『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)

律令国家(りつりょうこっか)の命令によって編纂された古代播磨の地理書。霊亀元(715)年前後に編纂されたものと見られている。現存するものは、三条西家(さんじょうにしけ)に所蔵されていた古写本で、巻首の赤石(明石=あかし)郡の全部、賀古(加古=かこ)郡冒頭の一部と、巻末の赤穂郡(あこうぐん)の全部の記載が欠落している。活字化されたものは、日本古典文学大系新装版『風土記』(秋本吉郎校注、岩波書店、1993年)のほか、全文を読み下しした、東洋文庫145『風土記』(吉野裕訳、平凡社、1969年)などがある。

 
『峰相記』(みねあいき)

峰相山鶏足寺(みねあいさんけいそくじ=現在の姫路市石倉の峰相山山頂付近にあった寺)の僧侶が著した中世播磨の宗教・地理・歴史を記した書物。原本は本文冒頭の記述から貞和4(1348)年ごろに成立したと考えられる。現存する最善本は揖保郡太子町(いぼぐんたいしちょう)の斑鳩寺(いかるがでら)に伝わる写本で、奥書から永正8(1511)年2月7日に書写山別院(しょしゃざんべついん)の定願寺(じょうがんじ)で写されたものであることがわかる。活字化されたものは、『兵庫県史』史料編中世4(兵庫県史編集専門委員会、1989年)や、全文口語訳をした、西川卓男『口語訳『峰相記』――中世の播磨を読む――』(播磨学研究所、2002年)などがある。

 
溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)

火山の噴火による噴出物が、地上に堆積したときに、自らが持つ熱と重さによって溶けて圧縮されることによってできる岩石。

 
板状節理(ばんじょうせつり)

岩石の中の割れ目が平行に発達し、割れた岩塊が板状に見えるもの。ここで出てくる溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)のような火成岩の場合、マグマが冷える時に形成されると考えられている。

 
群集墳(ぐんしゅうふん)

5世紀後半以降に造られるようになった、小規模な古墳が密集したもの。円墳や方墳によって構成されるものが多く、7世紀ごろまで造られ続けた。こうした古墳群の発生の背景としては、限られた首長のみから、その一族の人々を含めるようになるなど、古墳を造営できる人々の範囲が広がったためと見られている。

 
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)

774―835。日本に真言密教(しんごんみっきょう)をもたらした平安時代初めの僧侶。同じ時期に天台宗をもたらした伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)とならんで、この時期の日本仏教を代表する人物。延暦23(804)年遣唐使留学僧として入唐。長安(ちょうあん)青龍寺の恵果(えか、「けいか」とも言う)に真言密教を学ぶ。大同元(806)年帰国。弘仁7(816)年朝廷より高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を開くことを許される。弘仁14(823)年朝廷より東寺(とうじ)を与えられ、真言密教の道場とした。承和2(835)年死去。延喜21(921)年、朝廷から弘法大師の諡号(しごう、死後の贈り名)が与えられた。

 
法道仙人(ほうどうせんにん)

奈良時代に活躍したとされる伝説上の宗教者。インドの生まれとされ、主に播磨から丹波南部、但馬南部、摂津西部にかけて法道が開いたとの伝承を持つ寺院が多数存在する。

その伝承の中心は加西市の一乗寺(いちじょうじ)にあったと見られる。あるとき布施(ふせ)を乞うために、法道が瀬戸内海を行く船に鉢を飛ばしたところ、船頭が積荷は官庫に納めるためのものなので与えられないと断ったところ、船の米俵が次々とひとりでに一乗寺を目指して飛んで行ってしまった。船頭が許しを請うと、法道は俵を飛ばして船に返したが、1俵だけ途中で落ちてしまった。そこで、この俵が落ちたところを米堕(よねだ=現在の加古川市米田町)と呼ぶようになった、という伝説がよく知られている。

こうした伝説には、長谷寺(はせでら)の徳道(とくどう)や、信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)に登場する命蓮(みょうれん)などの説話の影響が考えられている。法道伝説は、こうした中央で成立した説話を参考に作り出され、地域限定的に広まったものと見られているのである。こうした法道伝説とよく似た、地域に特徴的な宗教者伝説としては、備前(びぜん=現在の岡山県東部)を中心に広がる報恩大師(ほうおんだいし)伝説などがある。