ひょうご歴史研究室客員研究員 大槻 守

たたら製鉄研究班の大槻と申します。地域歴史遺産の研究には関心を持ってきましたが、たたらにきちんと向き合ったのはこの班で研究することになって初めてです。ですが、ありがたいことに、かつて千種で勤めたことのあるのが縁になっています。当時既に“千草鉄の館”と呼ばれる歴史民俗資料館が町中に開館されていて興味深く見学したことはあるのですが、まさか自分が千草鉄と真正面から取り組むことになるとは思ってもいませんでした。ただ、その当時懇意にしていただいた町長が先の資料館を建設された小原町長で、千草鉄の顕彰に熱意を燃やされていた方であることを思い返しますし、また、その頃御世話になった皆様のお蔭で今回研究を進められていることを感謝しております。 新しい分野に手をつけます時には、その分野の研究史から始めるのが常道かと思いますが、私もたたら製鉄の研究がどのように開拓されていったかを先ず調べてみました。紀要第3号に発表した「播磨のたたら製鉄研究を拓いた人たち」です。

研究するにも史料がなく、文書を求めて奔走し、鉄山跡や鉄山墓を探して山中を踏破するなど苦労の連続であったことを知りました。中国地方では膨大な鉄山史料があるのに、当地では各地に散在する集落や個人宅に残る文書の発掘から始まっています。鉱山史を開拓された小葉田淳氏(京大教授)が研究の対象にされなかったような小規模な文書群です。鉄山の発掘調査もまだ進んでいなかった頃ですので鉄滓のある鉄山跡や墓地が唯一の手がかりだったいいます。閉山後、山内の人が去った当地では聞き取り調査もままなりませんでした。と言いますのは、これも宍粟の特徴で、明治初年閉山になった後、かつての天領が国有林に編入されたからでした。鉄山の痕跡を確認することから始めねばならなかったのです。 たたら製鉄研究班でも文献学的研究が必須の課題でした。幸いと言うか足元の当館に眠っている文書の中にたたら史料のあることが分かりました。先ずこれを公開できるようにしようと始まった翻刻作業がこの度やっと終わりました。それが今春刊行された『近世播磨のたたら製鉄史料集』です(写真①②参照)。

写真①紀要別冊表紙
写真②紀要別冊口絵

先行研究で鉄山師では千草屋平瀬家がその代表であることは知られていますし、天領の鉄山支配役所として山方役所があったことも分かっていました。その千草屋の史料2点と山方役所文書1点を収録できたのが今回の史料集です。  そのうち、私が担当しましたのが山方役所文書「鉄山一件」でしたので、翻刻して分かったことを次に少し紹介します。  解題では普通内容紹介を中心にすえるのですが、今回はそうしませんでした。と、いいますのは既に笠井さんによる丁寧な論考(「『鉄山一件』からみる一八世紀後期播磨国宍粟郡のたたら製鉄」)が紀要第3号に発表されているからです。

そこで今回はこの文書がなぜ残ることになったのかと、文書の特質を考えてみました。先ずは文書の作成者です。それは山方役所の地役人であることは明記されていますし、地役人は生野銀山にもあり世襲で鉱山の取り締まりに当たっていることは分かりました。さらに調べてみますと大坂城代を通じて勘定所の支配下にあることも大坂城代の日記から確認できました。次にこの文書の性格です。文書は原文書の綴り込みではなく、すべて写しまたは控えです。ということは、これはそれらを記録し、後世に残しておこうという強い意志の表れだったということです。文書は時代を追って丁寧に一冊の帳面に書き写されており、文書中に「役所留記」とあるのに気がつきました。当時幕府の勘定所に留役が置かれ職務記録として留書や留帳が書かれていたことが分かっていますので、この文書もその流れを受けたものではないかと考えました。  しかし、現代も公文書の記録保存の重要性が声高く言われていますが、現実はどうでしょうか。当時の乃井野藩の対応を見ていても、まだ地方では制度的に文書保存が決められていたとは思われませんので、この史料はあくまでも作成者小針忠太左衛門の個人的な判断によるものと考えられます。それはかれの勤勉な勤務態度の表れでもあるでしょう。彼は記録を残すことの意味をこう書いています。「後々当役所に勤められる衆中の後学にも相成るべき哉」と。世襲であることを考えると後を継ぐ者のことが念頭にあったことでしょうが、今、時代を越えて私たち後学の者の前にあることを思うと、誠に感慨深いものがあります。

本史料集に1世紀を隔てる千草屋の「御用留」が収録されていますので、両者の比較検討が急がれますし、またこの二つをつなぐ資料の探索も重要です。この史料集が今後の播磨のたたら製鉄研究を発展させるきっかけになることを願っています。