と山を登り、さらに長坂山の東を越えて山田里に入る。しかし道も十分に整わない古代のことである。急な坂は、二人の息を切らせたことだろう。その急坂を登る手前にゆかりの地があるということが、伝説にいっそうの現実味を与えてくれる。
用語解説
栗花落の森
兵庫区都由乃町に、白滝姫を祭る栗花落の森(つゆのもり)がある。新湊川(しんみなとがわ)の石井橋から少し山手へ歩いたところにある、落ち着いた家並みの古い住宅街の間を抜ける道。車が通れないほどの細道をたどり、さらに細い路地へ折れると、家が並んだ一角に小さな祠(ほこら)があって、2本のエノキの巨樹が、それを覆うようにそびえていた。
閑静な住宅地の中に祭られている祠は、質素だがきれいに掃き清められていて、心優しい白滝姫にふさわしく思える。かんばつに苦しむ人々を救おうと、白滝姫が湧かせた泉は、もう見ることができないけれど、耳をすませば今も水音が聞こえるような場所である。
栗花落の井
栗花落の井(つゆのい)は、山田の里の原野地区にある。山田道から、車一台がかろうじて通れる道を入ってゆくと、柵(さく)に囲まれて一宇のお堂がある。そのきれいに整備された小径をたどると、白滝姫の伝説を記した立て札があり、そのお堂の下が「栗花落の井」であった。
長方形の石組みがある井戸は、さほどの深さもない。しかし毎年梅雨のころになると必ず清水がわき出し、どんな日照りでも秋までかれることがないというのは、不思議な話である。この井戸は、主人公である山田左衛門尉真勝(やまださえもんのじょうさねかつ)の子孫(栗花落氏)によって整備され、今も大切に祭られているというから、子孫にとっても地元の人々にとっても、まさしく伝説が生きている場所である。
栗花落の井にわく水は、水路をめぐり、あたりの田を潤してきた。「白滝姫」という美しい名とともに、伝説は里人の間で息づいてきたのだろう。
用語解説
山田の里
山田の里は、南に裏六甲のなだらかな山並み、北を丹生山(たんじょうさん)、帝釈山(たいしゃくさん)の険しい山塊にはさまれた小さな盆地である。風光明媚(ふうこうめいび)な山里は、しかしのどかなだけの場所ではなかった。
山田の里を東西に横切る山田道を西へ抜けると、そこはもう摂津(せっつ)と播磨(はりま)の国境である。こうした場所柄、中世から近世にかけては、何度か争いの舞台にもなったのである。一方で山田道を通じて多くの文化がもたらされ、すぐれた文化財がいくつも残されている。
箱木千年家
山田の里の西の端、呑吐ダム(のとだむ)のそばに残されているのが、箱木千年家(はこぎせんねんや)である。もとは山田川に沿った場所にあったのだが、ダム建築にともなって現在の場所に移された。現在、日本に残されている中では最古の民家とされている。箱木家は、山田地区でも有力な家柄であったそうだが、その重厚なたたずまいは過ぎ去った時間そのもののように思えてくる。
棟が高く、軒が低いのは、古い民家の特徴である。中は土間と板間の質素な造り。土間の一角はうまやになっていて、かつてはここに牛馬がつながれていた。人も牛馬も、一つ屋根の下で暮らしていたのである。
用語解説
六條八幡神社
山田の里には、寺社が不思議なほど多い。その中でまず訪ねたのが、六條八幡神社(ろくじょうはちまんじんじゃ)であった。ここは、旧山田村13か村の鎮守である。山田道から300mほど北に入った場所にあり、山すそから村を見守っている。拝殿・本殿よりも、三重の塔の落ち着いた風格に目を奪われた。社殿わきに、他を圧するようにそびえる巨大なイチョウも印象的である。
用語解説
成道寺
六條八幡神社から東へのびる道をたどると、成道寺(じょうどうじ)に着く。堂坊は新しいが、明治時代に廃寺となった安養寺(あんようじ)、福昌寺(ふくしょうじ)の石塔や仏像が集められている。また毎年8月16日には、施餓鬼会が催され、そのあと安養寺から伝わったという六斉太鼓念仏(ろくさいたいこねんぶつ)がおこなわれている。
無動寺・若王子神社
六條八幡神社から成道寺に向かう道を、中ほどで折れて山を登ると、無動寺(むどうじ)と若王子神社(わかおうじじんじゃ)に至る。小鳥のさえずりしか聞こえない森の中に、ひっそりと建つ寺社であるが、山登りやハイキングの人たちが、連れ立って参拝してゆく姿が思いのほか多い。
聖徳太子が開いたと伝えられる無動寺には、平安時代の仏像5体が残されていて、いずれも重要文化財に指定されている。その森のさらに奥に、若王子神社の社殿がある。森の中の社殿は落ち着いた風情で、こちらも重要文化財である。
無動寺から下ってきた細い道のわきに、「新兵衛石(しんべえいし)」と刻まれた一抱えほどの石がある。これは江戸時代中ごろ、かんばつにあって苦しんでいた山田村の庄屋(しょうや)の子新兵衛が、年貢の軽減を直訴し、これが聞き届けられたことを記念して残されたものだという。
用語解説
下谷上農村歌舞伎舞台
山田の里の東端にある、天彦根神社(あまつひこねじんじゃ)の境内には、江戸時代に造られた農村歌舞伎舞台が残されている。かつては村祭りの時などに、農民自身が歌舞伎や演劇をおこなった舞台である。農民が、歌舞伎や芝居を楽しむことは禁じられていた時代のことであが、「神社に奉納する」形で楽しんだと言われている。まさに庶民の反骨、知恵と言うべきだろう。
よく保存された重厚な建物で、農民たちの力だけで、よくここまでのものを造り、また演じ続けられたものだと賛嘆させられる。楽しみを求める。その気持ちが、人々が生きる力になっていたのかもしれない。