宍粟千種
老人が住んでいたという播磨(はりま)の西北端、宍粟市千種町(しそうしちくさちょう)を訪ねてみた。現在は「千種」と表記するが、江戸時代までは「千草」と書かれることが普通であった。「千草」の名称は、すでに奈良時代初めに書かれた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』に「千草村」として登場する。明治初めまでは、山の土を水路に流して取る砂鉄を原料とし、周辺の豊富な森林資源を燃料とする「たたら製鉄」が盛んだった地域でもある。
伝説では、老人は「大山」に住んでいたとされ、その後に「千町ヶ原」に出た、とされている。残念ながら「大山」も「千町ヶ原」も、現在のどこにあたるのかははっきりしない。宍粟市一宮町(しそうしいちのみやちょう)にも千町というところがあるが、一宮町と千種町とはかなり離れていてしっくりこない。『播州巡行(考)聞書(ばんしゅうじゅんこうききがき)』という江戸時代の書物には「千草の千町原」で猿に化かされたという話がある。やはり「千町原」は、現在の千種町にあったと考えた方がよさそうだ。千種町岩野辺(いわのべ)には千草仙人の墓とされる石塔があるという。
千種の山は深い。北側の鳥取県境には三室高原(みむろこうげん)、西側の岡山県境にはちくさ高原が広がる。いずれもゆるやかな斜面に広大な森林がひろがっている。山岳修験の霊場ともなっていた岡山県境の後山(うしろやま)、鳥取県境の三室山、宍粟市波賀町(しそうしはがちょう)との境界付近の植松山(うえまつやま)など、標高1000mを超える山並みが東北西の三方を取り囲んでいる。どれも奥深く、「大山」や「千町ヶ原」と呼ばれてもおかしくない高山や高原である。こうした深い山の世界への畏れが、この老人伝説を生み出したのであろう。
用語解説
『峰相記』
このサイトで紹介した伝説の前半は、江戸時代中ごろに編纂された『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』に収録されている『播州府中記(ばんしゅうふちゅうき)』の記述をもとに、多少想像をふくらませて構成したものである。ただし残念ながら、単に長生きで背の高い老人がいたという程度の話で終わってしまっており、すでに話そのものの詳細が失われかけているように見える。
また、後半の宇野山の山賊の話は、同じく『播陽万宝知恵袋』に収録された『播州巡行聞書』から採録している。『播州府中記』の話は老人が主役となっているが、『播州巡行聞書』の方は山賊伝説を主題とするものである。こうした別の主題の話の中に、千草の老人の名前が登場するということから見て、やはり江戸時代以前の古い段階においては、千草の老人の伝説は相当有名であったと考えられる。
実際、この伝説は中世から語られていたようだ。現在、太子町(たいしちょう)の斑鳩寺(いかるがでら)に写本が伝わる『峰相記(みねあいき)』。これは、南北朝時代に執筆された、播磨の宗教・歴史・地理を伝える書物であるが、千草の老人の伝説も「千町原ノ老翁(ろうおう)」という題名だけが記述の中にあげられている。残念ながら話の内容はわからないが、この伝説は、少なくとも南北朝時代から語りつがれていたことがわかるのである。
ただし、この話は『峰相記』の筆者によって、「証拠モ時代モナク、大様(おおよう)ナル伝説共ニテ」とされている。すでに中世の知識人にとっても、信じるに足りない話とされていたようだ。
『峰相記』が生み出された姫路市石倉(いしくら)の鶏足寺(けいそくじ)跡を訪ねてみた。峰相山(みねあいさん)と呼ばれる山の山頂近くに伽藍(がらん)があった山岳寺院で、戦国時代の終わり、羽柴秀吉(はしばひでよし)の焼き討ちにあって滅亡したとされている。
寺跡へは、南麓の石倉地区から尾根筋をたどって、途中亀岩(かめいわ)や大黒岩(だいこくいわ)といった巨岩を通過しながら、山頂へ向かうコースがある。山頂付近には、下から見上げているだけでは想像がつかないほど、かなり広い平坦地がひろがっていて、いくつもの人工的に削平された平坦面が段状に積み重なっている。そのうち最も高い一帯にある平坦面には、二つの祠(ほこら)と、いくつかの寄せ集められた五輪塔(ごりんとう)がまつられている。いまは訪れる人もまれな山中だが、かつては、多数の堂舎や僧房が立ち並んでいたようだ。こうした山上の寺院で、『峰相記』は執筆された。
用語解説
八百比丘尼伝説
『峰相記』には、このほかにも今日では消滅しかかっている伝説がいくつも記載されている。そうした話としてもう一つだけ、明石の人魚の話にふれておきたい。これも『峰相記』では「明石浦ニ人魚ヲツリタル事」と話の名前があげられるだけのものである。また、『播陽万宝知恵袋』に収録されている『播州古所伝聞志(ばんしゅうこしょでんぶんし)』では、「明石の浦で人魚を釣ったのは、神護景雲元(767)年7月10日のことで、小枝の連という人が釣った」と記されている。これも断片的な記述と言わざるを得ない。しかし、この話については、全国的に流布している八百比丘尼(はっぴゃくびくに)伝説との関連が指摘されている。
八百比丘尼伝説とは、人魚の肉を食べた女性が不老長寿の効果を得るという話で、多くの場合、いつまで経っても顔かたちも若いままで、人並みはずれた長寿のために周囲から畏れられ、自ら若狭(わかさ=現在の福井県西部)の寺へ行って尼僧として余生を送るという筋書きになっている。県域でも神河町比延(かみかわちょうひえ)で伝えられていたことが知られている。『峰相記』の断片的な記述から、こうした伝説が中世から語られていた可能性が考えられるのである。
不老長寿は、古くから多くの人々の願いであったはずである。しかし、千草の老人にせよ、八百比丘尼にせよ、現在残されている伝説や史料ではむしろそれを不気味なものとしてとらえている印象を受ける。猫や猿といった動物も、年をとりすぎると化け猫やヒヒといった妖怪に変化していくと考えられていたが、これと同じように思われたのだろうか。あるいは、誰もが欲しいものを手に入れた者へのねたみや、普通ではない者、日常性、常識からはずれた者への、畏れや排除の感情などをうかがうこともできよう。
しかし、そうしたマイナスイメージだけがこうした伝説の本来の主旨だったのだろうか。ここで紹介した2つの話は、遅くとも中世から語られている伝説であった。時代の変化にともなって伝説が変わっていく中で、何か大事な要素が語られなくなってしまったのかもしれない。