神池寺
丹波市市島町(いちじまちょう)の東にそびえる妙高山(みょうこうさん)。その山頂近くに天台宗(てんだいしゅう)の古刹(こさつ)、神池寺(じんちじ)がある。神池寺という名前は、この伝説の舞台となった「澄まずの池」に由来する。この池が、山頂近くにありながら、どんな大雨でも日照りでも枯れることがない、という不思議な池であることから、「神の池の寺」と付けられたという。
紅葉の美しい晩秋の日、ご住職の荒樋榮晋師にお寺に伝わる伝説の概要を教えていただいた。「澄まずの池」は、境内の伽藍(がらん)からはやや離れた、神池寺会館の前にある。池の背後には昭和10(1935)年ごろに建てられた明治神宮の遥拝所(ようはいじょ)がある。池の水は、このサイトでは赤茶色に濁っているとしたが、当日は時間や季節のためか、ややどす黒く感じられた。深さはかなりあるようで、50年ほど前に底をさらったことがあったが、すり鉢状に泥がたまっていて、棒を刺しても底には届かなかったという。
庫裏(くり)の近くには常行堂(じょうぎょうどう)があり、南北朝期の宝筐印塔(ほうきょういんとう)が残されている。そこから石段をあがって、門をくぐったところが鐘楼、本堂、仙人堂などがある伽藍の中心地である。
神池寺の境内へとつづく車道には、山のかなり下の方に寺域の入り口を示す標柱がある。中世までは広大な寺域の中に多数の伽藍、僧坊が建ち並び、近在の多くの子弟が入寺して繁栄した寺院であったとされていて、その面影を伝えている。しかし神池寺も、丹波のほかの多くの中世寺院と同様に、天正3~7(1575~79)年の明智光秀(あけちみつひで)による丹波攻めの中で焼き討ちにあい、大きく勢力を削減されたという。
さて、「澄まずの池」伝説を紹介した文献の多くは、鐘突きに来た小僧さんをねらって、澄まずの池から大蛇が登場したとする。しかしご住職の話では、大蛇は鐘楼の背後にある山から出てきたという。たしかに実際の伽藍配置から見ると、こちらの方がよく合うので、このサイトでもそのように紹介した。また、伝説の結末もお寺では、僧侶の法力によって大蛇が竜になって昇天した、としているという。
この神池寺には、「澄まずの池」の他にも、いくつかの歴史にまつわる話が伝えられている。源平のころには平重盛(たいらのしげもり)が参詣し、寺域の北谷に一字一石の法華経を埋納したとされている。その跡とされているのが、境内からやや山を降りたところにある経塚で、今は小さな祠(ほこら)に石の地蔵がまつられ、その脇に宝筐印塔がある。
この神池寺には、「澄まずの池」の他にも、いくつかの歴史にまつわる話が伝えられている。源平のころには平重盛(たいらのしげもり)が参詣し、寺域の北谷に一字一石の法華経を埋納したとされている。その跡とされているのが、境内からやや山を降りたところにある経塚で、今は小さな祠(ほこら)に石の地蔵がまつられ、その脇に宝筐印塔がある。
また、南北朝内乱に際しては、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)の命令書が届き、寺の僧兵が京都の合戦に参戦したという。神池寺僧兵の参戦は、『太平記(たいへいき)』巻8にも元弘3(1333)年の六波羅探題(ろくはらたんだい)攻めの中でのこととして記されていて、これは事実と見てよいだろう。また、護良親王が奉納したという鎧(よろい)も伝わっていた。こちらは明治維新のころ、梶井宮門跡(かじいのみやもんぜき)のもとへ貸し出した後、鎌倉に創建された護良親王をまつる鎌倉宮(かまくらぐう)の神体になった。『丹波氷上郡志』(1985年復刻、臨川書店)には、明治2(1869)年に鎧が神体になったときに、政府から神池寺に渡された書類が引用されている。
用語解説
丹波の大蛇伝説
よく知られているように、蛇は、古来水の神や山の神の化身として信仰されてきた。時として、人間の力ではどうしようもない猛威をふるう水の力や、縦横に平野を流れる大河の乱流が、細長く力強い蛇を連想させたのであろう。
県域にも、水や山と蛇との結びつきを示す伝説は数多い。ここでは神池寺に近い丹波市(たんばし)、丹波篠山市(たんばささやまし)に伝わる蛇伝説のいくつかを紹介したい。
丹波篠山市街地のすぐ北東にある沢田(さわだ)地区の氏神が沢田八幡神社である。ここでは、10月中旬に「はも祭り」と呼ばれる秋祭りが行われる。むかしむかし、このあたりは一面の湿地であり、一匹の大蛇が住んでいて、村人たちに長男を人身御供(ひとみごくう)として差し出すよう要求していた。しかしあるとき、この村を通りかかった一人の武士が大蛇を退治してくれたので人身御供のならわしはなくなり、それから大蛇になぞらえたハモを切る行事を行うようになったとされている。紀行文「犬と人」で紹介している猿神退治伝説と同じモチーフの話である。
また、篠山盆地全体が大きな湖で、そこに大きな竜が住んでいたという伝説も伝わっている。この竜を大神が一矢で射殺し、それから盆地の水が減って人々が安心して暮らせるようになった、という。これは、篠山盆地の水を集めて加古川(かこがわ)へ注ぐ篠山川を、竜に見立てた話と考えられている。
丹波市でも同様の話は多い。ここでは佐治川(さじがわ)・本郷川(ほんごうがわ)などとも呼ばれる加古川の上流部が、人々に恵みをもたらす川になる。丹波市山南町応地(さんなんちょうおうじ)では、「蛇ない(じゃない)」という行事が毎年行われている。あるとき、大雨が降って加古川が増水し、川を渡ろうとしていた子供が流されそうになってしまった。そのとき、川上から白い大きな蛇が現れ、両岸につかまって橋代わりになり、子供たちを助けてくれたという。
応地の人々は、この大蛇を山の神の化身と見た。それから毎年1月9日の山の神の日に、新しい藁を持ち寄って長い蛇をかたどった綱によりあわせ、村の大年神社(おおとしじんじゃ)に奉納するようになった、という。この「蛇ない」行事は、現在は成人の日に行われている。