『諸国百物語』(しょこくひゃくものがたり)

延宝5(1677)年刊。100話の怪奇物語を収める怪談集。幽霊などの妖怪変化を扱った民話的な怪奇物語が大半を占め、先行する『曽呂利物語(そろりものがたり)』との類似関係が目立つことが指摘されている。本書以後、18世紀中ごろまで、『御伽百物語(おとぎひゃくものがたり)』、『太平百物語』、『古今百物語評判』など、「百物語」を題名の中に持つ怪談集が続々と刊行されるようになった。

 
『今昔画図続百鬼』
(こんじゃくがずぞくひゃっき)

安永8(1779)年刊。鳥山石燕(とりやませきえん)画。安永5(1776)年に刊行された『画図百鬼夜行(がずひゃっきやぎょう)』の続編で、「妖怪図鑑」としての性格を持つ。石燕はこれ以後も、『今昔百鬼拾遺』、『百鬼徒然袋(ひゃっきつれづれぶくろ)』を著した。この4つの画集で、200種以上の妖怪が描かれている。石燕は狩野派の絵師で、隠居仕事に画業を行ったと言われ、『画図百鬼夜行』以下4つの妖怪画集は、60代になってからの仕事であった。

 
宮本武蔵(みやもとむさし)

1584?―1645。江戸時代初めの武芸者。自らの著書『五輪書(ごりんしょ)』によれば、13歳から29歳までの間に60回余りの勝負をし、すべて勝利したという。大坂の陣(1614―1615)では徳川方として参陣したと考えられ、その後、姫路藩主本多忠刻(ほんだただとき)、明石藩主小笠原忠真(おがさわらただざね)の客分となって、姫路や明石の城下町・寺院建設、作庭などに関与したとされる。

寛永15(1638)年の島原の乱では小笠原氏に従って参陣、その後寛永17(1640)年に熊本藩主細川忠利(ほそかわただとし)に招かれて客分となる。寛永20(1643)年から『五輪書』の執筆を進め、正保2(1645)年熊本で没した。武芸をめぐる数々の伝説のほか、水墨画などの書画作品も残されている。

 
『播陽因果物語』(ばんよういんがものがたり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻38収録。松原集山(まつばらしゅうざん)著。『枕草子(まくらのそうし)』、『平家物語』、『太平百物語(たいへいひゃくものがたり)』、『因果物語(いんがものがたり)』など、先行するさまざまな書物から、播磨に関係のある話を集めたもの。序には宝暦7(1757)年とあり、このころ成立したと見られる。

 
池田輝政(いけだてるまさ)

1565―1613。織田信長(おだのぶなが)の家臣である池田恒興(いけだつねおき)の次男。父と兄の元助(もとすけ)が小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い(1584年)で戦死したために家督を継ぐ。関ヶ原の戦い(1600年)の後、三河吉田(みかわよしだ=現在の愛知県豊橋市)15万石から加増されて、播磨姫路(はりまひめじ)52万石の領主となる。慶長6(1601)―14(1609)年にかけて、羽柴秀吉(はしばひでよし)が築いていた姫路城を大改修し、現在見られる城郭と城下町を建設した。

徳川家康の娘である督姫(とくひめ)を妻としたために江戸幕府から重用され、長男の利隆(としたか)のほかに、督姫が生んだ子供たちなども順次それぞれに所領を得て、一時は一族で播磨、備前(びぜん=現在の岡山県南東部)、淡路(あわじ)、因幡(いなば=現在の鳥取県東部)に合計100万石近くを領有した。慶長18(1613)年死去。

 
羽柴秀吉(はしばひでよし)

1537―1598。織田信長に仕えて頭角を現し、天正5(1577)年に信長の命を受けて播磨に進出する。この時点ですでに播磨の多くの勢力は信長に服属していたが、小寺孝高(こでらよしたか、後の黒田如水)の協力などによってあらためて平定を進めた。しかし、天正6(1578)年に三木の別所(べっしょ)氏、摂津有岡城(ありおかじょう=現在の伊丹市)の荒木村重(あらきむらしげ)が相次いで離反したため、三木城などをめぐって戦った。天正8(1580)年に、別所氏のほか、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の一向一揆勢力、宍粟郡(しそうぐん)の宇野(うの)氏などを攻略して播磨を平定した。また同時期に但馬へも兵を進めていて、最終的には播磨と同じ天正8年に、守護家山名氏を降伏させて平定した。天正9(1581)年には因幡国鳥取城や淡路国を攻略するとともに、居城としていた姫路城を改築している。

天正10(1582)年の本能寺の変の後、明智光秀(あけちみつひで)、柴田勝家(しばたかついえ)らを相次いで滅ぼし、小牧・長久手の戦い(1584年)の2年後に徳川家康(とくがわいえやす)を臣従させ、天正13(1585)年に四国を平定する。翌14年には豊臣姓を名乗り関白となり、15年に九州を平定、天正18(1590)年に関東、東北を平定し全国を統一した。文禄元(1592)年からは2度にわたる朝鮮半島への侵略戦争を進めたが、慶長3(1598)年に没した。

 
播磨総社(はりまそうしゃ)

姫路城の南東にある神社。祭神は射楯大神(いたておおかみ)と兵主大神(ひょうずおおかみ)。10世紀の『延喜式(えんぎしき)』にも見える。社伝によれば、養和元(1181)年に播磨国内の神々174座を境内に合祀し、播磨国惣社(現在では「総社」と表記する)と称されたという。「惣社」とは、一般的には平安時代後期以降に見られるようになる、国府の近くに国内の神々を合祀した神社を指す。この社伝も、具体的年代についてはなお検討が必要であろうが、こうした全国的な流れの中で播磨の総社も成立したことを示すと見てよい。なお、「総社」は、一般的には「そうじゃ」と読む場合が多いが、播磨では「そうしゃ」と濁らずに読む。

 
『播陽万宝智恵袋』(ばんようばんぽうちえぶくろ)

天川友親(あまかわともちか)が編纂した、播磨国の歴史・地理に関する書籍を集成した書物。宝暦10(1760)年に一旦完成したが、その後にも若干の収録書籍の追加が行われている。天川友親は現在の姫路市御国野町御着(ひめじしみくにのちょうごちゃく)の商家に生まれた。収録された書物は、戦国末・安土桃山時代から、友親の同時代にまでわたる125件に及ぶ。これらのほとんどは、現在原本が失われてしまっており、本書の価値は高い。活字化されたものは、八木哲浩校訂『播陽万宝知恵袋』上・下(臨川書店、1988年)がある。

 
『播磨府中めぐり』(はりまふちゅうめぐり)

『播陽万宝智恵袋(ばんようばんぽうちえぶくろ)』巻18収録。芦屋道海(あしやどうかい)著。末尾に天正4(1576)年4月7日とあり、このころの成立と見られる。播磨府中(姫路)周辺の城跡、社寺、名所などを詳細に記し、池田輝政(いけだてるまさ)による現姫路城築城以前の姫路を知るうえで重要な史料である。ただし、後世の補筆も多く見られる。著者の芦屋道海は、英賀(あが=現在の姫路市飾磨区英賀宮町付近)の住人で、平安時代の陰陽師芦屋道満の子孫を称したという。『播陽万宝智恵袋』には、この他に、『近村めぐり一歩記』、『播州巡行(考)聞書』も道海の著書として収録されている。また、『播磨鑑(はりまかがみ)』にも道海の和歌が見える。

 
光仁天皇(こうにんてんのう)

709―81。天智天皇(てんじてんのう)の皇子志貴皇子(しきのみこ)の子。神護景雲4(770)年、称徳天皇(しょうとくてんのう)の死去にあたって藤原氏ら群臣に推されて皇太子となり、ついで即位。奈良時代を通して天武天皇(てんむてんのう)の子孫が天皇となっていたが、光仁の即位によって天智系統に代わることとなった。天応元(781)年、病を得て皇太子山部親王(桓武天皇、かんむてんのう)に譲位し、同年没した。

 
井上内親王(いのうえないしんのう)

717―75。光仁天皇の皇后。聖武天皇(しょうむてんのう)の皇女。宝亀3(772)年、天皇を呪詛(じゅそ)したとして皇后を廃され、ついで息子の他戸親王(おさべしんのう)も母の罪を受けて皇太子を廃された。翌年、他戸親王とともに大和国宇智郡(やまとのくにうちぐん=現在の奈良県五條市)に幽閉され、同6年4月、母子同日に没した。政府関係者による毒殺と考えられている。

 
大汝遅命(おおなむちのみこと)

『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、播磨の国づくりを進めた伊和大神(いわおおかみ)の別名として登場するが、一般的には、出雲神話(いずもしんわ、出雲は現在の島根県東部)に登場する大国主(おおくにぬし)の別名である。このことは、播磨土着の神である伊和大神が、記紀神話(『古事記』、『日本書紀』の神話)の影響を受けて、大国主と同一化されたことを示すとも考えられている。

なお、大国主は、記紀神話ではスサノオの息子、もしくは子孫とされ、少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して国づくりを進め、やがて天から降ってきた天照大神(あまてらすおおみかみ、「てんしょうだいじん」とも読む)の子孫に国土を譲り、出雲に祀られるようになったとされている。