天守閣の主
姫路城天守閣には主がいるという。その名は「おさかべ姫」。あるいは単に「オサカベ」とも呼ぶ。このサイトで紹介している『播州皿屋敷』でも、姫路城を手に入れた青山鉄山(あおやまてつざん)を悩ます怪異として登場する。
この話は、延宝5(1677)年に出版された『諸国百物語(しょこくひゃくものがたり)』や、安永8(1779)年の鳥山石燕(とりやませきえん)『今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)』などにも載せられ、江戸時代の前半からすでに全国区の伝説だった。
現在、年間100万人近くの人々が訪れる姫路城。昼間は人がとぎれることは少ない。しかし、そうした現代でも、天守閣の中に入ると、窓から差し込む日の光だけが頼りの薄暗いところも多い。電灯のない江戸時代の夜中のことを想像すれば、その暗闇の深さははかりしれない。
天守閣で小姓が「おさかべ姫」に会った、という伝説からは、やがて宮本武蔵が天守閣の妖怪退治に出向いておさかべ姫と対面したとする講談なども登場した。近代の文学作品としても、天守閣の主である富姫(とみひめ)と、若い鷹匠(たかしょう)である姫川図書之助(ひめかわずしょのすけ)との恋を描いた、泉鏡花(いずみきょうか)の『天守物語』などがある。
さて、延宝5(1677)年出版の『諸国百物語』では、「秀勝(ひでかつ)」という城主が若侍に命じておさかべ姫に会いに行かせた、という話になっている。しかし、同書を引用したと明記している別の書物、たとえば宝暦3(1753)年の『播陽因果物語(ばんよういんがものがたり)』などでは、城主の名は現在の姫路城を建設した池田輝政(いけだてるまさ)になっている。ここから、『諸国百物語』の版によっては、城主は輝政と記されていたものもあったと考えられている。
また、『諸国百物語』にはこれとは別に、輝政が病に倒れたとき、城内で高僧が祈祷(きとう)をしていると、30歳ほどの女性が薄化粧をして現れ、祈祷をやめろと声をかけた、という話も載せられている。
輝政の病をめぐる怪異に関しては他にも史料がある。小野市歓喜院(おのしかんぎいん)と多可町円満寺(たかちょうえんまんじ)には、「播磨のあるじ」を名乗る天狗が輝政にあてた書状と言われるものや、それにまつわる記録類が残されているのである。この書状は城内に寺院を建てよと輝政に要請するもので、慶長14(1609)年12月と、現在の天守閣が完成したばかりのころの年代がついている。この書状は、いったん城内で発見され、直ちに輝政にも見せられたが、その時は黙殺された、という。
しかし、その2年後、輝政が病に倒れた。池田家では、円満寺の明覚(みょうかく)を招いて祈祷を行わせたが、その最中に、先の天狗の書状があらためて藩士から提出された。明覚は、この書状が要求するとおりに寺院を建立することを勧めたので、池田家では、鬼門(きもん)にあたる城内北東部に、「八天堂(はってんどう)」という仏堂を建てた、とされている。
さらにこのころ、輝政の病は、城が建っている姫山(ひめやま)の地主神(じぬしがみ)である長壁神(おさかべがみ)のたたりだ、との噂も流れていたという。長壁神は、もともとは姫山の上にまつられていたが、羽柴秀吉(はしばひでよし)の姫路築城にともなって、城下の播磨総社(そうしゃ)に移されていた。そこで池田家では、長壁神社をも城内にまつり直した、とされている。
ここで述べた事件の経緯は、どこまでが事実で、どこからが虚構なのか、ややはっきりしない。この経緯には、明覚の功績を強調するための脚色が含まれている可能性が多分にある。
ただ、輝政の病を契機に、八天堂が建立され、長壁神社が再び姫山にまつられるようになったことは確かなようだ。また、こうした話が生み出され、語られ続けてきた背景には、新しく領主となった池田家に対する、当時の播磨の人々の違和感があったことも指摘されている。円満寺の明覚は、こうした地域の「世論」とでもいうべきものを読みとっていたのではないだろうか。彼が八天堂の建立を勧めたのは、池田家に寺院の建立をさせ、地域の宗教勢力への配慮を示させることで、地域の「世論」との融和をはからせようとの意図があったと考えられるのである。
姫路城天守閣に「おさかべ姫」という妖怪が棲んでいる、との伝説の源流は、この事件にあると指摘されている。先にみた『諸国百物語』の輝政の病の話も、この事件をもとに創作されたものと考えてよいだろう。そして、この事件を契機に再び姫山にまつられるようになった長壁神が、「おさかべ姫」の正体の一つである。
用語解説
姫山の地主神
この長壁神社は、現在姫路市内に3ヶ所ある。大天守最上層、播磨総社境内、旧城下町の立町の3つである。それぞれについて由来を説明してみよう。長壁神は、もともとは刑部(おさかべ)神と表記され、姫路城が建てられる前から姫山にまつられていた。しかし、先に触れたように、天正8~9(1580~81)年の羽柴秀吉による姫路城築城の際に、いったん城下の町はずれに移された後、播磨総社の境内に摂社(せっしゃ)としてまつられるようになっていた。
そして、輝政の病が契機となって、再び姫山の上にまつりなおされることになった。その場所は、城内北東部(城門の名前で言うと、とノ二の門外)であったと見られる。しかしその後、松平氏が姫路藩主となった寛永16(1639)年に再び総社へ戻り、慶安2(1649)年に藩主榊原氏があらためて城内の社殿を再興したとされている。また、この後も総社境内にも長壁神は残り続け、城内と総社境内の2ヶ所の長壁神社が併存していた。
明治になると、城内を陸軍が使用するようになったため、城内の長壁神社は、1879(明治12)年に元塩町(もとしおまち)の総社境内地に移転した。1913(大正2)年には、江戸時代を通して総社境内に残り続けていた長壁神社も、この城内からやってきた長壁神社に合祀(ごうし)され、さらに1927(昭和2)年の国道拡幅にともなって現在の位置に移転したのが、総社境内の長壁神社である。
一方、現在の大天守最上層の社殿は、1879年に城内長壁神社が総社境内地に移転した後に、あらためてまつられるようになったものとされている。
また、姫路藩主が榊原氏に交代した宝永元(1704)年には、城下町の竪町(たてまち)にあった長源寺(ちょうげんじ)が、城内長壁神社の世話役寺院に指定された。この時から長壁神は長源寺境内にもまつられるようになった。それが現在立町にある長壁神社のはじまりである。
これら3ヶ所の長壁神社にはいずれも、刑部神とともに、富姫(とみひめ)神という女神がまつられている。『播陽万宝知恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』に収録された中世末~近世の書物には、姫山という名前の由来として、富姫の館があったとする説明を載せるものが多い。たとえば輝政による姫路城築城以前の天正4(1576)年の奥書のついた『播磨府中めぐり』では、姫山は富姫の館があったためについた名であり、刑部社、角ノ社(すみのやしろ)、富姫ノ社(とみひめのやしろ)、角岳国主(すみだけくにぬし)の社などが、当時の姫山の鎮守である、と書かれている。
用語解説
刑部神と富姫神
刑部神と富姫神の由来については、近世の段階ですでに諸説あったが、刑部神は、奈良時代末期の光仁天皇(こうにんてんのう)と皇后井上内親王(いのうえないしんのう)との間に生まれた他戸親王(おさべしんのう)である、とする説が主流であった。そして、富姫についても、この井上内親王と他戸親王との母子の間に生まれた不義の子供が富姫で、都から播磨にさまよい下って姫山に館を構えた。この富姫をまつるのが富姫神である、とする説が多い。
こうした諸説はあくまでも近世の理解であって、歴史的な事実とは考えにくい。ただし、井上内親王と他戸親王とは実在の人物である。この二人は、宝亀3(772)年に光仁天皇を呪詛(じゅそ)したとして皇后・皇太子の位を追われ、のちに幽閉先の大和国で殺害された母子であった。紀行文「戦争と怨霊」でも紹介しているように、古代から中世にかけては、こうした政争や戦乱に敗れた人は怨霊となってたたると観念されることが多かった。井上・他戸の母子も、後にたたりがあったとして、神としてまつられることとなった。こうした神への信仰を「御霊信仰(ごりょうしんこう)」と呼ぶ。姫山の刑部神と他戸親王の結びつきも、こうした御霊信仰が伝わった結果と考えられる。
一方、刑部神の本来の由来は、古墳時代~飛鳥時代にかけての中央豪族の私有民である部民(べみん)の一つ、刑部(おさかべ)にあると考えられる。刑部は全国的に広く分布し、播磨にも存在したようだ。こうした刑部の人々がまつる氏神が、本来の刑部神だったと考えられる。そして、他戸親王との名称の類似から、いつしか姫山の刑部神と他戸親王の御霊信仰が結びつくことになったのであろう。
用語解説
『播磨国風土記』の姫山伝説
さて、姫山の由来については、より古い別の伝説がある。奈良時代初めの『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、姫山の由来を次のように説明している。
むかし、国造りをした大汝遅命(おおなむちのみこと)が、できの悪い息子を島に置き去りにして船を出してしまった。ところが怒りくるった息子が逆襲し、父親の乗る船をひっくり返してしまった。そのときひっくり返った船や、こぼれ落ちたいろいろな道具がそれぞれ丘になった。(現在の姫路市街地の中にある)十四の小丘はこうしてできたもので、そのうち蚕子(ひめこ=「かいこ」のこと)が落ちたところが、日女道丘(ひめじおか)、すなわち現在の姫山である。
このサイトのほかの紀行文でも紹介しているように、伝説は時代によってその内容を変えていくものが多い。姫山の由来についても、いつしか上に記した『風土記』の説明から、他戸親王と富姫の説明などに変わっていったのであろう。ただし、いずれにしても、中世のころから刑部神と富姫神がセットで、姫山の神としてまつられていたことは確かである。
時代が変われば、そこに住む人も治める人も代わっていく。しかし、いつの世も新しく入ってきた者は、古くからいる人々を尊重しなくてはうまく暮らせない。そのような思いは歴史の中で、地域の古くからの神々を尊重する意識を生み出していった。ここまで説明してきたように、刑部神と富姫神とは、本来は別の神であった。両者を融合させた「おさかべ姫」伝説は、こうした地主神への畏れをも背景として生み出されたものなのだろう。
なお、「おさかべ姫」の話の中には、正体はきつねだったとするものもある。これはこのサイトでも別に紹介している「およし狐」の話と「おさかべ姫」が結びついたものであるが、この話については紀行文「狸と狐」であらためて紹介したい。