【烏原古道】からすはらこどう

 現在の神戸市兵庫区と、北区山田町を結んでいた古街道。平清盛が丹生山(たんじょうさん)に参詣する際に通った道とも言われ、古代には重要な道路であったと考えられる。明治44年に刊行された『西摂大観』(仲彦三郎編)によれば、湊川、石井川沿いに烏原越えの道が示されているという。その経路の概略は、兵庫区から石井川沿いに菊水山の西を通り、小部、北五葉を抜け、長坂山の東を越えて山田、丹生神社に至るというものであったとされる。

 現在は神戸電鉄がこの道と重複しているほか、ダムの建設、ニュータウン開発などによって、多くの部分が消滅、通行不能、あるいは位置不明となってしまった。

 
【藤原豊成】ふじわらのとよなり

 奈良時代の貴族(704~766)。難波大臣。737年におきた天然痘の流行で父と兄弟が急死したために、藤原氏の中心人物として浮上した。

 749年に右大臣となったが、弟藤原仲麻呂と対立して政権の外に押し出され気味となり翌年の橘奈良麻呂の乱に連座して大宰府に流されることになった。しかしこれに抗議し、「病気」と称して難波にあった自分の別荘に籠ったため、大宰府行きは無期延期状態となり、そこで8年間の隠遁(いんとん)生活を送った。764年、仲麻呂が道鏡排斥に失敗して殺害された後(藤原仲麻呂の乱)、従一位右大臣として政権の中枢に復帰した。

 
【山田庄】やまだのしょう

 現在の神戸市北区山田を中心とした地域にあった荘園。平安時代には東大寺領であったが、後に平清盛が領有し、平氏滅亡後は源頼朝が接収されて、京都市内にあった若宮八幡宮に寄進された。

 播磨国淡河庄(おうごしょう)と境界を接し、室町時代に至るまで境界争いが絶えなかった。

 南北朝期には、南朝方の拠点となったため、北朝方の赤松氏との間で戦闘が繰り返された。また織田信長の中国地方攻略に伴い、三木城の合戦が起きると、別所長治は花熊城・丹生寺城・淡河城から三木城までの食糧運搬ルートを確保しようとしたため、羽柴秀吉は、この切断のために丹生寺城を攻略した。

 
【山田道】やまだみち

 現在の神戸市北区山田町の、中央を流れる山田川に沿って、東西にはしる街道。古代から山陽道の裏道として利用されていた。西宮市の生瀬から、有馬温泉、三木市までを結ぶ道を湯山街道(ゆのやまかいどう)というが、この湯山街道の西半にあたる、三木~有馬間の北回りの淡河道(おうごみち)であり、南回りが山田道であった。

 山田道は古代から、都に通じる山間の動脈として利用されたため、さまざまな文化が流入し、周辺には数多くの文化財が残されている。

 
【箱木千年家】はこぎせんねんや

 神戸市北区山田町衝原にある中世民家。「箱木家住宅」が正式名称である。箱木家は、山田庄の地侍で、14~15世紀にはこの地域の中心的な一族であったとされる。住宅は、かつては山田川に臨む台地上にあり、江戸時代にはすでに千年家と呼ばれていた。

 しかし1970年代におこなわれた呑吐(どんと)ダムの建設によって、住宅が水没することとなったため、解体、移築されたものである。

 移築の際におこなわれた調査により、姫路市安富町の皆河千年家(みなごせんねんや)とともに、現存する日本最古の民家であることが確認された。また解体前の箱木家住宅が、中世に建てられた母屋と、江戸時代中期に改築されたはなれを、江戸時代末期に一棟につないだ建物であったことも明らかとなっている。移築後は母屋とはなれを分離して、建築当初の状況が再現されている。国指定重要文化財。

 
【六條八幡神社】ろくじょうはちまんじんじゃ

 神戸市北区山田町中にある神社。祭神は応神天皇。山田庄十三村(藍那、西下、東下、中、福地、原野、上谷上、下谷上、小河、坂本、衝原、東小部、西小部)の総鎮守。境内には三重塔、薬師堂などがあり、かつての神仏習合の姿をとどめている。

 伝承によれば、神宮皇后の行宮(あんぐう)であったとされ、10世紀に宝殿が造営されたという。12世紀前半に、源為義(みなもとのためよし)が山田庄の領主となり、京都の六条にあった若宮八幡宮を勧請(かんじょう)し、現在の六條八幡神社のもととなった。

 三重塔は、15世紀中ごろに建てられたもので、檜皮葺(ひわだぶき)、高さ13.2mをはかる。室町時代の整美な建築として、国の重要文化財に指定されている。

 
【無動寺】むどうじ

 神戸市北区山田町福地にある真言宗の寺院。若王山(にゃくおうさん)と号する。現在の無動寺の位置には、かつて若王山福寺があったが、衰微して明治時代に廃寺となった。その福寺跡に、村の菩提寺であった無動寺が移転して現在に至っているという。寺伝によれば福寺は、聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)との戦いの勝利を念じて作らせた仏像を、本尊として創建されたという。その正確な創建年代は不明だが、現在無動寺に所蔵される仏像の製作年代から、平安時代後期には成立していたものと思われる。

 所蔵される、大日如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像の三尊仏、不動明王坐像、十一面観音立像は、いずれも平安時代後期の仏像として、国の重要文化財に指定されている。

 
【若王子神社】にゃくおうじじんじゃ

 神戸市北区山田町福地にある神社。福地村の鎮守。勧請(かんじょう)は13世紀末ごろと考えられる。現在の建物は15世紀初めに再建されたもので、国の重要文化財。

 かつては神社に隣接して、大日如来を本尊とする若王山福寺があったが、寺が衰微した後は若王子神社に大日堂が付随する形となった。さらに明治の神仏分離令によって、大日堂にあった本尊が、村の菩提寺であった無動寺に引き継がれて現在に至っている。

 
【農村歌舞伎】のうそんかぶき

   農村部で演じられる歌舞伎。土地の人々によって演じられる、素人芝居である。

   江戸時代になると農村部に歌舞伎が浸透し、職業的な劇団による歌舞伎の上演もおこなわれるようになったが、幕府は農民の遊興やこれにともなう金の消費を止めるため、遊芸、歌舞伎、浄瑠璃(じょうるり)、踊りなどを厳しく禁じ、歌舞伎関係者が村に入ることも禁止した(地芝居禁止令:1799年)。

 しかし村人自身が演じて、「神社に奉納する」という形式をとった農村歌舞伎は、容認せざるを得なかったようで、天保の改革などで厳しく取り締まられた時期はあったものの、江戸時代を通じて継続し、明治時代にも盛んであった。しかし昭和に入って戦時体制が強まると、地芝居そのものの継続ができず消滅していった。

 戦後は高度経済成長にともなって、農村そのものが変質してゆき、農村歌舞伎は失われていった。しかし近年、郷土の文化が見直されはじめて、兵庫県下でも葛畑(かずらはた)の農村歌舞伎、播州歌舞伎や、都市から郊外に移り住んだ住民なども参加する形態も見られるようになり、十指に余る農村歌舞伎、子供歌舞伎などが復活、上演されている。

 下谷上農村歌舞伎舞台は、江戸時代末に建てられたもので、代表的な農村歌舞伎舞台として国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。また、山田地区周辺には、各村に農村歌舞伎舞台が残されている。