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コラムむかしの道、今の道

現在われわれが利用している道路には江戸時代以来の街道が多く残っています。山の多い地形の制約を受けるため同じルートを踏襲することが多かったようです。 一方、高速道路に見られるように新たなルートも造られるようになり日本の交通事情は新時代を迎えています。

  • 現代の街道-兵庫県
  • 江戸時代の街道-兵庫県
  • 現代の街道-全国
  • 江戸時代の街道-全国

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戦国時代は各々の戦国大名が自国の道路整備を行っていたが、同時に他国からの侵略を容易にする諸刃の剣でもあった。便利な道路は自国の不利益となる可能性があるため積極的に整備されたとは言えない。しかし関ヶ原の戦いの後、幕府が全国的な支配体制を確立する基盤事業として道路は整備されていった。

道路はまず江戸を起点とした五街道が整備された。京都まで太平洋側を通る東海道、山中を通る中山道、甲府を経由して下諏訪で中山道と合流する甲州道中、日光までの日光道中、白河までの奥州道中の五つである。これらの街道は道幅が山道を除いて四間(約7.2m)以上確保され、幕府は諸藩に命じて路盤の整備を行わせた。街道には宿を設けて人馬を常駐させ、旅人のために旅宿、並木、一里塚などインフラの整備を行った。ただし、街道整備の目的はあくまで幕府の全国統治のための公道であり、参勤交代や公務のために整備したもので、一般の旅人はその合間に使わせて頂いているという立場であった。

五街道以外の道は脇街道と呼ばれていた。これらは、日本国内の各地に巡らされ、早道や商品輸送の道として地方の人と物の流通に大きな役割を果たしていくことになる。ちなみに、道路の管理について五街道は道中奉行、それ以外の脇往還は勘定奉行と別々の部署が担当している。国(幕府)と地方(藩)の道路行政についての分担が垣間見られるようで興味深い。

江戸時代の街道の整備

現代の主要な道路は江戸時代の街道を引き継いでいるものが多い。大まかにみると同じコースをたどっているようである。当時の道路幅を拡幅して利用していることも多い。しかし、宿場など昔から家屋が建ち並んでいるところは道路拡張が困難なため、新しい道は並行して造られていることが多い。このことが宿場の衰退をもたらした原因であるが、同時に街並の保存につながっていることも事実である。県内の名所や旧跡を訪ねるにはこれらの道をゆっくりと歩くのがよい。ひとつ外れた旧道で江戸時代の風景に出会えるかも知れない。

高速道路は現代の街道といえる。目的はより早くということである。古代から国家はこの目的のために道路を造ってきた。この機能を特化させたものが高速道路である。忙しい現代、名所巡りのバスは高速道路を利用して効率よく廻っていく。旅人を足止めした川渡しや宿場に代わってサービスエリアがその役割を果たしているが、旅人は目的の場所まで閉ざされた道路から下りることはない。最近では、関所代わりの料金所でさえも言葉を交わすことなくノンストップで通過する。

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