前之庄穴淵の河童
全国どこにでもある河童話。川遊びをする子供や水を飲みにきた馬を川に引き込んで、「尻こ玉」を抜いてしまうという恐ろしい話もあれば、逆に悪事が露見して人間に捕まり詫び証文を書かされ、薬の製法を伝授するという話もある。このサイトで紹介した「夢前川の河童」の伝説は、馬を川に引き込もうとするが失敗して秘伝薬を伝える話で、類話は数多い。
ただし、河童が伝える秘伝薬は、「骨接ぎ(ほねつぎ)の薬(外傷の治療薬)」とする話が一般的である。夢前川の河童の場合は「お乳の出がよくなる薬」となっていて、骨接ぎ薬話が一般的に流布した後に、それをアレンジしてできあがった話ではないかと考えられる。
河童がいたという、姫路市夢前町前之庄(ゆめさきちょうまえのしょう)の夢前川を訪ねてみた。この話は前之庄のうちでも、中国縦貫自動車道の南側にある岡(おか)という集落を舞台に伝わっている。岡地区で畑仕事をしていた女性にうかがってみると、河童が出るという「穴淵(あなぶち)」は集落の南側にあるというので行ってみる。一目見ただけでたしかに深い淵であることが実感できる。夢前川が南から東向きへ流路を曲げるところで、対岸には山が迫って切り立った崖になっている。すぐ下流に、農業用水を取水する井堰(いせき)があって、ちょうどダム状になっているためにより一層水量が多く見える。ただし、見た目だけではなく実際に川底も深いようで、女性の話では、渇水の時でも底が見えたことはないという。今でも夏になると付近の子供たちが水遊びをするそうだ。岡の集落内には、この伝説に出てくる庄屋さんの子孫がお住まいのお宅もあった。
「穴淵」とつながっているとされる、姫路市夢前町高長(こうちょう)と寺(てら)の境界にある「どんどが淵」にも行ってみた。前之庄の谷筋からひとつ西側の谷で、菅生川(すごうがわ)へ合流する坪川(つぼがわ)の上流部にある。この淵は、「ひょうご伝説紀行――語り継がれる村・人・習俗――」の「鹿が壺(しかがつぼ)から安志(あんじ)の里へ」で紹介した姫路市安富町関(やすとみちょうせき)の鹿が壺と同じで、地質学的には「ポットホール(甌穴=おうけつ)」と呼ばれる岩盤のくぼみである。姫路市と合併する前の夢前町のころから町指定の天然記念物になっていて、「穴淵」とつながっているとの伝説を含めた案内柱がたてられていた。
用語解説
県域各地の河童伝説
県域にはほかにもたくさんの河童話がある。たとえば日本民俗学を作り出した柳田國男(やなぎたくにお)も、自らの故郷の河童話を伝えている。柳田は福崎町辻川(ふくさきちょうつじかわ)の生まれで、13歳までこの地を中心に育った。生家は現在辻川山の麓に移築保存され、隣接して「柳田國男・松岡家顕彰会記念館」も建てられている。柳田が自らの人生を回顧した『故郷七十年』には、幼いころの記憶として辻川付近の民俗に関わる話もたくさん語られていて、その中に次のような市川の河童(河太郎=ガタロ)の話も出てくる(「駒ヶ岩の河太郎」)。
辻川あたりでは河童はガタロというが、随分いたずらをするものであった。子供のころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特長なわけで、私らの子供仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ヶ岩(こまがいわ)というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々(あおあお)とした淵になっていた。そこで子供がよく死ぬのである。私ももう少しで死にかかった経験がある。水が渦を巻いているので引き込まれるが、あわてないで、少しじっとしていると、流れのまにまに身体が運ばれ、浅瀬へ押し流されて、浮かび上がることができる。そこであまりバタバタすると、渦の底へ引きこまれてしまうのだった。鰻(うなぎ)のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであった。
駒ヶ岩は、柳田が言うように今はそれほど大きくは見えない。しかし、岩の上に立ってみると、市川の流れはやはり少し深い淵になっていて、手頃な飛び込み台のようにも感じられる。
そのほか、河童伝説は県内だけでも無数にある。ここでは3つだけ紹介しておこう。
加古川は、その上流部、現在の丹波市氷上町(ひかみちょう)付近では、「本郷川」とも呼ばれているが、ここには「尻引きマント」と呼ばれる河童がいたという。子供が川で遊ぶとき、なまあたたかい、どんよりした日は気を付けろ、とくに佐治川(さじがわ)と葛野川(かどのがわ)との合流点の下流、蔵ヶ淵(くらがふち)は危ない、と言われている。
西宮市塩瀬町生瀬(しおぜちょうなまぜ)・木元(このもと)付近にある武庫川(むこがわ)の大きな淵でも、河童話がある。武庫川が大きく湾曲している「うるしが淵」と呼ばれる淵が舞台で、ここでも子供が犠牲になると、河童のしわざとされた。淵の底で水流が巻いている渦は、河童が子供を引き込むためにつくったものと言われ、河童の好物のキュウリを食べると引き込まれやすいそうである。
豊岡市竹野町竹野では、7月に川すそ祭りという川の神の祭りが行われる。この日は、川すその神が河童(川コ)を川に放しているので、川で遊ぶとはらわたを抜かれてしまう、と言う。
用語解説
河童の考え方
最後に、少し堅い話になるが、河童が研究の世界でどのように語られてきているかを見ておきたい。 柳田國男は、河童は古い水神の零落した姿とみた。かつては水の神として尊重され、信仰されていた水神が、時代の変化の中で地位を落とし、今日伝えられるような人間に害を与える怪物や、失敗して詫び証文を書く少々間抜けな姿になっていったとの変化を想定したのである。柳田は、河童が馬を水に引き込むとの話は、水神へ馬が捧げ物とされていたことの痕跡と見た。こうした「神が零落したものが妖怪である」との見方は、河童のみではなく、柳田の妖怪論全体に通底する仮説として述べられている。
柳田の研究には、自らが立ち上げた「民俗学」の確立のために、ひとまず日本一国に対象をしぼって研究を進める必要があるとの方針があった。これに対して、ひろくユーラシア大陸の広がりの中で河童を検討したのが石田英一郎である。
石田は、河童が馬を水に引き込む河童駒引伝説(かっぱこまひきでんせつ)は、水辺で雌馬を飼って竜や水神の子供を得るという民間信仰や、優れた馬が水の中から出現したとする伝承と共通する根源から生まれたもの、ととらえ、こうした類話がユーラシア大陸全体にわたって見られることを指摘する。そして、ユーラシア大陸では、水神と牛、馬、猿とは伝説上で密接に関わりを持っていたとし、日本各地に見られる河童駒引伝説も、こうした水神と馬との結合を物語る一類型であると位置づけた。石田によれば、ギリシャ神話のポセイドンも、牛馬と結びついた水神として河童と共通性があるという。
しかし近年では、柳田の妖怪論を見直そうとする研究が進められている。小松和彦氏は、柳田の「神の零落した姿=妖怪」という考え方に異議をとなえている。妖怪の中には、たしかに神から「零落」したものも存在したであろうが、中には、はじめから神ではなく、妖怪でしかなかったものや、あるいは妖怪から神へと上昇していったものもあるのではないか、というのである。
河童に関する研究では、こうした小松氏の考え方によく合う研究として、中村禎里氏のものがある。中村氏は、河童は近世以降に現れる妖怪であるとし、近世の文献に見える河童を検討し、四段階に分けてそのイメージの変遷を明らかにした。そして、柳田説の基礎になっている祭祀(さいし)の対象となるような河童は、第四段階の18世紀末以降になってようやく現れることや、河童イメージの元になった実在の動物・人間として、カワウソ、スッポン、猿や、山の民、あるいは差別の対象となっていた人々などを示している。こうした中村氏の分析結果を、小松氏の考え方に照らして読むと、河童はむしろ妖怪から神へと上昇していく存在のようにも見えるのである。
どこにでも、といってよいほど全国的に見られる河童の伝説。しかし、その奥は深い。