宝筐印塔(ほうきょういんとう)

本来は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔。日本ではとくに石塔の場合、墓碑や供養塔として建てられるようになっていた。石塔としては、鎌倉時代中ごろからの遺品が残る。形状は、方形の基礎、基礎よりも小ぶりな塔身、笠形の屋根、円筒状の相輪からなる。屋根には四隅に隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起が立てられる。この隅飾りの開きぐあいに時代ごとの特徴がよくあらわれ、古いものほど直立し、新しいものは外側へ開いていく傾向がある。

 
明智光秀(あけちみつひで)

?―1582。美濃国(みののくに=現在の岐阜県南部)の武家である土岐(とき)氏の一族とされる。越前国(えちぜんのくに=現在の福井県東部)で朝倉(あさくら)氏に仕えていたが、永禄11(1568)年に足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長を頼って美濃へ赴いた時に同行して信長に仕えるようになったと見られている。

以後信長に才能を認められ、京都の政務や、畿内周辺各地での軍事活動などに従事した。天正3(1575)年からは丹波攻略を命じられ、一時は多紀郡(たきぐん=現在の丹波篠山市)の波多野(はだの)氏を傘下に収めて、氷上郡(ひかみぐん=現在の丹波市)黒井城(くろいじょう)の赤井(あかい)・荻野(おぎの)氏を攻めたが、翌年波多野氏の離反によって一旦敗れて撤退する。

その後天正5(1577)年ごろから再び丹波へ進出し、同7(1579)年6月に波多野氏の八上城(やかみじょう)を落とし、ついで赤井・荻野氏の黒井城や丹後(たんご=現在の京都府北部)の一色(いっしき)氏を下して丹波・丹後を平定した。

天正10(1582)年6月、京都本能寺に信長を殺して天下の権を窺ったが、羽柴秀吉(はしばひでよし)に山城国山崎(やましろのくにやまざき=現在の京都府大山崎町)で敗れ、敗走中に小栗栖(おぐるす=現在の京都市)で住民に襲撃され死去した。

 
平重盛(たいらのしげもり)

1138―79。平清盛(たいらのきよもり)の長男。保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)では父に従って参戦。その後は清盛の後継者として順調に官位を昇進させ、仁安2(1167)年、父清盛が太政大臣を辞任するにあたって、朝廷から重盛に国家的軍事・警察権が与えられた。翌年から清盛が福原(ふくはら=現在の神戸市兵庫区)の山荘に移ると、重盛が都において平家を代表するようになる。

しかし、安元3(1177)年、妻の兄であり、また長男維盛(これもり)の妻の父でもある藤原成親(ふじわらのなりちか)らによる平家打倒の陰謀が発覚する事件(鹿ヶ谷の陰謀、ししがたにのいんぼう)が起き、政治的に大きな打撃を受ける。その後、目立った活躍を見せないまま、治承3(1179)年7月に没した。

 
大塔宮護良親王
(おおとうのみやもりよししんのう)

1308―35。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子。幼少のころに梶井門跡(かじいもんぜき)に入り、天台座主(てんだいざす)を2度務めた。元弘元(1331)年に後醍醐天皇が2度目の倒幕運動として元弘の変を起こすと、還俗してこれに参加した。建武政権成立後は一旦征夷大将軍に任命されるが、後醍醐や足利尊氏(あしかがたかうじ)と対立し、建武元(1334)年に謀反を企てたとされて捕らえられ鎌倉に幽閉された。翌年、鎌倉北条氏の残党が蜂起した中先代の乱(なかせんだいのらん)で鎌倉が陥落したとき、尊氏の弟である足利直義(ただよし)によって殺害された。

なお、播磨の守護となった赤松円心(あかまつえんしん)の三男則祐(そくゆう)は比叡山で出家しており、元弘の変では護良の配下として戦ったとされる。

また、護良をはじめとする後醍醐の皇子の名前につけられた「良」については、一般には「なが」と読まれることも多いが、近年では「よし」と読むべきとする説が有力である。

 
梶井宮門跡(かじいのみやもんぜき)

「門跡」とは、本来は仏法の正当な後継者を指すが、後にそうした後継者と見なされた貴族の子弟が入る格の高い寺院のことをも指すようになった。このうち、とくに天皇の子弟が入る寺院の場合は「宮門跡」と呼ばれた。

梶井門跡は、現在は洛北大原(おおはら)の三千院(さんぜんいん)のことを指すが、本来は天台宗(てんだいしゅう)の開祖最澄(さいちょう)が開いた寺院で、当初は比叡山(ひえいざん)の上にあり円融房(えんゆうぼう)と呼ばれていた。その後、比叡山東麓の坂本(さかもと=現在の滋賀県大津市坂本)に移り、平安末期からは天皇家の子弟も入寺するようになり、梶井宮門跡とも呼ばれるようになった。

鎌倉・室町時代には京都市中周辺を転々としており、応仁の乱後に大原にあった政所(まんどころ)が本坊となった。江戸時代中ごろから、再び門跡自身は京都市中に房(僧侶の住居)を構えるようになり、寺院としての門跡もこの京都市中の房を指すようになっていた。現在の三千院が本坊とされたのは明治4(1871)年のことである。