『播磨国風土記』の巨人伝説
播磨の北部、多可郡多可町(たかぐんたかちょう)は四方を山に囲まれている。そうした山国に伝わった伝説が「天の邪鬼(あまのじゃく)」伝説である。多可では、「あまんじゃく」、あるいは「あまんじゃこ」と呼んでいるこの妖怪、役に立つのかどうかもわからないことをいろいろとしようとして、結局しくじってばかりという、かなりおっちょこちょいな話が伝わっている。
ただし、この話の中にはかなり古い要素も含まれている。8世紀初めにできた『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』では、多可郡の地名伝説としてつぎのような記述が見られる。
むかし、巨人がいて、常に背をかがめて歩いていた。南の海から北の海へ、東から西へと巡り歩いているうちに、多可郡にたどりついた。巨人は「ほかのところは低いので、ずっと背をかがめていなければならなかった。でも、ここは高いので背が伸ばせる。あぁ、高いなぁ」と言った。それで、この地域を多可郡と言うのである。巨人の歩いた足跡は、たくさんの沼になっている。
このサイトで紹介した伝説の冒頭部分は、この『風土記』の伝説とよく似ている。播磨の場合、『風土記』や中世の歴史書である『峰相記(みねあいき)』が残っているため、伝説の古いかたちがわかる場合が少なくない。この伝説も、古代に源をもち、時代を超えて語りつがれてきた話であることがわかる事例である。ただし、今日伝わっている伝説では、主人公が巨人からあまんじゃくに代わっていることに注意しておきたい。
ところで、『風土記』の巨人伝説は、全国的に見られる「ダイダラボッチ」という巨人伝説に相当する。巨人の足跡が沼や池になったという話は全国的に数多い。こうしたダイダラボッチの伝説で最もスケールが雄大なのは、滋賀県で伝えられていた琵琶湖と富士山の話であろうか。富士山はダイダラボッチが近江国(おうみのくに=現在の滋賀県)の土を掘って運んでこしらえた山であり、琵琶湖はその掘られた跡である、という話である。多可郡の伝説も、こうしたダイダラボッチ型の伝説が『風土記』段階の古い形であって、それが後に「天の邪鬼」伝説と結びついたことで今日の姿になっていったのであろう。
こうしたダイダラボッチ型の巨人伝説は、一般的に山への信仰と深い関係があるとされている。多可の場合も、『風土記』の巨人が「ここは高い」と言ったのは、“山が高い”ということであろう。この巨人自体が、山を擬人化したものであるとの理解も示されている。そこまで言い切れるかどうかはともかくとしても、この地域の人々が持っていた、周囲の山への信仰が、この伝説を生み出す背景にあったことは確かだろう。
用語解説
笠形山を登る
神崎郡市川町(かんざきぐんいちかわちょう)・神河町(かみかわちょう)・多可郡多可町の境界に位置する笠形山(かさがたやま)は、別名播磨富士と呼ばれ、笠の形にも見えるきれいな三角形の山頂部は、市川の中流域や多可郡の平野部など、かなり遠くからもその姿を望むことができる。「笠形山」という名前は、京都の愛宕山(あたごやま)からも笠のような山頂が遠望できたところから付けられたという。
山の中腹には笠形神社、麓の登山道入り口近くには笠形寺がある。明治の神仏分離以前には、笠形寺と笠形神社は一体で、現在山の中腹にある神社の境内がお寺の境内でもあった。笠形山のあまんじゃく伝説は、こうした信仰の場となっていた山を舞台とする話である。
笠形山のあまんじゃくは、多可の谷を挟んで反対側にある妙見山(みょうけんさん)に石の橋を架けようとして失敗した。笠形山には、そのときにあまんじゃくが建てた橋の脚とされる石柱がある。石柱を目指して山を登ってみる。麓の笠形神社大鳥居から歩くこと約1時間40分、途中笠形寺、笠形神社境内を経由する登山道で山頂にたどりついた。
あまんじゃくの石柱は、そこから多可町八千代区(やちよく)へと降りていく登山道を下ること、およそ200mの地点に立っていた。切り立った岩盤の先に一人ぽつねんと立つこの岩、高さはおよそ7mとされる。岩の根もとは風化によってえぐりとられていて、いつ倒れてもおかしくない感じもする。自然の力でこうした岩ができたことは確かに不思議だ。背後の岩盤の上からのながめは絶景で、視界の先に妙見山も収めることができた。この石柱については、「あまんじゃくの挽石(ひきいし)」と呼ぶともされているが、参考資料によって呼び方にばらつきがあるので、ここでは単に「石柱」としておく。
また、石柱と山頂との中間地点で少し脇道に入ると、「天狗岩(てんぐいわ)」と呼ばれている岩盤帯がある。地学的に言うと、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)の特徴である板状節理(ばんじょうせつり)が発達した岩盤で、周辺には板状にはがれた石片が多数ころがっている。これを伝説では、あまんじゃくが橋の板にしようとした石であるとしている。こうした石は、一般的には「鉄平石(てっぺいせき)」と呼ばれている。
用語解説
多可町を訪ねる
つづいて多可町を訪れた。あまんじゃくは、谷の北端の加美区(かみく)から順に田んぼにお供えを配って歩き、西脇市(にしわきし)との境界にあたる中区曽我井(なかくそがい)まできたところで夜が明けたため逃げ帰ったとされる。地図で見ると、多可町加美区、中区のほとんどがこの伝説の対象となっていることになる。この伝説は、山から降りてくると考えられていた「田の神」と、あまんじゃくとが結びついた印象を受ける。
あまんじゃくが橋を架けようとした妙見山は、多可町中区の最高峰で、中区の盆地に立つとほとんどの地点から北正面にそびえる山容を拝むことができる。また、笠形山も、中区の南部では、その山頂部を遠望することができる。多可のあまんじゃく伝説は、こうした地域のシンボルともいえる山々が舞台となっている。やはり、多可のあまんじゃく伝説の背景には、人々の山に対する信仰があると考えてよいだろう。
また、今回このサイトでは載せなかったが、多可にはほかにもあまんじゃくに関する伝説がある。多可町中区の奥中(おくなか)には、中町中学校の北にある岡山(おかやま)と、南隣の茂利(しげり)にある太子山(たいしやま)とを、あまんじゃくが天秤棒のような石でかついで運んでいこうとして、石が折れてしまって失敗したとの伝説もある。そのときに折れた石棒とされる「あまんじゃくの長石(ながいし)」が、現在奥中公民館前に残されている。
この長石は、もともとは少し東側にあたる国道427号線の、奥中交差点近くの用水路の中に埋まっていたが、交差点拡幅工事のために掘り出されて現在地に運ばれたものという。もともとこの石があった地点には、現在はあまんじゃくを描いたイラスト看板が建てられていて、長石も将来的にはこの地点に戻す計画だという。
このほか、あまんじゃくはかんしゃく持ちで、気に入らないことがあると多可の谷に火の雨を降らせたという話もある。そんなとき人々が逃げ込んだのが、中区田野口の妙見山麓にある横穴群であるという。この横穴群とは、古墳時代後期に多く造られた、群集墳(ぐんしゅうふん)と呼ばれる小さな古墳の集まりを指している。現在、田野口の隣、東山地区内にある群集墳が写真のように整備されている。これらは6世紀末~7世紀にかけて造られていったもので、それぞれの古墳ごとに、棺を入れる石室が横向きに口を開けている。
この話のあまんじゃくは少々怖い。明らかに人間に害を及ぼしている。この話は、大正12(1923)年に刊行された『多可郡誌』に載せられている。
用語解説
天の邪鬼とダイダラボッチ
さて、多可のあまんじゃくから離れて、一般的な「天の邪鬼」の伝説としては、瓜子姫(うりこひめ)の昔話がよく知られている。瓜から生まれた瓜子姫に天の邪鬼が近寄り、いたずらをしたり食い殺してしまったりするが、最後は正体がばれて殺される、などとする筋が一般的で、兵庫県域でも香美町(かみちょう)などで見られる。瓜子姫の昔話に出てくる天の邪鬼は、どちらかというと体が小さいイメージがある。しかし、多可の伝説はこれとは異なり、巨人のイメージである。
多可のあまんじゃくは、やはり瓜子姫の昔話ではなく、ダイダラボッチ伝説と縁が深い。たとえば、遠く離れたところへ山を運ぶ、といった話は、ダイダラボッチなどの巨人を主人公とする話として、全国的に確認できる。
先に述べた富士山と琵琶湖の話もその一つだが、多可に近いところで見れば、隣の丹波国氷上郡(たんばのくにひかみぐん=現在の丹波市)では、鬼が山を運んだという伝説がある。ある時大きな鬼が、現在の丹波市役所の裏にある甲賀山(こうがやま)と、その南にある犬岡山(いぬおかやま)とを、大きな棒でかついで運んでいた。しかし、現在の丹波市成松(なりまつ)あたりまで来たところ、泥田が多く歩きにくくて疲れてしまったため、そのまま山を置いて帰ったという。多可の岡山と太子山の話とそっくりである。氷上では、いつの間にか話の主役が巨人から鬼に入れかわったようだ。
伝説の世界では、このように主役が入れかわっていくことがよく見られる。そうした点を念頭に置くと興味深いのが、新潟県や鳥取県に伝わる神の橋架け伝説である。新潟県の話は、むかし、「羅石明神」という神が、越後国(えちごのくに=現在の新潟県)から佐渡島(さどがしま=現在の新潟県佐渡市)へ橋を架けようとしたところ、天の邪鬼が鶏の鳴きまねをしたために、神が逃げ帰り、橋はできなかった、との話である。鳥取県の話も、橋を架けようとした場所が越後国と佐渡島から、因幡国(いなばのくに=現在の鳥取県東部)から隠岐国(おきのくに=現在の島根県隠岐諸島)へと変わり、神の名前が「御熊の神」に変わっているものの、あとは同様の筋のものである。
こうした橋架け伝説は、笠形山から妙見山に橋を架けようとしたという、あまんじゃく伝説とよく似ている。笠形山の橋架け伝説も、もともとこうした神の橋架け伝説が、いつしか邪魔者役だったあまんじゃくを主人公とする話に変わっていったものなのではないか。くりかえし述べているように、多可のあまんじゃく伝説には、『風土記』の巨人伝説を含めて、全体的に山への信仰との深い関係がうかがえる。この地域には、古い段階では、山の神に関するさまざまな伝説があり、それが歴史の中で変化を遂げて、現在のあまんじゃく伝説になっていったのではないかと考えられるのである。
篠ヶ峰の鬼
もうひとつ、伝説「篠ヶ峰の鬼――のんきな鬼のお手伝い――」では、多可のあまんじゃくとよく似たキャラクターの鬼を紹介した。この鬼もおっちょこちょいであるところはよく似ているが、最後には人々のためになることをして天に去っていく。鬼というよりは神に近い性格が感じられる。
話の内容は、牧山(まきやま)の里(丹波市山南町小畑付近)を流れる牧山川の水量が少ないことや、船城(ふなき)の里(丹波市春日町西部)にかつては湿田(しつでん=水はけの悪い田)が多かったこと、牧山周辺がかつては養蚕(ようさん)や栗の名産地であったことなど、地域の特徴を鬼の行いによって説明しようとするものである。
鬼は、古くからしばしば説話に登場するが、たとえば平安時代など古い段階の鬼は人を捕って食うきわめて恐ろしい存在であった。この伝説のように神に近く、しかも人間的なひょうきんさを兼ねそなえた性格の鬼は、かなり新しい時代に作られた印象を受ける。丹波市は多可町の東隣にあたるので、篠ヶ峰の鬼にも多可のあまんじゃくの性格が影響しているのかもしれない。
舞台となる篠ヶ峰は、播磨の多可郡と丹波の氷上郡の境界にそびえる山で、氷上郡内では最高峰である。この話を伝えていた牧山の里は篠ヶ峰南麓にあり、この鬼伝説とは別に弘法大師(こうぼうだいし)に関する伝説が二つ伝えられている。
一つは、篠ヶ峰山頂付近の岩が牛になって夜な夜な田畑を荒らし回って困っていたところ、弘法大師が法力(ほうりき)でこれを封じ込めたというものである。 もう一つは、弘法大師が村にやってきて1杯の水を求めたところ、村人が水をあげなかったために、それから牧山川の水量が少なくなったという伝説である。後者は、篠ヶ峰の鬼の話と共通し、地域の自然を説明する伝説となっている。
この篠ヶ峰も古来神仏のいる山であった。西麓に位置する多可町加美区丹治(たんじ)には、古く篠ヶ峰に丹治大明神が鎮座していたという伝説がある。しかし、あるとき大明神は北麓の丹波市氷上町三原(ひかみちょうみはら)へ飛んでいってしまい、西麓の丹治へは大明神とともにまつられていた文殊菩薩(もんじゅぼさつ)がやってきたという。篠ヶ峰山上に鎮座していたという丹治大明神と文殊菩薩とは、伝説上の高僧である法道仙人(ほうどうせんにん)が開いた寺院を指しているという。
また、大明神が飛んでいったとされる三原の内尾神社(うちおじんじゃ)にも、やはり祭神は丹治の大登ヶ峰(おおのぼりがみね)から移ってきたという伝説が残されている。この鬼には、篠ヶ峰を拠点に活動していた修験者(しゅげんじゃ)の姿が投影されているとも考えられている。篠ヶ峰の鬼の伝説も、多可のあまんじゃくと同様に、こうした山に対する信仰を背景としているようだ。